「平和を実現する人々は幸い」(2020年6月21日礼拝説教)

イザヤ書11:1~10
マタイによる福音書5:9
 
「平和」という言葉を聞く時、皆さまは何を思い浮かべられるでしょうか。戦争や争いのない世界でしょうか?
「平和」というヘブライ語は「シャーローム」。イスラエルでは、どこに行ってもどの時間でも、挨拶はシャーローム。この言葉は、ただ単に戦争や争いがないという状態、単に社会的な平和を表す言葉ではなく、何者によっても阻害されない、個人または共同体の生活に於ける、精神的・物的・肉体的にあらゆる面で自由で、完全で理想的な、神によって与えられる充足の状態を表す言葉です。今日の御言葉に語られているギリシア語に置ける「平和」は「エイレーネー」。シャーロームの意味を踏襲する言葉で、「平和」とは、神によって与えられる充足であり、神による「救い」と非常に近い意味があります。
 パウロはロマ書15章で語っています。「平和の源である神があなたがた一同と共におられるように。アーメン」と。神は平和の源であられます。
またお読みしたイザヤ書11章は、やがて「平和の王」が来られるという、紀元前700年頃に語られた預言の言葉でした。これは旧約聖書のメシア預言と言われるもののひとつで、イエス・キリストの到来を指し示すものと理解をされています。イエス様は「平和の王」。この罪の世にまことの平和と、自由と、神共にある充足=救いをもたらすお方です。
 イエス様がその十字架に於いて、肉を裂かれ、血を流されたことによって、自分の罪を悔い改め、キリストを信じる人々の罪はキリストの十字架と共に葬り去られ、神と人との断絶は取り去られ、人は神共に生きる命の道が示され、そのことを通して、キリストの血に於いて赦された人間と人間が、赦された者同士として、まことにキリストにあって、赦し合い、敵意という隔ての壁を取り壊し、神ともにある平和が与えられ、新しいひとりの人=キリストの体として造り上げられる教会共同体が世には形成されました。(エフェソ2:11~)
 もし、イエス・キリストの教会共同体に属しながら、共に生きるこの共同体と人々を、キリストにあって愛し重んじることをせずに、生まれたままの自分本位の思いのままに、キリストの体の中に、敢えて争いや悲しみを引き起こすようなことがあるならば、人が自分本位の思いで人を裁くことがあるならば、それはキリストの十字架によって赦された者の姿ではなく、イエス・キリストの十字架を無きものとすることです。
 教会は、自らの罪を認め、神の御前にへりくだり、悔い改め、赦された者たちの群であり、キリストに赦された者たちであるからこそ、互いに赦し合い、違いを認め合いつつ共に生きることが出来る、絶えず神の御心を求めつつ共に生きる、赦された者であるからこそ、キリストにある一致と平和のうちを生きることが適うのです。

 さて新共同訳は「平和を実現する人々は幸い」と、「実現する」と訳されていますが、一昨年の新しい翻訳である「聖書協会共同訳」またほかの多くの翻訳では、「平和を造る人々は幸い」と訳されています。
 世にあって平和とは「造り上げる」ものであって、私たちの生きている世にはもともと「平和」というものは無い、なぜならこの世は、平和の源である神から引き離された世であり、人間には罪があり、どこまでも神ではなく自分中心の性質があり、そのような性質が強く出る人に於いては、自分の意に沿わないもの、都合の悪いものを憎み、自分の願望で自分の周りをも都合よく動かし造り上げようとまでする、そのような人まで出て来ます。
 そして人類の歴史を思い返しますと、戦争の無い時代は無いと言ってよいほどです。絶えず各地で人と人、国と国、民族と民族の間の戦争があり、世界は傷んでいます。人と人との間の平和―それは社会平和に繋がって行きますが―それは「造り上げる」人がいなければ、自然には、罪のこの世には無いのです。イエス様は平和とは「造り上げる」もの、人の手によって「実現するもの」とここで語られておられると思います。

「平和」ということに関しては、人間の生きる社会には皮肉なこともあります。イエス様の時代は「パックスロマーナ」=「ローマの平和」と言われる時代でした。これは、ローマ皇帝の絶対的な権力と軍事力によって、人権も何もかも押さえ込むことによって、人々が鎮められ作られた平和でした。
 そして現代では、それを用いたら地球がたちどころに絶滅するような、大量の核兵器が世界の「平和」の均衡を保つための道具に見做されています。またこの国には憲法第9条のもとにありながら、「『平和』安全法制」と言う名の、同盟国の戦争に自衛隊が協力支援が出来る、他国の戦争に自衛隊が加担出来るという法律が、2015年に強行採決をされました。
 このことは、政治に無関心に生きて来た私が、民主主義社会にあって、政治は監視しなければならないものだと目を開かされた出来事でした。「平和」と言いつつ戦争に加担出来るような法制が作られるとは、「平和」ということに対し、人間はどこまでも詭弁を弄するものだと思わされます。
 それらは、一体、誰のための、何のための「平和」なのでしょうか?一個人の尊厳に於いては、また庶民である私たちの生きる社会に於いては、それは「平和」ではなく、「混乱」と「破壊」、人権が蹂躙されることに思われます。

 そのような世の人間の詭弁に対して、聖書の語る「平和」は、すべての人の尊厳が守られ、精神的、物的、肉体的に自由で、神が共にある完全な理想的な充足であり、イザヤ書11章に語られているように、「狼は羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す」ような、争いの無い、強い者が弱い者を蹂躙するような世界ではなく、弱い者と強い者が共存し、互いに大切にし合う、そこには主なる神がおられる、そのような「平和」です。

 それはまだ実現しておりません。
「平和」ということについて、少し難しいですけれど、完全な救いと平和は、この罪の世の終わりに来る、新しい神共にある天地に於いて顕される、これは聖書の世界観です。具体的には「ヨハネの黙示録」に、まことの平和が来ることと、そこに至る世の壮絶な戦いが語られていますが、世にあっては、完全な「平和」は成し遂げられないこととして、聖書のどこを読んでも語られていると思われます。

 森有正という思想家、哲学者は、そのような聖書の世界観に対し次のように語ったそうです。「キリスト教というのは、社会的に絶望した宗教です。黙示録が語るように、非常な勢いで、地上の楽園を否定するのがキリスト教信仰だ、この世には絶望しているものだ」と。
 確かにそのような側面があります。イエス・キリストの十字架の既に立てられた世ではありますが、救いの完成はまだ来ていない。世に於いては救いは完成されない。それが聖書が語っていることなのですから。「その日」まで、人は世に於いて信仰と希望と愛に基づいて忍耐をして神に従い生きることを、御言葉は何度も何度も語っていて、救いの完成は世の命を超えたところにあることを語っているのですから。
 世は多くの罪と悪に満ちています。世にあって平和を造り出すということは、生半可なことではありません。
 今の日本と世界を見渡しても、アメリカではもう殆ど克服していると甘く私など思っていた人種差別の問題が大きな悲劇を引き起こして、国を揺れ動かしています。 
 アメリカはキリスト教国です。大統領が聖書に手を置いて宣誓をするような国です。それなのに、キリストの愛は脇へ追いやられたように聖書の教えとは真反対の人種差別が建国以来、未だあるのです。日本でも、さまざまな差別意識や偏見というものがこの数年あまりにも酷くなってきていることを覚えます。世は人と人同士が分断され、憎しみと争いに満ちています。人間の罪は深く、「平和」という言葉は詭弁に満ち、愛は冷え切っています。

 しかしイエス様は今も叫んでおられます。「平和を造り出し人々は幸い」と。
 キリスト教は、終末の完全な救いと平和を語りますが、厭世的な信仰では決してありません。終末の平和、救い、永遠の命を見つめつつ、「今」を神共に、御言葉に聞き、自らを省み、吟味し従い、神の支配が私たちのうちに来ることに希望を持って世を生き抜く信仰です。
 世には苦難があり、戦いがある。それもはっきり語られていますが、それであっても熱心に生きることを止めない、希望を持ち、忍耐を持って、御言葉に従いつつ日々を一歩一歩歩みぬく信仰です。そのように歩む時、神は共に居て私たちを励まし、必ず守り、導いてくださいます。
 そしてイエス様は私たちに、「平和を造り出す人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と敢えて語られたのです。

 私たちには何が出来るのでしょうか。私たちは小さな力の無い者です。私たちになし得ることは、きっと目の前にある小さなこと、大風呂敷を広げるのではなく、目の前に居る隣人に対する配慮から始めるべきでありましょう。
 キリストにある者として、私たちの最も近しい隣人、教会の友、そして目の前にあらわれた隣人となる人に、愛と誠実を尽くすことから、目には見えないほどの心の配慮から、小さな一歩から平和を造りだしていくべきでありましょう。
 マザーテレサはある集会で、立ち上がったひとりの人の「世界平和のために何をしたらいいのでしょうか」という真剣な問いかけに対し、「帰って家族を大切にしてあげて下さい。」と答えたのだそうです。神のために何か大きな善いことを、働きを探すよりも、まず一番近くにいる存在のために心を尽くして生きること、その存在を重んじること、そこから私たちと世との平和は始まって行くに違いありません。

 最後に、この後、讃美歌469「善き力にわれかこまれ」を賛美しますが、この曲は、ボンヘッファーという、第二次世界大戦下のドイツの牧師であり、非常に優れた神学者の死の数か月前の詩を讃美歌にしたものです。
 ヒットラーによるナチスドイツ政権のもと、ボンヘッファーは逸早くヒットラーの危険性に気づいたと言います。戦時下、ドイツのプロテスタント教会はナチスドイツの監視下に置かれ、ナチスは教会の組織・教義にまで干渉しました。教会堂にはナチスのかぎ十字(ハーケンクロイツ)の旗が翻っていたと言います。(日本の教会に日の丸を掲げることが強要されたのと同様ですね)
 それに対し、ボンヘッファーらドイツ福音主義教会の牧師たちは牧師緊急同盟を結成し、帝国教会に反し、ナチスに対する反対運動を起こしました。これをドイツ教会闘争と呼びます。そして、モーセの十戒の第一戒「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」を旗印とする告白教会を結成し、信仰の闘いが繰り広げられました。
 多くのユダヤ人が迫害され、強制収容所で殺される―そのような社会にあって、ボンヘッファーは、ヒットラーの暗殺計画のメンバーになるのです。ドイツから逃れてアメリカに一時移り住むのですが、しかし彼は祖国ドイツのために、闘うために戻ってきます。そしてその結果、別の容疑であったのですがボンヘッファーは捕えられ、その後あるメモから、ボンヘッファーがヒットラー暗殺計画に加わっていたことが明かされ、絞首刑とされてしまいます。
「ヒットラーの暗殺計画に加わる」―どのような信仰の葛藤があったのか、一言では言い表すことなど適わない葛藤と思索があったに違いありません。彼の手紙の折々にそれらは垣間見ることが出来ますが、キリスト者が、それも牧師が、暗殺計画に加わったのです。このことには賛否も議論も限りなくあります。そして、成し遂げられないままに、絞首刑とされてしまった。何と悲しいことでしょうか。その手段にはさまざまな考えがあるにせよ、信仰に於ける決断は挫折に終わったのです。
 ボンヘッファー自らが手を下すことを神は止められたのでしょうか。しかし、ボンヘッファーの死後20日後に、ヒットラーは自死をし、ドイツは降伏へと向かっていきます。
 彼にとっては、ヒットラーの暗殺計画に加わるということは、「平和」を造り出すための闘いであったに違いありません。ボンヘッファーの決断を、核の脅威や、日本の平和安全法制のように、「平和」という名のもとの人間の詭弁と言ってしまえるでしょうか?皆様はどのようにお感じになられますか?

「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」
 ボンヘッファーは、自らの行為で平和を実現することは適いませんでした。この罪の世に於いて、社会的な大きな意味で平和と正義を、それがたとえキリストを信じる信仰によるものであったとしても、先頭に立って悪の力と闘い、世にあって実現していくことは計り知れず困難と世との闘いがあることを覚えます。罪のある人間のこの世は、複雑で、悪の力が働いています。世には闘いがありますが、しかし、イエス・キリストは、世にあってキリストに結ばれたひとりひとりが、日々をキリストにある希望をもって世をしっかりと見据え、「平和を造り出す者」「平和を実現する者」となるべく務めることを望んでおられます。
 私たちは、今出来るひとつひとつを心を込めて為して参りましょう。

 ボンヘッファーは、処刑場で短い祈りをささげたのち、それから泰然と絞首刑台に昇って行ったといいます。彼の残した最期の言葉は「これで最期だが、私にとっては生の始まりだ」だったのだそうです。
 私は、ボンヘッファーが、今、神の子とされて、神共にあるまことの平和の中にいることを信じています。彼の信仰と行動は、後の世のキリスト者に平和のために生き抜くことを教えてくれていると思います。