「正しい若枝―主は我らの救い」

エレミヤ書23:1~6
ヨハネの黙示録1:4~8

 今日の主日で、信仰の歩みを辿る教会暦に於いての、一年の巡りは終わります。
「終末主日」また「収穫感謝」と呼ばれるこの礼拝は、教会暦の最後の礼拝ということから、神から与えられた収穫の恵みを感謝すると共に、「終末」という神の国の完成を迎える日が、やがてくることを覚え、そのための心構えを新たにする時とされています。
この一年の一巡りを振りかえり、皆様は、どのような信仰の恵みを受け取られたことを思い起こされるでしょうか。
私自身は、この一年の歩みを思い起こす時、大切な方々を多く天に送ったことがまず心に思い起こされ、寂しさと共に、命ということについて思い巡らすことの多かったことを覚えます。また、結論の出ないこと、時を待たねばならない、忍耐しなければならないと思わされることも多く、あらゆることが「途上」であることを思わされ、「収穫としての恵みを受け取った」とは言い難い一年だったのかなと、少し寂しく思い巡らしたりもしています。しかし、だからこそ、「終末に希望を置く」と聖書が語る意味が、実感として分かるようになったような気もしています。
それにしても「終末」という言葉を聞くだけで、「怖い」と思われる方もおられると思います。確かに、聖書の語る「終末」には、人間の目に恐ろしいと思えることが起こってくることが「ヨハネの黙示録」を通して語られています。しかし、終末ということについては、聖書を語る上に於いて逃げられないことで、語らなければ御言葉を正しく語ることにはなりません。
聖書は初めがあり、終わりがあることを語ります。聖書はこの世の終わりがあること、この世に終わりが来ること、その日、イエス・キリストが再びこの世に来られること、そしてその後に、神の国が、完全な救いがあらわされる日が来ることを約束として語るのです。
私たちの信仰による生きざまというのは、終末という「完全な救い」「神の国」が到来するという、神の言葉である聖書の言葉を信じて、そこに希望を置いて生きることです。私たちには既にイエス・キリストを通して「完全な救い」が約束をされているのです。約束された完成と救いに向かって、私たちは弱い体を持ち、さまざまな世の困難を負いながら、世を生きているのです。
このことは、見方を変えて、約束された救いという完成されたところから現在を見つめることが出来るということでもありましょう。キリスト教信仰は、到達する地点―救い―から、現在を見て生きる信仰と言う側面があります。
譬えれば誰かが、辛いけれど一日契約の、それで十分な報酬を受け取れる仕事を与えられたと考えてみます。一日の雇用契約を取り交わします。その仕事が命に関わるような仕事ではないことが前提です。しかしその一日は辛い。苦しい。その仕事をしなければならない自分の人生を悲嘆に暮れたくなる。しかし、明日の今頃は、既にこの仕事から解放されていることは決まっているのです。今与えられている仕事は自分のすべてではなく、人生のほんの一部分でしかない。そうなると、その一日だけの仕事を世界のすべて、自分のすべてのように思うことから人は解放されるのではないでしょうか。もし、辛い一日の仕事に絶望をする人が居たとしたならば、その人は、「一日だけ」という雇用契約をきちんと読んでいなかった、理解をしていなかったのかもしれません。
「終末」を信じて生きるか、信じないで生きるかは、そのことに似ています。信仰というのは、それは現在与えられている問題や苦難が、永遠ではないことを知る信仰と言えます。やがて約束された救いが来るのです。私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、既に罪赦され、救いの約束、命の約束が与えられています。それは先のたとえでは、「雇用契約」にあたるものです。
 その約束、契約の中に生きる者として、今の苦しみはすべてではないことをはっきりと見据えて、神の国の希望に生きる。それが「終末の信仰に立つ」ということです。
 パウロは申しました。「現在の苦しみは、将来現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」(ロマ8:18)と。どのような時も、神の約束、神の言葉、聖書の御言葉に希望を置いて、御言葉に生きる者でありたいと願っています。

 そして今日の御言葉は、旧約聖書のエレミヤ書です。
 エレミヤというのは、バビロン捕囚期の預言者です。先週お話しさせていただいたモーセの時代から、一足飛びに今週はバビロン捕囚に800年近く飛んだのですが、その間の流れを短く申しますと、出エジプトをしたイスラエルの民は、神への不平、背きから、40年間荒れ野での生活をすることになります。そこで神からの律法の掟を与えられました。それは石の板に書き記された掟であり、「~してはならない」「このようにしなさい」という行いと神への祭儀の規定でありました。律法によってイスラエルは主なる神との契約の民となりました。
 しかし、人は神との契約を守れないのです。契約を破り、主なる神を悲しませ続けます。
 遂に約束の地に入って行きますが、そこには当たり前ながら、先住の民が住んでおりました。イスラエルは神が導かれる戦いを経て、約束の地に入り、その土地を先週少し触れました、イスラエル12部族に土地の分割をして、イスラエルは「部族連合」という形で、王を持たないまま、主なる神を中心とした共同体を作っていきます。
しかし周辺諸国からの侵略に絶えず悩まされる中、人々は周辺諸国と同様に強い国になりたい、王を持ちたいと願うようになり、さまざまな過程を経て、ダビデ王によるイスラエル統一王国がエルサレムを中心として誕生します。ダビデの子ソロモン王がエルサレムに壮大な神殿を建て、繁栄を極めますが、王国はダビデ、ソロモンのたった二代だけで、その後、権力争いにより、南北に分裂してしまいます。そして北王国イスラエル、南王国ユダ、それぞれに王が立てられますが、主なる神に背き続ける王の歴史が南北ともに続いていき、紀元前722年に北王国イスラエルはアッシリアによって滅ぼされ、南王国ユダは紀元前597年と10年後の587年の二度のバビロン捕囚によって、バビロニアによって滅ぼされ、エルサレム神殿は破壊され、エルサレムは死の町、廃墟となったのです。それらの悲しい歴史を、聖書は「神の掟・律法に従わなかったからだ」と理解をしています。
そしてイスラエルの民のうち、権力のある人々は、バビロニアに捕囚とされて連れて行かれ、身分の低い人たちは廃墟となったエルサレムに残され、その後、民族は散らされてばらばらになって行きました。
離散のユダヤ人、ディアスポラという言葉を聞いたことがある方も多いと思いますが、この所謂バビロン捕囚と言われる出来事、南王国ユダの滅亡を契機として、離散、ディアスポラということが起こって行き、その影響はイエス様の時代、更に現代に至るまで残っています。
  
さて「預言者」というのは、未来を予言するという予言者ではなく、神の言葉を受けて=預って、人々に語る人のことを言います。
 先週お話をしたモーセも神の言葉を預る預言者。旧約聖書の中で、モーセに勝る預言者は居ないとまで言われます。律法を受けた人なのですから。
 その後、神はご自身の言葉を人を通して語られることが徐々に起こってきました。預言者が起こされる時代、あまり起こされない時代があったようですが、危機の時代に、神は多くの預言者を立てられ、神はイスラエルの人に語りかけられました。
 エレミヤは、バビロン捕囚前、紀元前627年から預言活動を始めたと言われている預言者で、二度のバビロン捕囚を経験し、廃墟のエルサレムに残されていた人でした。
預言者は、神と人との間に立って、神の人間に対する激しい熱情を全身で受けとめ語らなければならない。危機にあって語られる神の言葉は、人間が耳を背けたくなるような厳しい言葉でした。人間は、耳に心地良い言葉を聞きたがり、自分にとって都合の悪い言葉は嫌がり、退けます。そのため、神の真実の厳しい言葉を受けて、それを語るエレミヤは、人々から嫌われ、ののしられ、人々から受け入れられない生涯でした。エレミヤは「悲しみの預言者」とまで言われる人でした。混乱の時代に預言者として働くということは、大変な苦労でした。

今日の御言葉は、エレミヤの預言者として立てられてから、恐らく30年近く経った時、紀元前597年の最初のバビロン捕囚が起こる直前、ユダの王ヨヤキムの時代にエレミヤを通して語られた主なる神の言葉だと考えられます。
ヨヤキムだけでなく、イスラエル、ユダの王たちの殆どは、主の定められた律法に従わず、偶像を崇め、私腹を肥やし、人々を圧迫し、苦しめる、悪い王たちでした。その王たちの姿は、人々だけでなく、主なる神を悲しめ、苦しめました。主なる神は、すべての人間が、ご自分に立ち帰り、主と共に正しく歩むことを望んでおられますのに、王たち権力ある者たちは、国民のことを顧みず、虐げ、自分の欲望の赴くままに、偶像のとりこになりながら悪政を続けておりました。
「災いだ、わたしの牧場の羊の群を滅ぼし散らす牧者たちは」、主の言葉です。

「羊の群」とは、神の羊。神の愛する民のことです。「神の羊」ということを思います時、詩編23編が思い出されます。
「主は私の羊飼い。私には欠けることがない」から始まり、主なる神が、私たち人間の羊飼いであられ、私たちは神の羊の群の一匹だと言われている詩です
 このエレミヤの預言に於いて、羊の牧者はイスラエルの王を表していますが、2節で「主はわたしの民を牧する牧者たちについて」とありますように、主ご自身が人間を「わたしの民」と語っておられます。主は地上の王たちをさらに超えて、人間を牧しておられる、まことの羊飼いであられるのです。
 この預言は、王たち支配者たちの神への背きによって、神の裁きがイスラエルに下される―バビロン捕囚はイスラエルの王、指導者たちの偶像礼拝、神への背きのためであると理解されています―そしてバビロン捕囚が起こり、国は滅び、イスラエルの民は、「散らされる」、離散するのです。そのことを預言しています。
 しかし、さらにエレミヤはここでずっと先の、600年近い先に起こる出来事、救い主、イエス様の誕生を預言しているのです。

 バビロン捕囚によってイスラエル・ユダの民は散らされてしまう。しかし「このわたし」主なる神が、「群の残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、もとの牧場に帰らせる」。「群の残った羊」とありますが、旧約聖書で「残りの者」と言う時、それはどのような試練や苦難にあいながらも、主なる神のもとにとどまる者たち、信仰に生きる者たちという意味があります。「残った羊」、散らされ、苦労しながらも、主なる神への信仰に生きる民を、主はご自身の牧場に戻され、数は増える。その人々を牧する新しい牧者を主ご自身が立てられる。そのような日が来る。群はもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない、そのような時が来ると言う神の約束の言葉を、エレミヤは語るのです。
 それは、ダビデのための正しい若枝。まことの王、正義と恵みの業を行うまことの王。それは、イエス・キリストにほかなりません。

「若枝」とは、オリーブの木を意味しているのでありましょう
オリーブの木、教会の玄関脇にもありますが、パレスチナに多く繁殖する木であり、背丈はそれほど伸びないのですが、幹は太くなっていきます。普通、年を重ねた木とういのは、幹の内部に年輪が刻まれながら太くなっていきますが、オリーブは、年を取り、幹が太くなっていくとき、年輪は現れず、幹の中は空洞化するそうなのです。空洞化する代わりに、根から新しい芽が萌え出でて、若枝が育っていき、そのようにして、新しい若枝の芽生えによって常に木は新しく生きていきます。枯れたように見える空洞化された幹であっても、根をしっかり張っていて、養分を土から取り入れて、若枝に命の栄養を注ぎます。死んだかに見えたような古い木に新たな命が芽生えていくと見えるために、オリーブは「永遠の命」を象徴する木でもあると言われています。

モーセの時代、律法を与えられ契約の民とされたイスラエルの民ですが、神に背き続け、その幹は空洞化して罪のために滅んでしまったかのようになってしまった。
しかし、主なる神は、「ダビデのために」=イスラエルのために、「正しい若枝」を起こされるのです。それは、「正義と恵みの業を行う」まことの王。今日お読みしたヨハネの黙示録の言葉にありますように「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」、主なる神が人となられたお方、イエス・キリストが、まことの王として、「残った羊」、新しい正しい若枝に主なる神を慕い求める民を新しく集め、新しい命を、まことの救いをもたらすお方として来られ、正義と恵みの業によって統治する日が来ことを語るのです。
エレミヤは、バビロン捕囚という民族最大の苦難を目の前にして、苦難を超えて、「主は我らの救い」と呼ばれるまことの王が現れ、ユダ=イスラエルの民は救われ、安らかに住まうようになる。そのことを神の約束の言葉として語るのです。
そのことは、それから600年後、イエス・キリストの誕生によって実現することになります。