「ペトロは『違う』と言った」(2020年3月8日礼拝説教)

創世記4:8~9
ヨハネによる福音書18:15~27
 
 イエス様の逮捕は、夜の闇の出来事でした。そして逮捕から十字架に至る道のすべてのことは、人間の社会の現実や、心の闇を抉り出すような出来事ばかりが繰り広げられて行くことが思わされます。いつの時代もどこの時代も変わらない、人間のさまざまな側面、弱さ、人間の罪を聖書は深く浮き彫りにしていきます。
 先週お読みしながら殆ど触れることが出来なかった12節~14節、そして今日お読みした19節~24節は続いています。ここは、新共同訳は小見出しとして「大祭司」となっていますが、実はここでイエス様を尋問しているアンナスという人は、この時の大祭司ではありません。アンナスは、当時の大祭司カヤファの舅であり、紀元6年から15年まで大祭司を務めていた「元大祭司」です。この人は悪名の高い人で、当時のユダヤ教の大祭司というのは、ローマ帝国の中にあって、ローマに追従し、ローマ政府の命令に最も積極的に従おうとする者にその権威が与えられるようになっており、大祭司職を巡っては、闘争と陰謀、贈賄と汚職が渦巻いていたと申します。そのようなことの温床となっていた悪名高い人物なのです。
 イエス様が神殿で商人を追い出されたという事件を、4つの福音書ともに記してありますが、神殿の境内で犠牲の動物を売るという行為は、「アンナス市場」と呼ばれていたほど、その利益の多くがアンナスの手中に納められていたと申します。
 献げ物とする動物は、律法の規定によって傷も汚れもないものでなければなりませんでした。神殿の外で鳩を買えば安いけれど、神殿に入る時に検閲官が居て、律法の規定外の傷があるなどと、外から持ってきた動物は、決まってなんらかの「いちゃもん」のようなものをつけられて持ち込むことは出来ず、自然と神殿に献げ物をするために来た人々は、神殿の屋台で、外の20倍近い値段で動物を買うことになり、その利益の多くはアンナスに・・・そのようなことが起こっていたのだそうです。そのような背景もあって、イエス様は、「強盗の巣にしている」と仰り神殿で商人を追い出したのですね。
 そして、この時、アンナスが大祭司を退いてから15年以上経っていたと思われるのですが、当時の大祭司カヤファの舅ということで、まだ院政のような権力を持っており、イエス様は大祭司カヤファのところに連れて行かれる前に、アンナスのところへと連行され、尋問をされたということなのです。制度に拠らない、人間的な見えない権力の場。今の政治でもありそうな出来事に思えます。
 その尋問は、イエス様の弟子のこと、また教えについての事柄でありました。イエス様がご自身を主なる神から遣わされたお方であることを公言しておられたことが「神を冒涜している」という罪に見做せる唯一のことでありましたので、イエス様の口から、「神を冒涜している」と見做される言葉を引き出そうとしていたのでありましょう。
 しかしながら、ユダヤ教には基本原則として―律法そのものではありませんが、律法に基づく解釈により―裁判では、被告人自身が答えることによって罪を認めることになるような質問を一切してはならない、被告人はそのような質問を受けてはならないという原則がありました。「罪人自身の告白によって死刑に科すことをしない」と。
 イエス様は、アンナスの問いかけに対して、「なぜ、わたしに尋問するのか。わたしが何を話したかは、それを聞いた人々に尋ねるがよい。」と言われたのは、イエス様はそのユダヤの原則を重んじておられたからであると思われます。ご自身の判決について、被告であるイエス様ではなく、法に則って「聞いた人に尋ねなさい」と言われたのです。面倒な変なことを仰っているのではなく、正当な手続きを踏みなさいと、ここでアンナスに求められたのだと思われます。
またイエス様はいつも神殿で人々の前で話しておられたのに、ユダヤ人たちは人々を恐れてその時はイエス様を逮捕しなかったのに、闇夜に捕らえ、そして、最早大祭司ではないアンナスによってここで裁かれようとしていました。
 法を逸脱する二重の曖昧さの中で、イエス様の裁判は始まったのです。
 その時、イエス様の言葉に、下役のひとりが「大祭司に向かって、そんな返事の仕方があるか」と言って、イエス様を平手で打ちました。世の権威に対してへつらい、権威に乗じて人を侮る、そのような人はいつの世も、どこにもおります。

 ペトロともうひとりの弟子―この弟子は13章で「イエスの愛しておられた者」と語られ、食事の席でイエス様の胸元に寄りかかり、イエス様を裏切る者について「主よ、それはだれのことですか」と問うた弟子であり、イエス様の十字架の傍にあって、イエスの母を、自分の家に引き取ったと記されている弟子であり、またマグダラのマリアから主が墓から取り去られているということを聞いた時、ペトロと共に走って墓に行き、墓が空になっていることを「見た」弟子のことです。この弟子が、ヨハネによる福音書を書いたヨハネである、というのが古来からの通説なのですが、この弟子=ヨハネは大祭司の知り合いであり、イエス様が捕らえられた後、イエス様と一緒に大祭司の屋敷の中庭に入りました。
 ペトロはその時、一緒に中には入れなかったのですが、門の外に立っておりました。恐らくは隠れるように。
 もう一人の弟子は、出て来て門番の女性に話しをし、ペトロを中に入れました。
 門番の女はペトロを見て「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか」と問うたのです。その時、ペトロは「違う」=わたしはそのような者ではない、とイエス様の弟子であることを否定いたしました。

 この出来事は、四つの福音書ともに伝えている出来事です。イエス様はヨハネ13章で、「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と予告しておられます。
 昨年の受難節には同様のルカによる福音書の御言葉を読みましたが、ルカはこの時のペトロの揺れ動く激しい感情、そして「御一緒なら、牢に入って死んでもよいと覚悟しております」と言いながらも、咄嗟に自分の身を守るために裏切る弱さのあるペトロに対する、イエス様の限りない慈しみと愛が強調して語られていました。ペトロの咄嗟の行為はサタンから来るものである、人間はサタンの誘惑に屈することは簡単である、「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」というイエス様の限りないペトロに対する慈しみと愛が語られておりました。
 また、ペトロが三度目に「知らない」と言った時、イエス様がペトロを振り返られた、そのことも語られておりました。
 それに対し、ヨハネは非常に淡々と事の経緯を語ります。
 
 門番の女に、「違う」と言ったペトロは、そのまま何食わぬ顔で、屋敷の中庭に入りました。そこには、炭火が起こしてあり、僕や下役たちは、火にあたっており、ペトロの彼らの中に入って立って、炭火にあたりました。

「炭火」ということ。炭は燃やすと灰になります。
 受難節の最初の日は、「灰の水曜日」。今年は初めて、昨年の棕櫚の主日に作った棕櫚の十字架を燃やして灰にしたものを頭にかぶる礼拝をいたしました。
灰というのは、聖書の中でさまざまな象徴的な意味があります。
人は神によって、土の塵で形づくられ、その鼻に神の命の息を吹き入れられて生きる者となりました。しかし、創造主である神の御言葉に背いて罪を犯し、人は皆、罪のゆえに死ぬ者、塵に返る者となりました(創世記3:19)。灰は人間が死すべき罪人であることを語るのです。
 また灰は、悲しみや嘆き、懺悔、悔い改めなどの象徴として語られます。ヨブは「灰の中に座り」、自分の苦しみや悲しみを表しました(ヨブ記2:8)。
 さらに預言者イザヤは神からの召命を受けた時、神の栄光を目の当たりにして、自分の罪のゆえに滅ぼされることを恐れ申しました。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇を持つ者」と。その時、セラフィムという天使のような存在が、祭壇から火鋏で取った炭火をイザヤの口に触れさせられ、「見よ、これがあなたの唇に触れたのであなたの咎は取り去られ、罪は許された」と言われ、預言者として新しい歩みに召しだされました。炭火は、罪深い人間が神の御前に立つ者とされる時、聖められる、そのような象徴としても語られています。

 ヨハネ福音書がここで敢えて「炭火」ということを語る時、ペトロの罪、死すべき人間の罪、弱さ、悲しさを語っているのではないでしょうか。
ペトロはイエス様の側近中の側近の弟子でした。いつもイエス様の問い掛けに真っ先に答えていた人であり、イエス様の逮捕の時は、持っていた剣で大祭司の手下に打って掛かり、その右の耳を切り落とすことをしています。そして、危険を犯して、大祭司の屋敷の中にまで足を踏み入れている。
他の弟子たちは逃げてしまいましたが、ペトロは自分の弱さを抱えながらも、それでもイエス様について行こうとしておりました。

 しかし、イエス様の弟子とは「違う」ということを言って、イエス様の弟子であることを自ら否定をして、中に入って行ったペトロの前には炭火がありました。 
更に炭火の傍で、「お前もあの男の弟子の一人ではないか」と言われ、「違う」と言い、更に、ペトロが右耳を切り落とした人の身内の人もそこにおり「園であの男と一緒にいるのを、わたしに見られたではないか」と言われ、三度打消しました。そこで、イエス様が予告されていたとおり、鶏が鳴いたのです。イエス様はそれらすべてのこと、ペトロの弱さの故に起こることを、知っておられました。

「炭火」という言葉を新約聖書に於いて使われているのは、ここと、もう一箇所、ヨハネによる福音書21:9、復活されたイエス様が、ガリラヤ湖のほとりで「炭火を起こして」おられ、その上に魚がのせてあった、という記述です。
 私には、この二箇所の炭火ということ、関連しながら意味があるのではないかと思えるのです。
 イエス様の逮捕のこの時、死すべき人間の罪を表す炭火が起こしてあったこと。
 そして、主が復活された時、主ご自身が炭火を起こしておられたこと。

 逮捕の時の炭火、それは、ペトロの罪、人間の弱さ、悲しさの象徴であり、復活の主が炭火を起こし、弟子たちのために魚を焼いておられたということは、魚は「信徒」を象徴しますので、イエス・キリストを信じる信徒というのは、悲しみと苦しみの中で、灰の上に座り、灰を被ったヨブのように、ひとたび苦脳の中に置かれながらも、罪を悔い改めることによって、イエス・キリストによって新しく生きる者とされる。炭火―灰という、人間の弱さをイエス・キリストが取りなしてくださる。そのことを、ヨハネ福音書は語っているのではないかと思うのです。

 ペトロはイエス様の側近中の側近の弟子でした。イエス様のお傍に居て、意気揚々と希望に満ちて歩んでいた。しかし、師であるイエス様の逮捕という、ペトロたちにとっては思いもかけない事態が起こることになり、咄嗟にイエス様を裏切って逃げてしまい、更に咄嗟にイエス様の弟子であることを「違う」と三度も否定をしてしまうということが、自分の意に反して起こってしまいました。あんなに希望と喜びに満ちていたのに。
人間は、どんなに立派に見えても、咄嗟の時に、心の根っこの深いところ、ある場合には毅然とした姿がさらけだされ、またある場合には、弱さがさらけ出されるものなのでありましょう。

 イエス様の逮捕と、十字架を経験することになった弟子たち。
信仰生活というのは、時に闇夜を通らされるように思える時があります。神から遠く離されたようにすら感じることがある。私たちは、このイエス様の逮捕という出来事を通して、そのことを自分の信仰生活の中にも有り得るということを認めなければならないのではないでしょうか。
ペトロたちにとっては、イエス様の逮捕と十字架は、信仰の闇夜であったに違いありません。そこには炭火がありました。人間の罪と、人間のはかなさ、悲しさを表す炭火。炭火の前でペトロはイエス様の弟子であることを「違う」と否定をしてしまいました。もうすべては終わってしまったかに思えた出来事でした。
しかし、復活の主は、炭火を起こして、魚を焼いておられた。ペトロが炭火の前で「違う」とイエス様を否定したのと同様に、イエス様は炭火の上に、キリストを信じる信仰者=信徒を象徴する魚が焼いておられた。イエス様が炭火の上の魚を取り扱っておられた。

 キリストを信じる信徒というのは、キリスト御自身が炭火の上に置いて取り扱われている魚のように、自分の罪や弱さ、悲しさの上に、復活のキリストによって取りなされ、弱さの上に新しく生かされる者なのではないでしょうか。
 そして、信仰の闇夜を通らされるように思える時は、実は神が人間に弱さや悲しさ、罪の中に埋もれるのではなく、もっともっと神を仰ぎ見よと仰っている時なのではないでしょうか。自らの不信仰、罪を悔い改めて、そこからもっと神を信頼して、不正ではなく、真実に心を向けて、キリストに取りなされ、扱われる、暗い世にあっても、まことの命の確信に立てと言われているのではないでしょうか。
 ペトロは、この「違う」とイエス様を否定した挫折から、この後、立ち上がって新しく生きる者となっていったように。

 今、新型コロナウィルスが世界中に蔓延し、とてつもない脅威となっていて、私たちの信仰生活、また日々の生活を脅かしています。このことに教会も巻き込まれており、キリスト教会全体が信仰の闇夜を通らされているように思えてしまい、世にある人間のはかなさに埋もれてしまいそうな、神が見えなくなるような思いに駆られてしまいそうになりますが、この闇夜に換えて、イエス・キリストは私たちに道を備え、弱さと悲しみの炭火の上に、信徒を立ててくださる、このことを信じたいと願います。
 少々困難がありましょうが、現実の困難や悲しみで、神が見えないと思えるようなことを超えて、敢えて神を見上げ希望を持ち、主のなしてくださること、主の愛の世に表されることを待ち望む者でありたいと願います。
 主は必ずその復活の力を私たちに与えてくださいます。闇を通して、まことの光が私たちを必ず包んでくださいます。
主なる神は、愛であられ、また世界は主によって秩序正しく造られたのですから。神がすべてを回復してくださることを信じて、祈り求めたいと思います。