「東方で見た星」(2019年12月29日礼拝説教)

イザヤ書 11章1~10節
マタイによる福音書 2章1~12節

 降誕節第一主日。2019年の最後の礼拝、キリストの蝋燭と呼ばれる一本の白い蝋燭に灯をともして礼拝をささげます。
 皆様にとって、この一年はどのような一年でしたでしょうか。先日、聖書を読む会は、クリスマスイブ礼拝の後のクリスマス当日だったため、通常の学びではなく賛美と祈りの会とさせていただいて、それぞれのこの一年への思いを語り合い、分かち合いの時も合わせて持たせていただきました。
 私自身のこの一年は、まず教会の大切な3名の方々を天に送ったことが、心に思い起こせる大きなことでした。その他、親戚、お世話になった牧師の先輩方など、多く送った年だったことを話しました。またこの地域は大きな水害に見舞われ、教会員、関係者の方々が被災されたことをはじめ、社会情勢にさまざまな良くない変化があったり、いろいろな意味で、悲しいことや、困難に覚えることが多かったという印象がまず心に擡げます。
 それでも今年もクリスマスがやってきたこと、主イエスがまことの光として私たちのうちに来てくださったこと、心に灯が灯ったことを今覚え、すべてをこの年の恵みと思い数えています。嬉しいことも、悲しいことも、困難を覚えたことも、イエス・キリストにあってすべては益とされて、恵みとして受け取ることが出来る信仰を感謝して、新しい主の年2020年を迎えたいと思っています。

 クリスマスの出来事はひとつひとつに深い意味があり、御言葉を読みいろいろ思い巡らすのですが、最近ふと、「馬小屋でイエス様がお生まれになられたこと」について、少しだけ今までと違うことを思いました。
 それは「馬小屋」というところは、貧しく、不潔な場所。そんな場所にイエス様がお生まれになったということは、物質的な貧しさ、不潔さの中に、救い主がお生まれになったことだけではなく、馬小屋というは私たちの心なのではないか、そんなことを思いました。
 私たちの心の中には、いくら掃除をしても、拭いても、どうにも綺麗にならないところがあるものです。
 自分本位で、欲深く、言い訳がましく、怒りが沈殿していたり、そのような罪の性質だけでなく、深い悲しみが心の奥底でくすぶり続けて澱んでしまっていたり、過去に囚われ過ぎて抜け出せなくなっていたり、あらゆる複雑な感情がうごめく場所。そんな自分がいるところ。薄暗く、汚れて、見て見ぬふりをしたくなるようなそんな場所が、私たちの心の中に確かにある。ここは普段は蓋をしておこうというような心の場所。馬小屋というのは、私たちの心の中のそんな場所なのではないか。そして、イエス様は、そんな私たちの心の暗闇に、光としてお生まれになられたのではないか―そう思うと、自分の中の自分の力ではどうにもならないような心の中の馬小屋、暗闇に、光が灯された思いがして、この暗闇に、イエス様はまことに「平和の王」として来られたのだ。平和の主が、「あなたの心の馬小屋を知っているよ」と仰って下さり、そこに来られ、すべてを執り成し導き、すべてのものの和解への道を拓いてくださる。そしてきっといつか汚れが沈殿した馬小屋のような心も、綺麗にしてくださる時が来るに違いない。すべてを主に明け渡して、主の光の中を歩みたい。忍耐強く、馬小屋を見つめつつ、自らを悔い改めつつ、御言葉に従って歩みたい、そんなことを思ったクリスマスでした。

 そのようにさまざまな罪や捻れや心の寒さ、悲しみに澱んだ心の詰まった場所がイエス様のお生まれになられた馬小屋であるならば、馬小屋というのは、キリストをお迎えする前の、人間の心の姿なのかもしれません。馬小屋はキリストをお迎えすることを基点としての過去と言えるかも知れません。

 今日の御言葉は、1月6日、主の公現日を表す御言葉ですので、1週間先立ってお読みしたように思われると思いますが、今日は日本基督教団の聖書日課の通りの御言葉です。公現日、東の国の、占星術の博士たちが、東方でユダヤ人の救い主の星を見つけて遠く旅をしてきて、イエス様のお姿にお会いし、黄金、乳香、投薬という宝をイエス様にお献げした日の御言葉ですが、この日は、イエス様の洗礼の日としても祝われる日でもあります。ですから、聖書日課では、次週が「主の洗礼」となっていて、降誕節第一主日の今日、この御言葉を読んでいるのです。
 この「東方の占星術の学者たち」の学者と訳されている言葉の原語は、「マゴス」、このマゴスとは、英語の「マジック」の語源になっている言葉なのだそうですので、星占いをして、道具を用いて何らかの魔術のようなことをする人たちだったのでしょうか。
「東方」と言いますと、エルサレムの東方という意味でしょう。その場所は特定されていませんが、エルサレムから見て「東方」というのは、旧約聖書の歴史の中で大きな意味を持つ地域です。現代のイラク、イラン辺り。イスラエルの国が滅ぼされた国々、イスラエルの民を、主なる神の神殿から引き離した、かつてのアッシリア、バビロニアの辺りから来た、主を知らない人々だったのです。
 
 そして、この出来事を預言するような言葉が、旧約聖書民数記24章、イエス様のお生まれになる時からおよそ1250年位前に語られていました。今日はお読みしませんでしたが、イスラエルの宗教で禁じられている呪術をするような、罪にまみれた異教の呪術師バラムという人の口を通しての救い主の到来の預言の言葉です。
「わたしには彼が見える。しかし、今はいない。彼を仰いでいる。しかし、間近にではない。ひとつの星がヤコブから進み出る。」
 イスラエルの救い主が現れる時、ひとつの星が進み出る、現れると言うのです。今日の御言葉は占星術の学者たちをひとつの星が導く出来事ですが、それを彷彿させる言葉です。
 
 この東方の占星術の学者たちは、旧約聖書民数記の預言の言葉を、長い長い年月、人の言葉を通して語り伝えられる中で知っており、その星が現れることを、今か今かと研究をしていた人たちでした。そして、遂に見つけたのです。預言者バラムの言葉の「ひとつの星」を。
 異教の人々でありましたが、研究熱心で真剣な人たちでした。異教の地で、偶像を礼拝しながらも、イスラエルに於いて、預言をされていた救い主の星の出現の日を、未来に希望を持って探し求める人々でした。
 人間には誰しも心の奥底に真理なるものを求める心があるのではないでしょうか。旧約聖書コヘレトの言葉3章に「(神は)永遠を思う心を人に与えられる」という御言葉がありますが、永遠とは神を表しておりますから、人間には、目に見えない領域への憧れが生まれながらに神によって備えられているということなのでしょう。そこが神と出会う場所になるのでしょう。
 そして人は、世のことでは解決が出来ない領域に悩む時、何が真理か分からないままに、さまざまな宗教や占いの類に心を奪われたりすることがあるのではないでしょうか。聖書の信仰は、まず小さな民族であるイスラエルの民に現され、それらは世界に広がってはいなかったのですから、この占星術の学者たちも、永遠なる真理を求めつつも、まだまことの神を知らされておらず、真理を求めながらも、その信仰の対象は違っていた。星占いをしたり、魔術をしたり、それらは人を結果的に苦しめるものになったこともあったに違いなく、過ち多く、占いをすることは、彼らにとっての心の暗闇、馬小屋のようなことになってしまっていたことも多かったのではないでしょうか。しかし、心は真理を求める心はあったのです。
 日本人も、キリストを知らない人たちはたくさんおられる。しかし、誰もが死を恐れ、また見えない何かを求めている。無宗教や唯物論を美徳のように言いながらもその実、占いやさまざまなことに心を奪われつつ生きている。矛盾した心を抱えている。皆、どこか抜け道の無い、暗い馬小屋のようなところを持って生きているように思えます。

 そしてこの学者たちは、東方でその星を見つけて、旅をして西のエルサレムにいる当時のユダヤ人の王、ヘロデ大王と呼ばれる人のところにやって来ました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と。
 自分が王であるのに、自分の知らないところで「ユダヤ人の王」それも、民数記に於いて預言をされていた救い主が現れるなどと言われたヘロデは、「不安を抱いた」とあります。内心怒りに燃えたのです。「エルサレムの人々も皆、同様であった」と語られていますが、これはエルサレムの人々は、ヘロデ王がどれほど残虐で嫉妬深い王であるかということを知っていたので、占星術の学者たちの言葉に「これから起こる何か」に不安を抱いたのであろうと思われます。
 自分の立場を脅かされることに不安を抱いたヘロデは、ユダヤ教の祭司長や律法学者を皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているかを聖書の中から確かめさせ、ユダのベツレヘムと預言されていることを確認し、また、占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめました。
「ひそかに」というのは、ヘロデの心の深い闇、学者たちを自分のこれから行おうとする計画―来週お話しすることになる―に取り込もうとする心を表しているのではないでしょうか。人は何らかの計画をもって人を自分のために利用しようとする時、公ではなく、ひそかな、秘密の行動をとるものです。
 そして言うのです。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」。
 占星術の学者たちは、このヘロデの言葉に、それはヘロデの偽善の言葉であり、次週お話しする恐ろしい計画が背後にあることを見抜いたに違いありません。

 彼らがヘロデのところを出た時、東方で見た星がそこにあり、先立って進み、遂に幼子イエス様のいる場所の上に止まりました。学者たちはその星を見て喜びにあふれました。    
 原文を見てみますと、「この上もなく、喜び喜んだ」と、最上の喜びを表す言葉が語られています。
 そして星の下にある家に入ってみると、幼子イエスさまは、母マリアと共におられました。馬小屋の飼い葉桶の中に眠るみどりごイエス様。その周りにはマリアとヨセフ、博士たち、馬たち、羊たちが囲んでいる。クリスマスを代表するイメージはこの御言葉にあります。
 異教の占星術の学者たちは、馬小屋の中に、イエス様を、まことの救いを、まことの光を見出したのです。この博士たちは、東方でこの星を見つけ、東方から西側のエルサレム、そしてベツレヘムにやって来ました。旧約聖書のヘブライ語に於いては、東方という方角は、「過去」を表します。そして、西は未来を表します。
過去の過ち、罪、心の歪み、悲しみ、複雑な感情や、それまで置かれて来た状況など、閉ざされていた心を表す、汚れた馬小屋で、彼らはまことの救いを見たのです。
そのような過去と救い主が共にある未来が、馬小屋で出会った。新しくされる光がそこにあり、異邦人であり、異教徒の占星術の学者たちは、イエス様を伏し拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、もつ薬を贈り物として献げたのです。

 黄金、乳香、もつ薬という三つの献げ物として献げたことから、この学者たちは3人であったと考えられるようになり、更に、中世に於いては、聖書に語られている三つの人種というのでしょうか、セム、ハム、ヤペテの子孫すべて、ユダヤ人という民族を超えて、すべての大陸、世界中のすべての人々が、キリストのもとにやって来て、救いを見出すのだ、この占星術の博士たちは、世界のすべての人が、キリストの救いのもとにやって来ることを表しているのだと考えられるようになりました。イエス・キリストの救いが、ユダヤ人から、すべての人に顕されることのしるしと考えられるようになったのです。
 そして、伝承の中で、この三人の学者には名前がつきました。髭の無い青年のカスパール、髭の生えた老人のメルキオール、肌の色の黒いバルタザール。
彼らの開けた宝の箱とは、彼らの持っていた占いのための道具という宝であったという説があります。彼らは、自分たちのそれまで持っていた、生きるための道具を幼子イエス様に献げたのです。
尚且つこれらの贈り物は、イエス様というその存在を象徴する贈り物でした。
黄金とは、「王のしるし」。乳香とは、祭壇に犠牲の動物を献げる時にたかれるもので、「神のしるし」。没薬は、死者の死体に塗るものであり、「人のしるし」であり、イエス様の十字架の死を予見するものであると言われています。
 占星術の学者たちは過去の宝である商売道具を、まことの救い主イエス様を見て、その御前に献げました。東方というまことの救い主を知らなかった場所で用いていた大切な道具を、彼らの過去のものどもを、イエス様の御前に献げたのです。
 そして、「ヘロデのところに帰るな」と夢でお告げがあったので、「別の道」を通って、自分たちの国に帰って行ったのです。

 「別の道を通って」自分たちの国に帰って行ったということは、彼らがそれまでの彼らのありかたを捨てて、新しい生き方へと変えられて行ったことを表しているのではないでしょうか。そして自分たちの国で、救い主の到来を告げ知らせる、新しい生き方をするようになっていったのではないでしょうか。

 私たちも心の馬小屋に、イエス様をお迎えしたいと願います。
 イエス様は私たちのまことの救い、光となることを望んでおられ、私たちのうちに、とりわけ私たちの心の馬小屋を照らしたいと願っておられます。
 自分の力では綺麗に出来ない心の馬小屋を持つ私たち。罪、悲しみ、どうしようもない複雑な心の問題。
 イエス様は、イエス様を主と信じる者のうちに住んで下さり、私たちの光となってくださいます。このことを、信じる者でありたいと願います。そして、自分自身の宝も、また過去の過ちも、罪も、悲しみも、問題も、主の御許に、占星術の学者たちがそうであったように、主を伏し拝み、主の御前にすべてを差し出したいと願います。
 馬小屋はすぐには綺麗にならないかもしれませんが、主に自らのすべてを差し出した時、私たちは暗闇の中に「希望」という光を見出すことでしょう。汚れていた馬小屋が少しずつ整理されて、そして、馬小屋の中に留まるのではなく、希望のうちに一歩を踏み出すことが出来ることでしょう。そして、主は私たちの罪を赦し、私たちを新しい主が共にある道に導き出してくださいます。