「あなたのパンを水に浮かべて流しなさい」(2020年新年礼拝)

コヘレトの言葉11:1~10

 新しい主の年2020年を迎えました。西暦2020年と言うのは、イエス様が世に来られてから2020年目という意味です。西暦2000年―20年前、ミレニアムなんて言っていたことが、私には昨日のことのように思えてしまって、少しおののいています。

 この一年の初め、旧約聖書の「コヘレトの言葉」を選ばせていただきました。聖書の中で「コヘレトの言葉」がお好きだという方は、意外と多いように思います。
 コヘレトの言葉という書物は、旧約聖書の「知恵文学」と言われるなかのひとつです。「知恵文学の中のひとつ」と言えど、聖書の中で特殊な書物で、他の書物とは、趣を異にしていて、この書の中心的な概念は「空」―旧約聖書ヘブライ語でヘベルという言葉です。この言葉の意味は、「空しさ」「無益」「空虚」「無意味」「無」「不条理」「はかなさ」などの意味があります。この書の書き出しは、「なんという空しさ。なんという空しさ。すべては空しい」から始まり、そして今日の御言葉の中にも、二度「空しい」という言葉が語られています。
「空」ヘベルという言葉、非常に仏教的と言うのでしょうか。私たち日本の風土に馴染み易い概念であるように思え、また、人間の心の中の孤独のようなものを言い当てているような気もして、この書に、他の聖書書物とは違う意味での親近感を持つ方が、多いのではないか、そのように思っています。

 この書が書かれたのは、紀元前250年頃というのが多く言われる説なのですが、私はもっとイエス様の時代に近い、紀元前160年くらいであり、旧約聖書の中で一番新しい書物だと言う方の説にひかれています。
1章1節に「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」とあり、12節にも「わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた」とありますので、紀元前900年頃のソロモン王の書いたものではないかとも言われたこともありましたが、それについてはかなり早い段階で否定されています。そして、著者は誰か分かりません。
「コヘレト」というのは、ヘブライ語の「カーハール」=集会に集まる、集合するという言葉を語源とする言葉でコヘレトはそのように集会に集まり話をする人と理解出来ましょう。また、「ダビデの子、コヘレト」と、知者であったソロモン王を思い起こさせる書き出しから、知者、イスラエルの賢者の言葉、そのように理解をしても宜しいかと思います。
  
 この書は、徹底的に人間の現実との関わりの中から生まれています。他の聖書の書物は、徹底して神が中心でありますのに、この書は人間の現実からすべてが導き出されて語られています。コヘレトは賢く人間の現実を観察する人と言えましょう。「すべては空しい」と語りながらも、徹底的に「世に生きること」を語る書物なのです。イスラエルの知者の世を生きる知恵の言葉と言いましょうか。

 この書が書かれたと思われる時代、私は紀元前160年頃と思い、語らせていただきますが、聖書、旧約聖書の時代の後期になるにつれて、ユダヤ人を取り巻き支配をする国々からの迫害は深まって行きました。迫害と苦難の中で、この世に生きることに希望を持てない時代となって行っていました。
 ダニエル書は、紀元前167年マカバイ戦争という厳しい弾圧と迫害の出来事があり、人々は理不尽な死に遭遇し、説明がつかない理不尽、悲しみから生まれる痛みは、神のご支配が見えないという呻きの痛みとなっていきました。旧約聖書ダニエル書は、その時代、紀元前164年の迫害のことを、バビロン捕囚期の出来事に代えて書かれた書物なのですが、ダニエル書の中には、「永遠の命」についての言及が旧約の中で初めてあらわれて来ます。ダニエル書12章2節「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の救いに入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」と。
「永遠の命」、私たちのキリスト教信仰にとって、それは重大なテーマなのですが、旧約聖書に於いては、永遠の命という考えは殆どありません。旧約聖書は長い年月を掛けて書かれたもので、神の啓示される真理は、歴史背景の中で、変遷があるというか、深まって行くことが見られます。そして、ユダヤ人ファリサイ派の人々は、世のことでは乗り越えられない理不尽や悲しみ苦難を超えて、世の命を超えた永遠の命に希望を持つようになって行ったのです。新約の時代、イエス・キリストを通して現される信仰に近づく命の真理を、主なる神は人々の苦難を通して徐々に現されて行ったのだと言えましょう。まだ、ダニエル書の時点で、新約の信仰に一致はしていませんが。

「永遠の命」、ある意味、厭世的とも言える信仰です。世の現実の苦しさから逃れるように、死を超えた新しい命に希望を持つことでもあるのですから。
 コヘレトは、それらのことを見て、知っていて、敢えて芽生え始めていた、厭世的とも言える永遠の命の思想が、ユダヤ人たちの中で広がって行っていることに対し、間逆のことを語るのです。「世に生きろ」と。「すべては空しい―けれど世を懸命に生きろ、世を楽しめ」と。厭世的な信仰が主流となっていく中、それに対するアンチテーゼと言えますでしょうか。
 そして、コヘレトの言葉に於ける死生観には、死後の命というのは前提されていないのです。9章5節「生きているものは、少なくとも知っている。自分はやがて死ぬ、ということを。しかし、死者はもう何ひとつ知らない。彼らはもう報いを受けることもなく、彼らの名は忘れられる」と記されているように。

 聖書に一貫して根底に流れていることは神の愛であることに違いはありませんが、その表れ方が時々に違います。一貫していないようにも思え、聖書を知れば知るほど、私たちは混乱をするということも有り得ます。しかし、すべてを通して神の激しい人間への愛は一貫しており、人間の心の過ちに対して、折々語り続けることに、時に間逆に思えることが語られていることがありますけれど、それらも複雑な人間のすべてを知り尽くしておられる神の愛のうちにあることであり、折々の語りかけであり、私たちの信仰の益となることを覚えたいと願っています。

 さて、今日の説教題とさせていただいた「あなたのパンを水に浮かべて流しなさい」、11章はじめの言葉です。
 また、6節「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶものはあれかこれか、それとも両方なのか、分からないのだから」
 これら二つとも、人間の日々の行動に対する実際的な世を生きるための教え、戒めと言えましょう。「あなたのパンを水に浮かべてながすがよい」、この「浮かべる」というのは、投げ捨てるという意味ではなく「行かせる、送る」という意味の言葉です。
 パン、日毎の糧、大切な基本的な食べ物です。それを水に浮かべて「行かせなさい、送りなさい」、これは自分のものを人に分け与えなさい、というイスラエルの知者の教えの言葉なのです。慈善と言いましょうか。「そうすれば月日がたってから、それを見いだすだろう」、水に浮かべて流す、そうすればいつか自分のところにまた水の流れに流されて必要な時に戻ってくる、「国にどのような災いが起こるか分かったものではない」から、与えられる時には、与えるのだという教えです。そしてこれは、国と国との貿易ということも言っているのだとも言われています。いずれにせよ、持ち物を行かせて送る、分かちあうことの大切さを告げているのです。
 勘違いをしてはいけないのは、見返りを求めて特定の人に物を分け与えなさいということを教えているのではないということです。自分に利益を齎してくれそうな人をターゲットに贈り物をするということ、世の人の知恵のように、例えば政治の世界でもあるようですが、あくまでも、見返りを求めず、7人8人さらに不特定多数の人々に対して、まだ見ぬ人々に対して「分かち合う」ということです。「ため込むな」というのも、コヘレトの知恵のひとつです。
そして、朝、種を蒔き、夜も手を休めず蒔き続けよと。「風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈入れはできない。妊婦の胎内で霊や骨組がどの様になるのかも分からないのに、すべてのことを成し遂げられる神の業が分かるわけがない」、それは、持ち物を分かち合うこと、日々朝に夕に、懸命に種を蒔き続けることの真ん中には神がおられる、人知を超えた神がおられることを語っているのです。
 私たちは明らかな結果を「今」見たいと願います。もし将来ここからこのような芽が出る、恵みが与えられることが分かっていれば、また無理だということが分かっているならば、あれこれをするのに―そのように気が弱くなった時など思い勝ちですが、そうではなく、風向きを気にせず種を蒔き、雲行きを気にせず刈入れをせよ、すべては神が御心によって成し遂げてくださるからと、コヘレトは語るのです。世をたゆまず生き続ける中に、神の働きが齎されることを語るのです。
さらに言います。「光は快く、太陽を見るのは楽しい。」、そう私たちは、心地良いものを見ることは楽しいものです。「長生きをし、喜びに満ちる」、いつまでもそのような時が続いて欲しい、それを望みます。しかし、コヘレトは申します。「暗い日々が多くあろうことを忘れないように」と。世を生きることは、喜びの日だけではなく、光だけがあるわけではない。暗い日々があるのだ、それが世を生きることなのだと。
 そして「何がこようと、喜びが来ようと暗い日々が来ようとすべて空しい」、良いことも暗いことも過ぎ行くもので、空しいけれど、神は日々種を蒔き、パンを浮かべて流す者たちに、ご自身の業を与えてくださることを語るのです。

 そして、若者たちに対しては、その若さを喜び、青年時代を楽しく過ごせ、心にかなう道を、目に映るところに従って行け。さらに「神はそれらすべてについてお前を裁きの座に連れて行かれる」と。若さを喜び、楽しく、心にかなう道に行け。「若さも青春も空しい」、若さも青春も過ぎ去るものだ、今、与えられている若さを楽しみ、懸命に生きなさい。神は「裁きの座につれていかれる」、これは神はあなたのすべてを知っておられる、真剣に今を生きなさい、ということを強く語っているのです。

 聖書は世の命を超えた救いを、神と共にある命の救いを、イエス・キリストを通して与えられることを究極的に語っていますが、それを見つめることで、世のことを忘れたり、世のことを疎かにする生き様を否定しています。
 コヘレトの言葉が書かれた時代、永遠の命、死を超えた命にのみ希望を置くようになって、世を諦めて生きるようになった人々に対して、コヘレトは今を生きろ、懸命に、楽しみ、愛し合い生きなさいということを、神からの知恵の言葉として語っているのです。
人生ははかなく空しいから意味が無いというのではない。はかなく空しいからこそ、真剣に生きるのだ、パンを水に浮かべて流し、分かち合いつつ、共に真剣に生きなさいということを語っているのです。

 この年、私たちは神の愛のもと、神の導きのもと、まことの救い、命を見つめつつも、世の現実をしっかり見つめつつ、各々のパンを水に浮かべて流しつつ、与え合いつつ、真剣に為し得る最善を為すことを求めつつ、そして共に歩んで行きたいと願います。神の祝福が皆様の上に豊かにありますように。