「初めに神は天地を創造された」(2019年10月27日礼拝説教)

創世記1:1~5、24~31
ヨハネによる福音書1:1~5

 金曜日、千葉は三度の水害に見舞われました。この教会に来ておられる方の中にも、大変な水害を経験された方々がおられます。
 この近年の気象の変動に、自然の脅威、私たちは恐れ、なす術が見出せない、不安で、混沌とした言い知れない暗闇が私たちを、この地域を覆っているように感じられてしまいます。東日本大震災の時には、人間の知識、知恵の産物と思われていた原子力発電所が津波で壊され、収拾など出来ないまま、その被害は今尚止まることなく広がっています。人間の知識は、自然の脅威の前に、跡形もなく消え去ってしまうものだと思わされます。そして人間という存在も、はかない。
 モーセの詩と言われる詩編90編には「健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。御怒りの力を誰が知り得ましょうか」という言葉があります。
聖書は、今から2900年程前から1900年位前までのおよそ1000年間に書かれ、纏められた書と考えられていますが、いつの時代の人の心も状況も変わらない。労苦と災いが世を覆っていると言えるのではないでしょうか。
 しかし、聖書の語る信仰に生きる民は、目に映る現実にただ打ちひしがれる人々ではありませんでした。世の労苦を負いながらも、労苦の中に沈み込むのではなく、心を目に見えぬただおひとりの神に向けるのです。世の現実を戦いながら生きると共に、目には見えない神と共に生きているのです。そして、神に対して祈りのうちに自分をさらけ出して訴え、神の言葉に聞きながら、神の御心を問いながら、神が必ず為してくださることに希望を置いて、生き抜くのです。

「初めに、神は天地を創造された」
 この言葉が聖書の最初の言葉です。天=私たちの理解する宇宙でしょうか。そして地とは、私たちの住むこの地、地球でありましょう。神は、私たちの住むこの地、地球、そして限りない天=宇宙を創造されたお方。キリスト教信仰は、神はおひとりであり、このおひとりの神こそがすべてのものの造り主である、万物の創造者であられるということが信仰の土台にあります。
 さらに続きます。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ」こうして光があった」。
 今日お読みした、新約聖書ヨハネによる福音書のはじめは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」でした。これら旧約聖書創世記のはじめと、新約聖書ヨハネによる福音書のはじめは、このふたつの書の冒頭の言葉は、互いに補完し合う関係にある言葉です。
 神はおひとりの神であられますが、父なる神、子なるキリスト、聖霊という三つのありかたをされているお方、神は「三位一体」というのが、キリスト教の理解ですが、創世記のはじめの天地を創造された神は、父なる神。父なる神は、「光あれ」と言葉を発せられて光が生じました。魔術のような特別な何かをされたわけではなく、ただ「光あれ」と言葉を発したことで、「光」という事柄が生じたのです。その神の発せられた言葉が、子なる神、イエス・キリストであった。神の創造のはじめから、イエス・キリストは神と共におられた神の御子であられた、これが聖書が語ることです。さらに言えば、「神の霊が水の面を動いていた」と語られる、「神の霊」が聖霊なる神。神は創造のはじめから、三位一体、三つにいましておひとりの神であられました。
 そして、神は6日間を掛けて、言葉を発せられることによってすべての創造の業を終えられました。最後の6日目に創造されたことがらが、この地を生きるさまざまな獣たちであり、一番最後に作られたのが私たち人間であったのです。そして、神は七日目に休まれました。これが日曜日の起源です。

 科学技術が発達している現在、私たちは物事の根拠や科学的な証明を求めるようになりました。聖書に関する学問も同様です。17後半~18世紀頃、科学技術の発達と共に、聖書学も書かれた時代背景、語句の研究など、科学的論証も含めてさまざまなあらゆる方向から本当に細かく切り刻むような学問として発展しました。それは現代に至るまで続いています。その分析に中から、神が6日間を掛けて言葉によって天地のすべてをお造りになったという創世記の御言葉は、科学的根拠が認められないからと切り捨てる人たちも多く出てきました。ダーウィンが進化論を唱えて以来、進化論こそが科学的に相応しいとされて行き、神の創造の記述は「神話」として隅に追いやられることになりました。人間はどうしても、神の言葉である聖書の御言葉よりも、人間の知恵、科学的な論証を好みます。
 しかし、人間は聖書の御言葉=イエス・キリストの前に、人間の思考、学問をもって「根拠がない」などと切り捨てることが出来るでしょうか。人間の命は、限りあるもので、この世でどれほどの栄誉を誇ったとしても、どれほどの業績を残したとしても、ひとの命はあっという間に取り去られる、弱い土の器です。神の御前に人間の知り得る知識には限界があります。神の御前で、私たちにはただ、信仰が必要なのではないでしょうか。闇雲に「信じます」と自らを振い立たせるというのではなく、何よりも神を愛して、神に心を向けて、疑問があれば祈りの中で神に問いつづけることは必要です。神は人間が論証出来るようなお方ではありません。神は必ず求める者に働かれ、「必死で信じてみる」ということを超えた神の側からの啓示をお与えになりましょう。
 相応しいたとえになるか分かりませんが、以前、伝道師になりたての頃、他教会員で、教会を暫く離れておられたご夫妻が私の説教の日に初めてその教会に来られ、その時の「信仰―それは神の業」という説教題に、なぜか心が変えられたと仰ったことがありました。そして何度もこのことを私にお話しくださるので、私もその題を記憶してしまっているのですが、神は時々不思議な働き方をされます。理屈ではなく、ふとした瞬間に、信仰が神の業として与えられる、それもふとした瞬間に。聖霊が働かれ、神の愛に触れて変えられることがあります。そのような経験をされた方は、この中にも多くおられるのではないでしょうか。
 そして与えられた信仰によって、人間の理屈で理解出来ることを超えて、生きて働かれる神の言葉によって万物は創造されたのだということ、そしてすべては神のご支配の中に治められているのだということが心のうちの確信となり信じたならば、そして私、私たちひとりひとりも、人間を遥かに超えたただおひとりの神によって造られたものだということを認めるならば、私たちの世のさまざまな恐れは、「神の御言葉にすべてを委ねる」という信仰と希望が心にある新しい生き方へと変えられることでしょう。
 私たちは、この神の創造の記述、「神は言葉によって万物を創造された」ということを信仰をもって受けとめてさせていただきたいと願っています
 神の創造の始まりは「混沌」と「闇」でした。私たちが、時に世の苦労や災いの中で、歩むべき道が見えなくなり、混沌の中に、希望を失うように、世の始まりは「闇」であったのです。神は、混沌と闇を、まずはじめに打ち破られました。闇の中に光が、神の言葉=イエス・キリストが発せられることによってそれは起こりました。神の言葉が発せられるところに、光があったのです。
 神は光を見て、良しとされました。そして光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれました。
 夕べがあり、朝がありました。これが第一日目の出来事です。
 聖書の世界。それは、闇があって光があるという世界です。聖書の舞台となるイスラエルでは、一日は夕方から始まります。私たち日本人は、一日の始まりは朝だと思っていますが、イスラエルでは日が暮れた時が、一日の始まりなのです。闇を通り抜けて、朝の光が来る。世の暗闇をくぐりぬけて、神の光があらわされる。このことも、キリスト教信仰の大切なメッセージです。神は私たちの苦しみ、災い、それらの闇を闇で終わらせられることはありません。神は、必ず光を、私たちに与えてくださるお方なのです。
神は、私たちを神ご自身の熟慮によって、愛のご計画のもとに創造されたのですから、神はご計画をもって私たちを導いて下さいます。

 そして6日目、神は地の生き物を造られ、最後に遂に、人をお造りになりました。
「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」
 神はおひとりであられますのに、どうして「我々」という複数形の言葉で語られるのか、まず不思議に思うのですが、これはちょっと難しいですが、「熟慮の複数」という表現方法なのだと考えられています。
研究論文で、ひとりの著者が論じながらも、「我々」という熟慮の複数形としての主語を使って展開していく方法がありますが、私たちも真剣に真実に物事を考えて決定しようとするとき、さまざまな方法を思い描きます。ここで「熟慮の複数形」として「我々」が使われているということは、神は、本当に真剣に人間を造ることに思い巡らされたのでありましょう。
そして、決定されたことが「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」ということでした。そして、海、空、地上の動物たちのすべてを支配させる責任を負わせられたのです。「支配」とありますが、これは人間が神からの委託を受けて「管理する」ということを任せられたということです。動物を人間の欲しいままにするのではなく、動物たちを、人間と同様に、神の被造物として重んじつつ、神が動物たちを重んじるように大切に管理をすることを任されたのです。それは、神の造られた自然を大切に「管理をする」ということを任せられたことでもあります。このことは、現代の地球温暖化などの自然科学の発展によって齎された弊害を、問い直さなければならない根拠があると思われます。

 さらに「神は御自分にかたどって人間を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」のです。
「神にかたどる」とは、どういうことを言うのでしょう?聖書は人間が粘土や木や金属を使って、神を思い描きながら像を造ることを禁じています。神は人間の肉眼では見えないお方です。神の姿を私たちは人となられた神、イエス様を通して思い描くことは出来ますが、しかし、おそらくこの「御自分にかたどる」というのは、人間のこの肉体が神に似ているということではないでしょう。人間の体は、土の塵で造られた土の器ですから、神が私たちと同様の体を持っておられるとは考えられません。
 この「神にかたどる」ということは、神が熟慮をもって人間を造られたように、神が考える意志を持つ、人格のあるお方であられるように、人間も、考える意志を持つ、人格のある存在として、ただおひとりの神と語り合う友として、神の愛の対象として、神と向き合う存在として造られたということなのです。
神はおひとりの神です。おひとりのお方、はじめであり終わりであるただひとりのお方は、もしかしたら、そのはじめのはじめ、孤独であられたのではないでしょうか。愛し合う友を欲せられたのではないでしょうか。そして人間を「神にかたどって創造された」おひとりの神は、人間をご自身の限りない愛の対象として、友として、そして互いに愛し合う存在としてお造りになられたのです。
 そして人格のある神は、人間を神に似せて人格のある者としてお造りになられ、人間が神を求め、神と愛し合い、語り合い―人間の祈り―神と共に生きることを望まれたのです。
 神は、造られたすべてのものをご覧になり「極めて良かった」と喜ばれ、ご自身の創造したすべてのものを限りなく愛されました。

 しかし、人間は造られて暫くして、神を裏切ります。神にいただいた人格、考える者、考え物事を判断し、選ぶことが出来る知恵を与えられていたにも拘らず、その考える力を、人格を、サタン=悪魔を象徴する蛇の誘惑に軽々と乗ることに使ってしまい、神と向き合うことから離れ、神の言葉ではなく、悪魔の言葉に従ってしまったが故に、人間は―厳しい言葉になりますが―悪の支配の中に入れられる者に落ちてしまい、神に背く罪という性質を持つ者となり、死ぬべき者となってしまったのです。聖書の語る人間の現実、世の現実というのは、罪の世であり、悪の力が支配している世なのです。

 神は、愛して、ご自分の友としてお造りになられた人間の罪を狂おしいほど悲しまれました。人間を何とかご自身のもとに立ち返らせようと、モーセを通して律法を与え、さまざま預言者の言葉を通して、ご自身の意志を、イスラエルの民を通して伝えられ続けられましたが、人間は神に立ち返ることが出来ませんでした。
 そして、遂に、神が人間を救うために、神ご自身が人となり、罪のこの世の、それも最も低いところにイエスという人としてお生まれになり、そのご生涯を通して神はどのようなお方であるか、神の愛を表され、その最期は、すべての人間の罪をその身に帯びられ、すべての人の罪の贖いとして、代価となって、十字架の上で死なれたのです。神の愛は、人間のために、命を捨てるほどの愛であるのです。
 神ご自身が人となられ、罪の世を生きる人間の苦しみも悲しみも悩みもすべて神ご自身がその身をもって体験をされ、人間として最も苦しい死を迎えられました。神は、私たちの世の苦しみのすべてをご存知であられます。そして私たちの涙も、世の理不尽も、愛の苦脳も、すべての人間の闇を、ご自身が引き受けられ十字架で死なれました。
 しかし、イエス・キリストは復活をされたのです。神はご自身の苦しみを通して、命の道を、光の道を拓かれました。神が人間の罪のための犠牲となられることで、人は、人となられた神、イエス・キリストを信じ、キリストの十字架の御前に自分の罪を悔い改めることによって、罪赦され、神が人間を創造された時のように神と共にある命を生きる者とされる、そのまことの命の道を拓かれたのです。 闇は光に、夕は主の復活の朝に変えられました。

 私たちは一人残らず、神に愛され、神に造られた者たちです。人格を与えられ、自由な意志を与えられた者たちです。しかし、はじめの人アダムの罪によって、自由な意志を、神に背く、神から離れることに使ってしまう罪という性質を持ち、また世のさまざまな苦労や悲しみを持つ者たちでもあります。
 しかし、イエス・キリストを通して、神の救いは私たちに明らかにされました。罪を悔い改め、神と向き合い、神に祈り、神と共に歩む時、私たちの世の困難も悲しみもすべて、神の御心とされて、苦しみは喜びに、闇は光に変えられます。
 神の創造のはじめは、闇の中に光を差し入れることだったのですから。神に愛されて造られた私たち。罪に堕ちたけれど、イエス・キリストを通して、神に立ち返る道を与えられた者たちの人生の苦難、闇と思われることもすべて、神は必ず光に変えてくださいます。そしてどのような時にも、神は、私たちを求め、私たちが神に立ち返り、神にかたどって造られた者として神と共に生きることを待っておられます。
 どんな時にも、神は私たちの味方であり希望です。必ず、私たちのどんな苦しみを通しても、喜びに変えてくださいます。どのような時にも、私たちを造り、闇に光を差し入れてくださった神が私と共におられることに希望を持って、信じて、歩みましょう。