「あなたがたは神の神殿」(2019年10月20日礼拝説教)

歴代誌下7章11~16節
コリントの信徒への手紙1 3章10~17節

今日お読みしたコリントの信徒への手紙3:10節で、パウロは「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家にように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています」と、コリントの教会をひとつの家になぞらえ、パウロがイエス・キリストという家=教会の土台を据えた者であり、他の人がその上に家を建てているのだということを語り、そこから展開して17節では「あなたがたはその神殿なのです」と、キリストの民、すなわちイエス・キリストへの信仰によって形成される交わり=教会こそ、その交わりの中に神の霊が住みたもう神の神殿であるということを高らかに宣言しています
ちなみに、「教会」という言葉はギリシア語でエクレシア。このもともとの原語の意味は、(ある目的をもって)召された者の群、呼び出された人々の群という意味の言葉で、実際の建物自体を指す言葉ではなく、集められた私たちのこの交わりを表す言葉です。ですから、私たちが「教会員」と呼ぶ時、その「召された者の群の一員」という意味であり、教会の働きとは、イエス・キリストの福音を正しく宣べ伝えることであり、また、神と私たち、また集められた者たちの交わりのため、ということになりましょう。

 そして本日の旧約朗読では、ソロモン王が神殿―これは建造物としての神殿―を奉献し、神殿で神に祈りをささげた日の夜、神ご自身がその祈りに答えられた、という箇所をお読みいたしました。
この建造物としての神殿と聞きますと、皆様はどういうイメージをお持ちになられますか?
私は恥ずかしいことに、信仰を持ち始めて聖書を知るようになりしばらくの間、神殿と王の宮殿というものが頭の中でごちゃまぜになっていたことを思い出します。イスラエルに於いて、それらは全くの別物です。
ソロモン王の建てた神殿は神の家、神が特別に聖別された祈りの家でした。とはいえ、神は地上にお住まいになるお方ではありませんので、父なる神ご自身は天におられ、お読みした歴代誌下7:16の言葉によれば、神殿は、父なる神に代わって「神の名が永遠にとどめられている」ところであり、コリント3:16によれば、「神の霊」が住まわれる場所とパウロは語っています。
このことを、私たちのエクレシア、教会に当て嵌めますと、私たちの交わりのうちに、「神の霊」=聖霊が満ちておられる、と言い換えられましょう。

そして、神殿でなされることは、立派な王が居て、その人を拝むなどということではありません。神殿で行われることの中心は、動物の犠牲です。神殿とは、目や耳を塞ぎたくなるような死の場所、数知れぬ動物たちが、人間の罪の身代わりとなって屠られ、燃やされ、神にささげられる場であるのです。血にまみれ、また血なまぐさい臭いに満ち、見るにも聞くにも、嗅ぐにも、人間の五官のすべてを苦しめるような場であったはずです。  

神殿で屠られる動物の「死」とは、人間の罪の死を意味いたしました。
聖書が語るところは、神と人間との間には、はじめの人、アダムが犯した罪により、人間には「罪」という神に背く性質が入ってきたため、神と人との間には埋めがたい断絶ができた。神は、その断絶を埋めるために、人間の罪の身代わりとしての動物を犠牲としてささげることを、律法によって命ぜられたのです。
人間の罪が動物に移されて、罪を移された動物が罪在る人間の身代わりとなって命を落とし、血を流して罪に死ぬ。そのように人間の罪を罪として処断する、神殿とは、それによって神と人が和解をさせられる場所であったのです。

エルサレム神殿のあった場所は、そのはるかまた昔、アブラハムが息子イサクを神にささげたモアブの丘でありました。アブラハムがひとり子イサクを神の命令によってささげ、アブラハムがいまやまさにイサクに手を掛けようとした時、神がその手を止められ、身代わりの犠牲の子羊がそばに備えられたという、その場所が、のちの神殿の至聖所となったのでした。
こ のように神殿というのは、犠牲祭儀と結びついており、単純に神が鎮座まします場ではない。神殿とは神と人とが出会う場所です。しかしながら、常に犠牲を伴いながら、神と人とが和解する場所、また人が自分の罪をあらわにさらけ出し、悔いて神に赦しを求める場であり、また罪の赦しの宣言をされる場であったのです。
そのような場所を譬えて、パウロは今日の御言葉の中ではキリスト者の共同体である教会を、神の神殿であり、聖霊が住まいであると語っています。

パウロはコリントの信徒への手紙一、3章10節以下で、コリントの教会のことを自分自身が造り上げた場所として語り始めていました。この御言葉は、1章から語られている、教会で、私はパウロにつく、アポロにつくなどと、内部争いが起こっていたことをパウロが憂いていることと関連しておりますが、分裂をしているかに見えるコリントの教会ではあるけれど、その土台はパウロ自身が熟練した建築家のように据えたのだということを語ります。土台とはすなわちイエス・キリスト。パウロにとっては2章2節にありますとおり十字架につけられたキリストなのです。

パウロがはじめてコリントを訪れたのは、第二伝道旅行の際であり、1年半にわたりコリントに滞在して、この時、パウロは教会の土台、基礎を作りました。そしてパウロがそこを去った時から数年の間、他の人びとがパウロが据えた土台の上に、さらに教会を建てあげている。パウロは、パウロが据えたイエス・キリストという土台のほかの土台を据えることなどもってのほかであると語ると同時に、その土台の上の建て上げ方を、金、銀、宝石、木、草、わらのように、建て上げる素材を譬えてパウロは語っています。この譬えは、教会を建て上げるさまざまな人の働きのことを素材に譬えていると言ってよいでしょう。教会を建て上げる人の責任を問うていると言ってもよいかもしれません。

そして、3章16節に於いてパウロは「あなたがたがは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちのうちに住んでいるということを知らないのですか」と語ります。これだけを日本語で読みますと、私の体自体が神殿である、ということをここでパウロは語っているように思えますが、―実際、6章に於いては、私たちの体は、神からいただいた聖霊が宿っている神殿である、ということをパウロは語っているのですが―ここで使われている「神殿」という言葉はナオスという単数形が使われておりまして、「あなたがた」という複数形に対する、単数ひとつのナオス「神殿」ですので、「あなたがたがひとつの神殿」すなわち教会共同体またキリスト者全体が神殿である、とここでパウロは語っているのです。

パウロのこのような言葉を読んでおりますと、私たちキリスト者は、イエス・キリストを土台としていると自分で思いながら、いつのまにかキリストの十字架という確 かな土台を自分勝手な、自分の都合のよいものに摩り替えてしまっているのではないか、ということに心を向けざるを得ないのではないでしょうか。イエス・キリストを信じていると言いながらも、いつのまにか目の前にいる人間を誇り、時に自分自身を誇り、知恵のあるものと考え、神の御前に人間があたかも神よりも大きな者であるかのように振る舞い、また、コリントの教会がそうなってしまっていたように、人を崇拝するような過ちに陥いることがあるのではないでしょうか。
教会の歴史を振り返ってみても、キリスト教会は常に正しいわけでは決してありませんでした。むしろ、過ちの連続です。信仰の名による数々の戦争がありました。聖書の間違った解釈による多くの過ちにより。キリストの名を用いて、多くの罪を歴史の中に刻んで来ました。あのナチスドイツも、イエス・キリストを十字架に架けたのは、ユダヤ人である、という人々の憎悪を掻き立てることを利用して、ユダヤ人の迫害と虐殺を行ったという側面すらあるのです。
人間の現実というのは、私たちの思いを超えて罪にまみれ残酷なもので、自分よがりに考えた間違った聖書の解釈によって、歴史はイエス・キリストの名によって、数々の悲劇を引き起こして来ています。本当に罪深いという言葉だけでは言い表せないほどです。神はこの現実をどれほど悲しんでおられることでしょうか。
また世界の歴史を鑑みるときのみならず、私たちの日常の教会生活の中でも、さまざまな過ちを犯すことがあるのではないでしょうか。これは教会にとってよいことだ、これこそが正しいことだ、という主張が、いつしかイエス・キリストの十字架という土台から離れて、「私自身の思い」という土台に摩り替わっていることが果たしてないでしょうか?へりくだった謙遜な思いからではなく、イエス様の名を用いて自己の名を高めようとする、自己の思いを実現をしようとしている、そのようなことはないでしょうか?

パウロは、コリントの教会のそのような現状に対し、大いに憂い、手紙を書いています。
そしてさらに13節では、「かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです」と語ります。
かの日=すなわち、終わりの審判のときに、キリストの土台の上に築き上げたと思ってきたものは、おのおのどんな仕事であったかを火によって吟味されるというのです。  
木や草や藁で建てたものとはなんでしょうか?それらは火で焼かれると燃える弱いものですね。弱いものとはなんでしょう?おそらくは人間が自分本位の思いで作り上げたものではないでしょうか。
旧約聖書に於いては、人間を表すアダムという言葉、これははじめの人の名前でもありましたが、アダムとは弱い人間、人間の弱さを表す言葉です。人間は肉体のみならず、それ自身の思いというのは、考えというのは弱いものしかないのです。キリストの土台の上に、土台にふさわしくしっかりとした火に焼かれても燃え尽きない素材で建て上げなければ、終わりの時の神の裁きを前に燃え尽きてしまいます。
そのような土台にふさわしい燃え尽きない金や宝石とはなんでしょうか?それは、へりくだり、父なる神の御心をなすことだけを願われ十字架に架けられるほどに己を低くされたイエス・キリストに倣い、十字架のキリストの土台の上に立ち、土台にふさわしい、謙遜な、祈りと献身による働きなのではないでしょうか。パウロは、お読みした19節で、「この世の知恵は、神の前で愚かなもの」また、12節で「だれも人間を誇ってはなりません」と語っています。
主はそのように、火によっても燃え尽きない、謙遜な祈りと献身による教会を、キリスト者の共同体を造り上げることを熱望しておられるのです。

さらに15節には、不思議な言葉があります。「燃え尽きてしまえば損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」と。教会を建て上げるそれぞれの働きの中で、燃え尽きるものとは弱い人間の思いで造ったものと言えます。しかし、働きは空しいものであって燃え尽きても、その人は、「火の中を潜り抜けて来た者のように救われる」というのです。
この御言葉は弱い私たちに対する恵みの言葉ではないでしょうか。私たち人間は弱いもので、時に神の思いなのか、はたまた自分の勝手な思い込みなのか、混同して分からなくなってしまう。祈りつつ励んでも時にわき道にそれてしまったりいたします。金のつもりでも実は藁で建て上げてしまい、働きはやがて火によって燃え尽きてしまう。そのような働きしか出来ない者であったとしても、火の中をくぐり抜けてきた者のように、救われるというのです。
火の中通る、すなわち神の試みを通して救われるというのです。火が送り込まれる、それは大きな試練です。積み上げたものが目に見えて失われる悲しさは驚き戸惑い、神にこれはなぜかと問いかけざるを得なくなるでしょう。火の試みによって問いかけが生まれ、問いかけは祈りとなり、そこでようやく気づく真理があります。気づかされる罪があります。しかし神は私たちを決して見捨てることはない。私たちが罪に気づくまで忍耐強く待ってくださるのです。また気づかせようとしてくださいます。私たちは己の罪を見据え、神に罪の赦しを乞わなければなりません。

「あなたがたは神の神殿です」パウロは告げます。
神殿を奉献した時、王ソロモンは祈りをささげました。歴代誌下6章に出て参ります。罪を犯したために呪いの誓いを立てさせられたとき、敵に打ち負かされたとき、立ち返って御名をたたえ、この神殿で祈り、憐れみを乞うなら、これに耳を傾け赦して下さい、罪から立ち帰るならば、罪を赦し、歩むべき道を教えて下さい、災いと病苦を思い知って、神殿に向かって手を伸ばして祈るなら、そのどの祈り、どの願いにもあなたはお住まいである天から耳を傾け、罪を許してください、と。ソロモンは人間の弱さを知った上で神殿が悔い改めるものを救う場としてください、叫び祈る声に耳を傾け助けてくださいと祈ったのです。
そしてそれらの祈りに対し、主なる神は7章15節「今後この所でささげられる祈りに、わたしは目を向け、耳を傾ける。今後、わたしはこの神殿を選んで聖別し、そこにわたしの名をいつまでもとどめる」と主なる神は答えられます。
主なる神は、民が罪を悔い改めて祈り、主の顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るならば、その祈りに耳を傾け、罪をゆるし、彼らの大地を癒すと約束されたのでした。
神殿とは罪の赦しを乞うものが、身代わりの犠牲の代価によって、罪の許しの宣言を受ける場であります。そこで祈る祈り、悔い改めを神は深く憐れまれ、その祈りは聴かれるのです。

イスラエルの神殿は今はありません。しかし、パウロは申します。「あなたがたは神殿なのです」と。あなたがた―いま、ここに召されて集められた私たちひとりひとりです。そして、私たちは集められ、土気あすみが丘教会という、ひとつの教会を形づくっている。ここは神の神殿なのだと、パウロは語るのです。
今は動物の犠牲はありません。私たちの主イエス・キリストがすべての罪を負い、十字架の上で死なれたからです。すでに完全な犠牲のささげものはささげられました。この聖餐卓は、主が既に私たちの犠牲として神に献げられたことをあらわす、教会堂の中心です。犠牲が既に備えられた私たちがなすべきことは何でしょう?それは、心からの罪の悔い改めと祈りです。私たちがなすべきことは、ただ祈ること、悔い改めること、それだけでよいのです。
イエス・キリストは自らが犠牲として十字架で死なれることにより、私たちがただ罪の悔い改めに導かれたイエス・キリストへの信仰によって罪赦され、救われる道を 拓かれたのです。
そして私たちはここで、どんな弱さをさらけ出してもよいのです。すべてを注ぎだし、祈って下さい。間違ったことを思ったりしたとしても、私たちには悔い改めと赦しの道が開かれます。イエス様の十字架は私たちのすべての罪を赦してくださいます。

私たちは、礼拝毎に主イエス・キリストの十字架の贖いを心に刻みたいと思います。人となられた神ご自身が犠牲のいけにえとなられた、この計り知れない恵みを私たちは片時も忘れることのないものでありたいと思います。キリストの死は私たちの命です。
キリストの命に、豊かな恵みに飛び込みましょう。絶えず祈り、御心を求めつつ、この主も歩んで参りましょう。