「モーセー水の中から引き上げられた人」(2019年11月17日礼拝説教)

出エジプト記2:1~10
ヘブライ人への手紙3:1~6
 
 9月の台風15号、19号、そして豪雨により、私たちの住むこの地は多くの水害が起こり水の恐ろしさを思い知らされた時でした。
「水」、私たちの生活にとって無くてはならないものであり、また私たちの体の多くは水で出来ています。水は、生きるために大切な必要不可欠なものであると同時に、人間の命を脅かすものでもあることを、私たちは身近に経験をいたしました。
詩編18編にはこのような祈りの言葉があります。「主よ、あなたの叱咤に海の底は姿を現し、あなたの怒りの息に世界はその基を示す。主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ、大水の中から引き上げてくださる」(16,17)。
聖書に於いて「水」とは、生命に敵対する混沌の力の象徴として語られており、水に沈むということは死の比喩として語られ、「大水から引き上げる」ということは、救いを意味いたします。
 旧約聖書創世記に於いて、人間の罪が増し加わる中、神がくだされた人間に対する裁きは、「洪水」でした。ノアは、神から選ばれ、箱舟を造ることを命ぜられ、ノアとその家族、そしてすべての動物のひとつがいずつが箱舟に乗り、水の中をくぐりぬけて救われた出来事が語られています。そして、この出来事は、新約聖書ペトロの手紙一3章に於いて、私たちの受ける「洗礼」と結び付けられて語られています。お読みします。「この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたを救うのです」(20b~21)と。
 洗礼とは、水に沈み罪に死に、引き上げられて新しい命に生きる。そのことを意味するのです。しかし、教会で授ける洗礼というのは、神からの一方的な恵みではなく、救われる人間の側の罪の自覚と罪の悔い改め、イエス・キリストの十字架を通して神に背を向けていたそれまでの生き方から、神に向き直ることが必要なことでもあります。

 さて今日の御言葉は、旧約聖書に於ける最大の人物と言われるモーセの生まれた時の出来事です。聖書に於ける「名前」は、その人そのものを表すものとして語られるのですが、モーセという名前は「水の中からわたしが引き上げた」という意味の名前です。「水」―裁きであり、救いである「水」。それがモーセの名前の由来です。

 今、「降誕前」の時節を過ごしています。「降誕前」とは、イエス・キリストの誕生に至るまでの、旧約聖書の歴史を振り返る時です。先週はアブラハムのことをお話しさせていただき、アブラハムからイスラエル民族の歴史が始まることを申し上げました。
75歳で神に召されて神に導かれる新しい生き方を始めたアブラハムは、神の約束どおり男の子イサクを与えられました。イサクにはエサウとヤコブというふたりの男の子が与えられましたが、弟のヤコブが父イサクの祝福を受け取る=奪いとり、アブラハム、イサク、ヤコブの三代三人がイスラエル民族の「父祖」と呼ばれるようになり、ヤコブからイスラエル12部族と呼ばれる共同体が生まれ、イスラエル民族を形づくる基礎が築かれました。
 ヤコブ=神によって名前をイスラエル=神が戦うという名前と変えられた人ですが、この人の12人の息子の中で11番目のヨセフが、兄たちの嫉妬によってエジプトに売られてしまうという出来事がおこります。しかしヨセフは不思議な神の守りの中、エジプトの高官にまで上りつめます。
その頃、ヨセフの身を売った兄たちは、自分たちの住む地が飢饉に襲われたため、まさか、ヨセフがエジプトで生きて、エジプトの高官になっていることなど思いもよらないままエジプトに助けを求めに来たところ、ヨセフはそれが自分の兄たちであることに気づき、葛藤しながらも兄たちを赦し、父イスラエルともども家族をエジプトに招き寄せます。イスラエル民族=ヘブライ人と出エジプト記では呼ばれている人々は、そのような経緯で、その後エジプトに暮らすようになっていたのです。 

 モーセが生まれた頃というのは、ヨセフの生きていた頃から400年ほど経った時でした。紀元前1400年頃ということになりましょう。ヨセフが生きていた時代は、イスラエル民族=ヘブライ人はエジプトで重んじられていましたが、ヨセフが死んで400年が経つ中、民族の数は増していき、そのことに脅威を抱いたエジプトの王ファラオは、イスラエルの民=ヘブライ人を奴隷とし、強制労働として、重労働を課して虐待をしたのです。そして遂には全国民に「ヘブライ人の生まれた男の子は一人残らずナイル川に放り込め」というお触れを出した、そのような時代に、モーセはヘブライ人の子として生まれました。

 産まれた子が男の子であるなら、ナイル川に放り込んで殺さなければならないとは、両親にとってどれほどの苦しみでありましょう。
 母親は産まれた子のあまりの可愛さに、ナイル川に放り込むことなど出来ず、三ヶ月間隠していましたが、隠し切れなくなり、パピルス=植物で造った籠を用意して、アスファルトとピッチ(樹脂)で防水を施し、その中に生まれた子を入れて、ナイル川の葦の茂みの間に置いたのです。何とか誰かに救い出して貰いたいという母の祈り、神にすべてを委ねての行動だったのでしょう。母はすべての自分の為し得る最善を尽くし、あとは神に委ねたのです。

 その子の姉―後にモーセと共に、イスラエルの女性の指導者となるミリアム―が、遠くに立ってどうなることかと様子を見ていると、そこへファラオの王女が水浴びをしようと川に降りてきました。
 そこで葦の茂みの間の籠を見つけて、籠を開けると男の子の赤ん坊が泣いていました。それを見た王女は「これは父ファラオがナイル川に放り込んで殺すことを命じているヘブライ人の子に違いない」と不憫に思い仕え女と話しをしていたのでしょう。その時、遠くからずっと見ていた姉のミリアムが王女の側に来て「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか」と申し出ますと、王女はそれを了解します。
そこでミリアムは自分の母=この赤ん坊、モーセの母、を連れて来て、実母が王女から手当てを出して貰い乳母として働くこととなり、実際にはモーセは実母に育てられ、大きくなった時、その子は王女の子とされて、ファラオの王子として生きることになったのです。これがモーセの生い立ちでした。

 神のなさることは不思議です。神の御心と共に、人間の祈りのあるところには、人間の思いを超えて、不思議と思われることがらが積み重なり、モーセは死の淵から救い上げられ、またモーセの母の、子に対する愛、その子を育み続けることが叶ったのです。さらにモーセは王子としての地位を得ることになったのですから。王子としての地位をモーセが得たということは、指導者としての当時の一流の教育を受けることが適ったに違いなく、モーセがイスラエルの指導者となる布石となったことを思います。
また人間の思いというものも、このファラオの王女の行動を思う時、不思議に思えます。父ファラオのヘブライ人に対する脅威と憎悪のために死ぬことに定められてしまっていた赤ん坊=モーセを、不憫に思う、女性の持つ母性とも言うのでしょうか、人間の中にある愛は、世の悪意や決め事を超えて、また複雑に絡み合うような民族同士の軋轢や憎悪を超えて、実を結ぶことがあるのですから。
 ファラオの王女がヘブライ人の赤ちゃんのモーセを水の中から引き上げて、自分の子にしたということ、モーセの母の愛とファラオの王女の愛が相互に作用した、愛は奇跡を起こすということの表れなのではないでしょうか。

 モーセは、ナイル川で死に定められましたが、引き上げられ、救われました。モーセ―水から引き上げられた人の生涯は、救われた者として、この後、長い120年という生涯を送ることになります。救われた生涯でありますが、一筋縄ではいかない苦難の連続とも言える生涯となります。そしてモーセの生涯には、「水」が深く深く関わるものとなるのです。

 モーセはこの後、ファラオの王子として生きながら、ヘブライ人の実母を乳母として育てられましたので、自分が奴隷で迫害をされているヘブライ人の血を引く者だということを知っておりました。そして奴隷であるヘブライ人を、自分がファラオ家の者だとその特権に高ぶるのではなく、実母の愛を受けて、ヘブライ人=エジプトの奴隷であるイスラエルの民を自分の同胞と思い生きるようになります。
 そしてモーセが成人した頃、ヘブライ人がエジプト人に暴力を振るわれていることを見て、モーセは怒り、そのエジプト人を殺してしまうのです。そのことは人に見られており、ファラオの怒りを買い、モーセはエジプトから逃げて、遠くミディアンの地に行き、そこで結婚をし、羊飼いとして暮らします。その年月はモーセが80歳になる頃までであったと言われています。

 80歳のモーセは、ある日、燃える柴の中に神の声を聞きます。神はモーセを遣わし用いて、奴隷として苦しみ叫ぶイスラエルの民を救い出すということを語られたのです。
 アブラハムは、75歳からの神からの使命を受けての新しい旅立ちでしたが、モーセは80歳からの神からの使命を受けての新しい旅立ちでした。神共にあって、人生はいくつであっても新しく、驚きに満ちたものなのだということを思わされます。
 そして、モーセを通して神が為されたことは、旧約聖書最大の奇跡、出エジプトと言われる出来事でした。
 エジプトの追っ手が来る中、モーセに率いられたイスラエルの民は、海を前にして追い詰められ、万事休すという時、主なる神の言葉を受けたモーセが、手を海に向かって差し伸べると、海は乾いた地に変わり、水は左右壁のように別れて、イスラエルの人々は海の中の乾いたところを通り抜け、海を渡り、エジプトの追っ手から逃れて、神の示す地へ向かうところに足を踏み入れることが出来たのです。
 イスラエルの民は、水を通って救われ、奴隷であったところから逃れ、神が共にある新しく、奴隷ではなく人格として重んじられる尊厳のある命へと、新しい歩みをはじめたのです。
 そして、モーセを通して、神からの守るべき定め、律法が与えられ、主なる神との契約の民となり、イスラエルの歴史は続いていきます。

 しかし、モーセは水によるひとつの罪も犯しています。それは民数記20章で語られているのですが、エジプトを脱出したイスラエルの民が、踏み入れたその地が荒野で、水の無いことに、モーセに対して何故我々をエジプトから脱出させたのかと人々が責め立てた時、主なる神は「岩に向かって、水を出せと命じなさい」と、言葉によって水を出させることをモーセに命じたのですが、モーセは民の反逆に対して激しく怒っていて、神が命じたように、言葉によって水を出すのではなく、神が命じられたのではない方法、杖を振り上げて、岩を二度打つことによって水を出したのです。
 主なる神はそのことを、モーセが「神が聖であられることを民に示さなかった」と悲しまれ、このことはモーセの罪と見做され、この罪の故に、40年間の荒れ野の生活の末に、神が約束された地に、モーセ自身が入っていくことが出来なくされました。
 しかし、このモーセの岩を二度叩いた出来事を通しても、神は水を出し、人間に救いの恵みを現されました。神の憐れみと恵みと愛は、人間の罪を超えて深いのです。

 モーセは、水を通して二度、大きな救いに入れられながらも、ただ一度水の前に、罪を犯しました。聖書が語る人間の姿というのは、すべての人には罪があるということです。人間には完全な人などいないこと、人間のすべては罪人であること、また人間は如何に複雑で、また弱い性質を持っていることか、聖書ことに旧約聖書はとことん語っています。
 しかしながら、神はその誕生の時からモーセを選び、救い出し、その複雑な人生のすべてに神は共におられ導かれました。モーセは多くの試練を通して、練り清められ「モーセほど柔和な人はいなかった」と語られるほどの人となって行きました。主なる神との関わりの中で、人間は鍛えられ、練り清められていくのです。
 私たちも、それぞれ複雑な性格を持ち、おそらくはモーセ以上に罪を犯す者たちです。神は罪があるからこそ私たちを憐れまれ、限りなく憐れみ愛してくださり、神は水の中を通して私たちを洗い清め、救いを現したいと願っておられます。水の中から引き上げられることは、神の恵みであり救いの表れです。主なる神は、私たちが新しくされて、神共にある人格と自由意志の重んじられる存在として新しく生きること、与えられた自由な意志を神に向けて、神と共に、神の言葉を携えてこの世を生きていくことを望んでおられます。

 モーセの後、旧約聖書の歴史は人間の罪と、罪ゆえの悲しみ、また罪を悲しむ神の姿が語られながら続いていき、遂に、イエス・キリスト、神が人となられたお方が世に来られることになります。
 ヨハネの手紙一5章に不思議な言葉があります。「この方は、水と血を通って来られたお方、イエス・キリストです」。
イエス様は、罪の無いお方であられましたが、完全な神であり、完全な人であるイエス様は、ひとりの人として洗礼=バプテスマのヨハネによる水の洗礼を受けられて、宣教の業を始められました。水を通ること、洗礼を受けることは、人としての肉体を持った神であられるイエス様にとって「正しいことをすべてするのは相応しいこと」(マタイ3:15)であったということ、イエス様ご自身が語っておられます。
 しかし、イエス様は水を通ることにとどまるお方ではありませんでした。水を通ることは、神の憐れみであり、人間に与えられる救いのしるしであり、罪が水によって洗い清められ、罪に死んで新しい命に生きることを表しますが、神が人となられたお方であるイエス様は救いを与えるために自らすべての人の贖いとして、十字架の上でご自身の血を流されました。
 イエス・キリストの血は、すべての人の罪を覆い、すべての人の罪によって受けねばならない裁きを、代わって担い、流された血でありました。
イエス・キリストの十字架の血による贖いの恵みは、私たちの罪の自覚、そして罪の悔い改めがあってこそその力を発揮いたします。イエス・キリストがモーセの時代に、もしおられたならば、モーセも罪の悔い改めによってただひとつの罪も赦されたに違いありません。
 そして、イエス・キリストが、「水と血を通って来られた」のですから、私たちも「水」による洗礼と、「血」罪の自覚と悔い改めによってキリストの血で覆われて、完全に救われるのです。神は私たちのすべてがそのような者となることを待っておられます。血を通ってこられたキリスト、これは今日の新約朗読の中で、「大祭司であるイエス」と語られていることに結びついていきます。

 聖書が語る救いとは、世のさまざまな現象から、例えば水害などから免れ、救い出されることにとどまらない、世の命を超えて、人間の存在の根源をつきぬけ、神共にある永遠の命に至る救いです。命の根源に対する救いです。この救いは、旧約の時代、モーセの時代には与えられなかった命の恵みです。
 自然災害が多い昨今です。さまざまな思いがけない悲しみが起こることがある。しかし、世の不条理も悲しみも超えて、まことの救いへと人間を導くために今も働いておられる神に、神が与えてくださる命の救いの恵みに対し、確信と希望に満ちた誇りを持ち続けたいと願います。そして、人間の力の及ばない出来事に遭遇することがあったならば、モーセの母が最善を尽くして、あとは神に委ねたように、私たちも為せることのすべてを尽くして、神の御手に、すべてを委ねるものでありたいと願っています。神は必ず、人知を超えた救いをあらわしてくださることでしょう。