「心の清い人々は幸い」(2020年6月14日礼拝説教)

詩編24:3~6
マタイによる福音書5:8

 イエス様の山上で語られた8つの幸いのひとつひとつを読み進んでいますが、特に最初のふたつ「心の貧しい人々は幸い」「悲しむ人々は幸い」という言葉を聞いて、私たちの日常の価値観とかけ離れていることに驚かされました。
ちょっと心を歪めて言いますか、斜に構えて字面の一部だけを読みますと、「貧しいあなたはそれで幸いなんだよ、悲しんでいるあなたはそれで幸いなんだよ」そこを取って「あなたはあなたのままでいいんだよ」というように、信仰という名のもとに理不尽なことを押し付けられて、無理やり言い聞かせられるように聞こえなくもありません。新興宗教には、そのような言い方をする団体もあるようです。こんな風に、少しでも感じるというか、邪な思いを以って御言葉を想像することが心を掠める私は、心が歪んでいるのでしょうか。
「心」というのは、人の目には見えません。人間の内側に秘められた「隠された場所」と言えましょう。時々、心に思ったことがすぐに顔に出る正直な人がおられますけれど、心の中に一物があるときなど、それを隠そうと、人は敢えて不自然なまで、にこやかさを装ったりもするものです。先の私のように御言葉に正しく聞きたいと願いつつも、ひねくれた感じ方が心をふと掠めてしまったり、本心とは裏腹な態度を取ったり、人間の心は複雑です。
サムエル記上16:7に次のような御言葉があります。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」人に対しては自分の心を隠すことが出来る「かも」知れないけれど、神に対しては私たちの心はすべて知られている、神は私たちの心を見られるお方なのです。
そんなことを思いつつ、「心の清い人々は幸いである。その人々は神を見る」という今日の御言葉を読み、イエス様の言葉を斜めから揶揄するように聞いたとしたならば、決して聖書の御言葉の真理、神の愛、神を知ることは出来ない、また「神を見る」ことなどには到達し得ないのだということを思わされたことでした。

イエス様の周りに集まっていたのは、貧しく、理不尽なまでの悲しみを負って生きていた人々でした。人々はイエス様の言葉を聞いて、どれほど素直に嬉しかったか、言葉を聞いた人々の目の輝きを想像しています。「幸い」という言葉は、「祝福に満ちる」という意味もある言葉です。「心の貧しい人々は幸い」「悲しんでいる人々は幸い」という言葉をイエス様から聞いた時、神の祝福と幸いは、今、自分たちのところにあるのだ、今、貧しく悲しみの中にある自分たちこそが、神の祝福を受けているのだと、心の傷みが溶かされる思いでイエス様を見つめ、その御言葉を聞いていたのではないでしょうか。

 旧新約聖書共に、「心」という言葉は、体の部位としては心臓を表します。英語でも My heartと言う時、心臓を指しますが、それはギリシア語に由来しているのでしょう。心臓、体の中心、命の中心です。ちなみに、3節の「心の貧しい人々」と今日の御言葉で、同じ「心」という言葉を使っていますが、原語のギリシア語では、別の言葉が使われています。3節は「プネウマ」=霊に於いて貧しい人々であり、今日の御言葉は「カルディア」=心の清い人々と語られています。プネウマ=霊と、カルディア=心、微妙に重なり合いつつ違う言葉です。
 新約聖書はギリシア語で書かれていますが、イエス様の実際語られていた言葉は、アラム語と言って、旧約聖書ヘブライ語の方言のような言葉でした。ですから、イエス様の言葉は、旧約聖書のヘブライ語のニュアンスを引き継いでいます。旧約学者のヴォルフという人の『旧約聖書の人間論』という本があり、その中で、霊、心、魂などの言葉について詳細に解説をされていますが、「霊」という言葉に関する章の表題は「強められた人間」、「心」の章の表題は「分別ある人間」となっています。
霊は何によって「強められるか」、それは主なる神によって強められることに他なりません。
そして、心は「分別」。人間の感情のみならず、理性や意思決定の部分。人間のうちに働く霊は神の領域であり、人間には神の霊が与えられている―創世記2:17で、人は鼻に神の息を吹き入れられて生きた者となりました―心は人間、それ自身の感情、理性、意志決定などを司るものとして語られています。ですから、「心の清い人」というのは、人、その人自身の人格、心の思いそのものと、大いに関連して語られているのです。

 そして「清さ」ということですが、旧約聖書の律法では、「清いもの」と「汚れたもの」とを厳密に区別をしていました。今もイスラエルに行きますと、さまざまな場所に「洗い場」があります。それは神様のみ前に出るため、罪を洗い清めるため、象徴的な行為として手や体を洗うのです。
しかし、イエス様はマタイ23:5,6で言われました。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。」と。外側だけを形式的に綺麗にするファリサイ派の人々は「ものが見えていない」とイエス様は言われています。体の表面を洗い清めても、それは偽善に過ぎず、神が人間に問われるのは、その「心」、その人の奥深くにある「心の清さ」なのです。

しかしながら、「神は人の心の清さを見る」そのように言われても、私たちは戸惑います。自分のうちに罪があることを知っているならば、自分の心など清くなどない、私など、神に相応しくないと思ってしまい、「心の清い人々は幸い」という御言葉は、自分とはかけ離れたものと思えてしまわないでしょうか。実は私はこの8つの「幸い」の中で、この言葉は一番自分に遠いと思え、何となく後ろめたい気持ちを持ちつつ、少し遠くからの目でこの御言葉を見つめていたように思います。
しかしながら、人間は罪人です。罪の無い人はおりません。
 ルカ18章に「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」がありますが、自分は正しい人間だとうぬぼれて他人を見下しながら、堂々と神殿の真ん中に居るファリサイ派の人と、神殿の聖所から遠く、目を天に上げることも出来ずに、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と胸を打ちながら祈った徴税人のふたりのうち、義とされて家に帰った=「清い者」と認められたのは徴税人でした。
 神の御前に「清い」とされる心とは、自らの罪を認め、悔い改め、神を第一として神を求める心なのです。この徴税人は、自分の罪の故に、顔を上げて、目を天に上げることも出来ませんでした。自分には、神を見る資格など無いと思い、ひたすら罪を悔いて、神の憐れみを乞うていた。この人は気づいたのです。世の移り行くさまざまなものに縋ることの虚しさに。自分が人を苦しめる者となっていることに、苦しみを感じるようになっていたのです。徴税人として貧しい人から税金を取り立てる時、はじめはそれが自分の仕事であり、生きるために、平気で弱い人を虐げていたかもしれない。しかし、取立てをする弱く、貧しい人たちの涙に、この人は自分の罪に気づき、神に憐れみを乞うしかないものとなったのではないでしょうか。そのような悔い改める罪人を、神は義とされました。神の御前に義しいもの、心の清い者と認められました。
「心の清さ」とは、単に「子どものような無垢な心」、生まれながらの美しい心ではないのですね。そして、「その人たちは神を見る」とイエス様は語られたのです。

さて「神を見る」ということです。
旧約聖書に於いて、神の顔を見た者は死ぬと考えられていました。ヤコブはペヌエルで神と格闘した時、「主なる神と顔と顔を合わせて見たのに、なお生きている」(創世記33:30)と言って、自分にまだ命があることに驚きました。モーセは神の臨在に初めて出会った時、「神を見ることを恐れて顔を覆」いました。(出エ3:6)預言者イザヤも、神の召命を受けた時「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。・・・しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザヤ6:5)と言って恐れました。人間は、罪がある故に、神を見ることは出来ないと考えられていたのです。
しかし、イエス様は「心の清い人々は神を見る」と言われました。「見る」というギリシア語、オラオーは、視覚的に見ることが出来る、その意味が強い言葉です。心の清い人は、神をその目で見ることが出来る、とイエス様は言われるのです。
しかし今、私たちは神を実際に「見る」ことは適いません。おそらくどれほどの信仰を持つ人も、神を見ることは出来ません。私たちは今、ただ信仰をもって心の目で神を仰ぎ見ています。肉眼では見えない神を、ただ信じる信仰によって希望をもって見つめています。パウロは申しました。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔を合わせて見ることになる」(一コリ13:12)
イエス様がここで「神を見る」と言われたこと、そしてパウロが「そのときには、顔と顔を合わせて見ることになる」と言われたことは、「終わりの時」、神を顔と顔を合わせて神を見ることが出来る、そのことを語っているのです。
 罪を悔い改め、神の憐れみを求め、心を神を第一とする時、私たちには、イエス・キリストの十字架の恵みが溢れ出て来ます。主は悔い改めた罪人の罪のすべてをその身に帯びて、自らの十字架で罪を罪として滅ぼして下さいます。そして、私たちを、キリストにある新しい命のうちに入れてくださるのです。
 そしていつの日か、私たちは誰しも、この世の命の終焉を迎えます。主と顔と顔を合わすのはその時、でしょうか。それとも、その先にある、すべての終わりの時の、復活の時でしょうか。「心の清い人々」、悔い改めた罪人は、神を、イエス・キリストに見えることが適うのです。信じる者には、死を超えた確かな希望があります。
 主といつの時か、顔と顔を合わせ、見えることが出来る―何と嬉しいことでしょうか。

 今、私たちは、何を中心に「見て」いるでしょうか。
 この世のさまざまな思い、欲望に翻弄されてはいないでしょうか。私たちの「幸い」とは、私たちが「何を見るか」に掛かっているのです。世のことを真ん中に置くのではなく、心の目で神をまず仰ぎ見る、罪を悔い改め、キリストに自らを委ねる―そのような歩みを、日々重ねて行くものでありたいと願います。
イエス・キリストと共にある命に生きる時、それは神共にある命を日々歩むことですから、神を第一に求め、従い行く私たちに、神は折々に、私たちに最も良いもので満たしてくださることでしょう。そして、いつの日か、命の終わりの時、さらにすべての終わりの時、神と顔と顔を合わせて見える日がやって来ます。
「心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る」のです。その希望をもって、今日を歩みたいと願います。