歴代誌下7:11~16
エフェソの信徒への手紙3:14~21
旧約聖書の律法には「命には命」をもって「報いなければならない」(申19:23)という掟があります。「命」という言葉は、ヘブライ語でネフェシュという言葉で、旧約聖書の中には、「命(ネフェシュ)は血の中にある」また、「血は命(ネフェシュ)である」という何とも不思議な言葉があります。私はこれらの御言葉が不思議でたまらず、かつて神学校の卒業論文のテーマとしました。人は体内の血液が20%失われたら死ぬということなのですが、聖書に於いて、人、そして生き物の命は血と深く関連していることが語られているのです。
「命は血の中にある」「血は命である」、不思議で分かり難く、またイエス様の愛に似つかわしくない、残酷ではないか、と思える「命には命」という旧約聖書の掟ですが、この言葉は、イエス・キリストの十字架の贖い、十字架の救いを紐解くキーワードです。何故ならイエス様の十字架は、「命には命をもって報いなければならない」という旧約の掟の延長戦上にあるからです。
「命には命」という律法の掟があり、それと共に旧約聖書には「贖い」、すなわち代価=自分が「命には命」をもって報いる=自ら死ぬ代わりに、命の償いをほかのものがする、代価を払って(命を)買い戻すという考え方がありました。そのために旧約の時代は、人間の罪を償う贖いとして=命の身代わりとしての動物犠牲がささげられ続けていました。動物も命である血を持つ生きものであるから、身代わりとなり得たのです。人間の死すべき罪は、動物の血が身代わりになり、動物が代価となることによって、ひとつ、またひとつと贖われ、神の御前に赦され続けていた、これが旧約聖書の罪の贖いでした。
そのような数限りない動物の血による犠牲、贖いに終止符を打ったのが、人となられた神、私たちと同じ肉を持ち、命ネフェシュである血を持って世に生まれられた神=受肉された神の御子イエス・キリストの、十字架の上で流された血でありました。
神が人となられたということ、神が私たちと同じ弱い肉体を持ち、血を持つものとして世に来られたということ、これは人間の罪は、命である血をもってしか贖い取ることは出来ないという、神の側の真理だったのではないでしょうか。私たち人間には不可解な、残酷に思えることであったにせよ、命には命を、命の含まれる、また命そのものである血によって贖うことしか、神は罪によって神から離れてしまった人間を、ご自身のもとに取り戻すことは出来なかったということなのでしょう。そして遂に、動物の犠牲を退けられ、神が人となって、世に来られ、自らを「命には命」に報いる犠牲とし、十字架で血を流し死なれたのです。
イエス様の十字架の死は、神の愛そのものです。
ヨハネによる福音書15:13でイエス様は言われました。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。これ以上にない大きな愛を、神は、私たち主の十字架の御前に罪を悔い改めるひとりひとりに、人となられた神の御子イエス・キリストの十字架の血を通して与えてくださいました。
今、ここにおられる多くの方々は、ただイエス・キリストを信じる信仰によって、十字架の上で流された血によって、贖われ、神と和解させていただき、罪赦され、パウロが今日の御言葉の中の16節で語る「内なる人」、信仰によって与えられる永遠の命の約束、神共にある新たな命を得て、地上にありながら、神・キリストと共に生きるものとさせていただいています。
そのように地上に於いて神共にある命のうちに生かされている者たちの群である地上の教会は、イエス・キリストの十字架で流された血によって贖われた、買い取られた者たちが、キリストを頭とする体の一部を担いつつ形づくられているキリストの体であり、私たちは神の血筋、神の家族とされているのだということを覚えるものです。
さて、この手紙の宛先であるエフェソという街は、現在のトルコの西部の港町。今でもパウロが旅をした時代の多くの遺跡が残されている貴重な土地ですが、異教の女神アルテミスを祭る巨大な神殿があった町でした。
この手紙を書いたパウロは、第二伝道旅行の最後にエフェソに立ち寄り、また第三伝道旅行では3年間滞在し、第三伝道旅行の殆どをエフェソでの働きに終始しました。多くの混乱や論争があり、その中にあってエフェソの教会の信徒たちとパウロは非常に親密な信頼関係を築いており、別れの時には、パウロが聖霊によって予告され示されていた、この後パウロが見舞われる投獄と苦難を思い、エフェソの長老たちと激しく泣きながら、皆と一緒に「ひざまずいて祈った」ことが語られています。
パウロは、この時、牢獄につながれています。そしてこの手紙を書きながら、エフェソの長老たちと共に祈った時のように、また今日の旧約朗読で、主なる神がソロモンに「ひざまずいて祈る」ことを願われたように、主なる神の御前に「ひざまずいて祈」っています。「天と地にあるすべての家族がその名を与えられています」と語り、パウロは祈り始めます。
ここで、「すべての家族ってなんだろう」、少し分かり難い言葉で、気になっていろいろ調べて、原語のギリシア語に当たりつつ、10近い聖書の翻訳に当たってみましたが、翻訳のほぼすべてそれぞれ全く意味を違って取れる翻訳になっていました。私なりの理解では、天と地にあるすべてのものは、父なる神の支配下にある、父なる神に由来するという、パウロの信仰告白の祈りの言葉であり、また「家族」と訳されている言葉は「血筋」という意味を含む言葉ですので、特に、イエス・キリストの血によって贖い取られた、既に天にあり、今地にある、「ひとつも欠けもない(パサ)神の血筋」、イエス・キリストの血によって贖い取られ、イエス・キリストの体に属する神の家族を覚えて祈り始めている言葉なのだろうと理解をいたしました。
続けて祈ります。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」。
御父の「栄光」とは何でしょう?今日の御言葉の中で、パウロは「栄光」という言葉を2度使っています。
ヨハネによる福音書を時間を掛けて読み進んでおり、残すところはイエス様のご受難から、今年度の受難節に読むことを考えていますが、ヨハネ福音書が語る「栄光」とは、イエス・キリストの十字架を中心として成し遂げられた神の業、イエス・キリストの出来事すべてを神の「栄光」として語っています。「父は子によって栄光をお受けになる」ヨハネ14:13の言葉です。
パウロもここで十字架、そして復活、またそのことを通して信じる者に与えられる神の愛を神の「栄光」と呼んでいるのでありましょう。
聖書、また教会の祈りの中で「栄光」という言葉が使われる時、主なる神が、イエス・キリストの十字架を通して示された愛と赦し、そのことを通して表された救いを思い描いていただくと良いのだろうと思います。
その神の栄光、神の愛に従うところに、神の霊=聖霊が、「力をもってあなたがたの内なる人を強めて」いただけるようにとパウロはエフェソの人々への執り成しを祈るのです。
神の栄光である、イエス・キリストの十字架と復活の力を通して、信じる者は、神共にある命に入れられ、それと共に信じる者の内に新しい命、「内なる人」をいただきます。そして、「内なる人」に霊=聖霊が働かれ、日々私たちを強くして下さいます。
「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ」とパウロは祈っていますが、信仰によって与えられる新しい命=「内なる人」とはキリストの十字架で流された血と主の復活を通して信じる者に与えられ、聖霊によって導かれる永遠の命を受け継ぐ、私たちの内の「新しい人」とでも言うのでしょうか。そのように、イエス・キリストの血によって贖い取られた者たちの身体は、父なる神、そしてイエス・キリストの霊であられる聖霊が住まわれる「神の神殿」とさせていただくのです。パウロは、一コリント3:16で、「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」と語っているとおりです。
カトリック教会のミサに何度か出席したことがあるのですが、ミサの中で神父さんが「信仰の神秘」と必ず歌われます。「内なる人が強められる」「信仰によって心の内にキリストを住まわせる」ということも、まさに「信仰の神秘」でありましょう。信仰には「神秘」の領域が確かにあります。
イエス・キリストは十字架の上で苦しまれ、血を流し、死なれました。人間の罪は、神の目に命によって報いなければならないほどのものなのです。しかし私たちは、私たちの身代わりとなられ、命を捨てるまでの、溢れ出る神の愛によって買い取られ=贖われ、新しく生きる者とされました。「内なる人」が聖霊によって日々強められる、私たちの内には働かれる神の御力が与えられ続けている―目の前に見える現実がどのようなものであろうと、その命は確かに私たちの内に根づいています。目に映ることは変わらなくても、自分の鏡に映った姿が、イエス様を信じる前と変わっていないと思えても、確かに、私たちは信仰によって、新しく生かされる者とされているのです。
しかしながら、私たちは、この世を、問題と混乱の多い世の中を生きています。イエス・キリストの十字架の血によって贖われ、新しくされ、新しい命をいただいている・・・しかしその実感というものを私たちは非常に持ちにくいものなのではないでしょうか。
そして、本当に神は私を救ってくださったのだろうか?私は神の神殿としていただいて、聖霊によって強められ(聖霊はイエス・キリストの霊であられるお方ですから)キリストを心のうちに住まわせているということ―イエス様が絶えず私と共に居てくださるということは本当なんだろうか?と分からなくなってしまい、自分はそんな価値がないと思えたり、時に自分は神の目から離されているのではないだろうか?と思ってしまうことがないでしょうか。
私は牧師ですけれど、実はそのようなことが時に心に襲ってきて、自分が弱くされそうになることがあるのです。情けないことなのですが、どこまでも罪が絡み付いていると言いましょうか、生きる中で起こる世のさまざな困難や問題に、また自分の罪を思い、また目に見えて悪くなる政治や社会の状況に心が暗くなり、イエス様の愛が見えなくなってしまうように思えてしまう、そんな人間的な弱さを時に抱えています。
しかし、そんな不安や恐れに取りつかれる時、顔を上げて、敢えて口に出して自分に言ってみるのです。「私は、イエス・キリストの十字架の血によって、既に神共にある命をいただいている。この見える現状に神は御心をあらわしてくださる。私の内にはイエス様の霊なる聖霊が共に居て、生きて働いてくださっている。日々私に知恵を与えてくださる。私は罪を犯しても、悔い改めるならば、イエス様は赦しの道を拓いてくださる」と。
そしてさまざまな煩いから離れて、神に心を向けて、祈り、御言葉を開き、聞く。そのことを続ける中で、私の内には、こんな罪人である私の内には、確かに「内なる人」の命が根付いている。イエス様が命を捨ててまで救ってくださった、私はその愛の上に立たせていただいている―そのことが自分の感情や知識を超えて分かるようになり、沈んでいた心は希望に変わり、主がマイナスと思えることを通しても、新しい業を為してくださることに新しい希望をいただき、キリストの命が、私を満たしてくださっていること、絶えず十字架と復活の主の命が、キリストを信じる者のうちに生き生きと働いていてくださることを信じることが出来る者とさせていただいています。それでも、時に沈みそうになることもありますが、また同じことを繰り返しています。このようなことは、パウロがローマ書5:4で語るところの「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」という、信仰による練達のひとつなのだろうか?と思ったりしています。そして、更に主にある希望に絶えずしっかりと立つものとなりたい、希望に生きる者となりたい、そのことを願っています。
今日のパウロの言葉は、パウロからエフェソの信徒たちへの跪いて祈る、祈りの言葉でした。祈ること、そして祈っていただくことで、私たちは強められること、私たちの「内なる人」が強められることを、覚えたいと思います。そして私たちが互いに強く祈りあう群れであり続けることを願っています。
主なる神は、私たち、この弱く罪深い私たちが思っていることを遥かに超えて、私たちを愛しておられます。そして、ご自身のご栄光を私たちの上にあらわすことを、私たちが求めたり、思ったりすることをはるかに超えて願っておられます。そして、それを成し遂げてくださるお方です。
この確信の中、この週も歩ませていただきましょう。
主は絶えず、私たちと共に居られます。私たちを決して見捨てることなどないのです。