「モーセのような預言者」(2020年11月15日礼拝説教)

申命記18:15~18
ローマの信徒への手紙7:7~12、8:1~3

 降誕前、旧約聖書をイエス・キリストに至る救いの歴史の書として覚えつつ辿る時を過ごしていますが、旧約聖書という名称は、その書自体の名称ではなく、私たちキリスト教徒の信仰に基づく名称です。ユダヤ教に於いては「タナハ」と呼ばれ、私たちが「旧約聖書」と呼ぶもの自体が、「聖書」そのものです。
「タ」はトーラー=律法を表し、「ナ」はネィビーム=預言者、「ハ」はケトゥビーム=諸書という、旧約聖書のユダヤ教に於けるの三つの分類を表す言葉のアルファベットから「タナハ」と呼ばれているのです。
 また旧約聖書、新約聖書の「約」という言葉は、「契約」の「約」。「約束」の「約」と思われている方もおられるかもしれませんが、この「約」とは、「契約」を指します。
 私は出版社に勤めていた時代、著者との仕事のはじめにはいつも「契約書」を取り交わしていました。それは、契約を結ぶ双方の義務を認めたもので、契約とは一言一句、「てにをは」に至るまで重いものだということを、仕事に於いて身に染みて感じる日々で、「契約」と言う言葉を聞くと、私はとても緊張してしまいます。「契約」とは単なる「約束」よりもはるかに厳密で重いものです。神は、単なる口約束のようなものではない、重いまた確かな「契約」を神と民との間に取り交わされました。
 世の実務上の契約は、双方が対等な立場で取り交わされますが、聖書に於いては神の一方的な恵みが先にあり、神に主導権があって、それに人々が応答することに於いて結ばれるものです。
 旧約ということは「イスラエル民族を、律法に従うことに於いて神の民とする」という契約であり、それは石の板に書き記された十戒に象徴されるものでした。新約ということは、イスラエルを超えて「すべての民族を、イエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰によって、神の民とする」という、各々の心に、信仰によって書き記される契約ということになろうかと思います。
 それにしても「タナハ」こそが聖書であるユダヤ教徒にとって、キリスト教徒がそれを「旧約聖書」=旧い契約の聖書と呼ぶことは、途轍もなく腹立たしい事柄に違いなく、そのことへの配慮もあってキリスト教会では「ヘブライ語聖書」と呼ぶこともあります。

 また、トーラー=律法の書は、旧約聖書の最初の五書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を指し、これらは別名モーセ五書と呼ばれます。古来モーセが書いたものと伝承されて来た書です。五書の内容は物語的なものや、歴史も含み、さまざまですが、それらの合間に1,2,3、と並べられてではなく、さまざまな形で律法の掟が記されています。ある数え方によれば、613の教えがあると言われています。とにかく旧約聖書で何と言っても重要なものは律法です。

 律法はモーセがシナイ山に於いてひとり、主なる神から伝えられた教えであり、モーセは主からの言葉を受けて預かり、イスラエルの民に、主の教えを語り聞かせました。
 神からの言葉を受ける人を、「預言者」と呼びますが、預言とは、「預かる」「言葉」と書き、預言者とは、「神の言葉を預かり人に伝える者」、そのような意味です。 
 神はすべてのものを「言葉」によってお造りになられました。「光あれ」と神が言葉を発せられると、それがそのまま「事柄」となりました。神の言葉とは言葉そのままのことが事柄、出来事となって行く、そのような権威に満ちた言葉です。
 その大切な「言葉」を、神は旧約の時代「預言者」の口を通して語り、民にご自身の言葉を伝え、ご自身を顕されました。
 モーセは、律法を預かり、民に教え、律法の書を書いたと言われているのですから、トーラー=律法を代表する人物であり、また律法を主なる神から「預かった」のですから、預言者の中の最たる人。モーセは「タナハ」の「タナ」という主要な部分、旧約聖書の律法と預言者を代表する、旧約第一の人物。アブラハムも、ダビデ王も、モーセには敵わない。そのような旧約聖書を代表する人物なのです。

 今日お読みした申命記18章では、「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から(イスラエルの民の中から、)わたしのような預言者を立てられる」と語られています。この言葉は、主なる神の言葉を預かったモーセを通しての神の言葉であり、「わたしのような預言者」この「わたし」とは、モーセ自身を指します。モーセのような預言者、アブラハムにもダビデにも追随を許さないようなモーセに匹敵する預言者が、後の時代に立てられる、という主なる神からの預言の言葉です。そして「あなたたちは彼に聞き従わねばならない」と言われるのです。

 モーセは出エジプトに於いて民を導き、また更に民の間の問題があると、主なる神に道を尋ね求めつつ執り成し裁き、正しい道へと導く、イスラエル民族の預言者、指導者でした。
「モーセのような預言者」とは誰のことなのか。
 結論から申し上げますと、これはイエス様のことを語っている、と私たちキリスト教徒は理解をします。旧約聖書には、メシア預言と呼ばれる、イエス・キリストの到来を予告する言葉がいくつもあるのですが、この御言葉も、「メシア預言」の一つと理解されているのです。

 でも、ひとつひっかかることがあります。イエス様は預言者なのか、ということです。確かにユダヤ教に於いては、イエス様は「預言者のひとり」と見做されているということなのですが、それはユダヤ教の認識であって、主の十字架によって救われた私たちは、イエス様こそが神が人となられたお方、神の御子。神ご自身であられますのに、預言者とはいかなることかと。

 イスラエル、ユダヤ人にとって、この「モーセのような預言者」は、終末に現れる救い主と信じられ、「モーセのような預言者」の出現を待ち焦がれておりました。それは今でも継続していることです。
 ヨハネによる福音書1:21で、洗礼者ヨハネが登場した時、ユダヤ人の祭司やレビ人が「あなたは、あの預言者ですか」と尋ねて、ヨハネは「そうではない」と答えているのですが、洗礼者ヨハネのことを「モーセのような預言者」が遂に現れたのかと期待する人々も居たのですね。しかし、ヨハネは「そうではない」と答えています。
 またルカによる福音書16:6でイエス様は「律法と預言者は、ヨハネの時までである」と語っておられます。洗礼者ヨハネまでが「預言者」であるのに、何故、イエス様が「モーセのような預言者」なのかとやはり疑問が残ります。

 このことに関しては、申命記独特の、預言者としてのモーセを基点としてのものの見方が反映されていると考えられ、「モーセのような預言者」という言葉は当時の言葉として最高の救い主の到来を表す言葉と理解すべきでありましょう。
 イエス様は、人の姿をとって世に降られた主なる神、神の御子であられ、世に於いては、絶えず天の父に向かって祈られるお方でした。絶えず熱心に祈り、父と語り合っておられ、ヨハネによる福音書では何度も語られることですが、例えば7:17では「わたしの教えは、自分の教えではなくわたしをお遣わしになった方の教えである」と、イエス様ご自身が語っておられます。
 神の御子であられるということに於いて、イエス様は、父なる神の言葉を預かるお方でいらっしゃいました。イエス様は預言者ではありませんが、イエス・キリストは、完全に神であられ、同時に、完全な人であられましたので、人としての部分で、預言者的な一面を持っておられたことは確かなことと思われます。

 16節で「このことはすべて、あなたがホレブで、集会の日に『二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにして下さい』とあなたの神、主に求めたことによっている」と語られる出来事は、出エジプト記20章、シナイ山でモーセが十戒を主から授けられた後、雷鳴がとどろき、稲妻が光り~山が煙に包まれる有様を見て、そのような中、遠くに立ち神の声を民が聞いて死ぬほどの思いをしたイスラエルの民が、モーセに「神がお語りにならないようにしてください、神ではなくモーセ、あなたがわたしたちに語ってください」そのように叫んだ、そのことが背景にあります。
 旧約に於いては「神を見た者は死ぬ」とも言われており、神は聖なるお方で、罪ある人間とは分かたられたお方、罪ある人間には神の臨在に耐え得ないと考えられていたのです。

 また律法を神の臨在に触れつつ受け取り「死ぬ」ほどの思いをしたイスラエルの民ですが、このことは、神の律法には「殺す力がある」ということなのではないでしょうか。聖書を読む会に出ておられた方はよく覚えておられると思いますが、本城通一兄が何度も強く語っておられた第二コリント3:6「文字は殺しますが、霊は生かします」とありました。
 律法を与えられた時、民はおののき、神の聖なることの前に圧倒されて死ぬほどの思いになっりましたが、その後、文字=律法の行いに於いて、イスラエルの民は救いに至ることは出来ませんでした。律法の掟に自らを照らし合わせることに於いて、人間は律法のすべてを守ることなど出来ません。
 人間が律法を前にして知り得ることは、律法に従うことなど出来ないという自分の罪。律法がなければ、掟がなければ、善悪の基準も無かったけれど、掟が姿を表すことで、人の罪が姿を現し、罪に圧倒されて、死んでしまう―パウロはお読みしたロマ書7:9で「掟が登場したとき、罪が生き返ってわたしは死にました。そして、命をもたらすはずの掟が、死に導くものであることが分かりました」と語っています。

 主は、罪に圧倒されて死にかけたイスラエルの民の願い、「二度とわたしの神、主の声を聞き、この大いなる火を見て、死ぬことのないようにしてください」に答えられ、「彼らの言うことはもっともである。彼らのために、同胞の中からあなた=モーセのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける」と、主なる神はそのように救い主の到来を語られたのです。

 聖なる神、その威光のゆえに、人間はその姿を見たら、またその声を直接聞いたならば死んでしまう。律法が人を死に至らしめるように、罪ある人間は、直接神に会い見えることが出来ないお方。
 そのような神が、御子を人間が神を知ることの出来る姿で、人間と相対することの出来るお姿で、威光に満ちた恐ろしい姿とは程遠く、人としては大工の仕事をし、歩き教えられ、小さなロバに乗る柔和なお方として、世にお遣わしになります。私たち人間と同じ、弱い肉を持つ人としてやがて来られる。イエスというお方として。
そのお方に、主なる神は神の言葉を授けられました。主なる神が、親しい、私たちと同じ人間の姿を取られて来られ、死ではなく、人間を命に至らせる言葉を語られる、そのことが、申命記18章には既に預言されているのです。

 そして、律法の掟によらず、ただ信仰によって死から命へ、救いへと至る道が、イエス・キリストの十字架と復活を通して現されました。
これが新約・神と人間との間の新しい契約です。
 律法は罪の存在を明らかにし、人間を死に定めるものでありましたが、律法それ自体は神の言葉であり、まことに良いものです。しかし、それが罪ある人間の手に渡ると、人間は律法によって抉り出された罪に圧倒されて死ぬほどのものとなってしまいました。
しかし、その罪を、罪として心から認め、主の御前で自らの罪を悔い改めたならば、私たちの罪を、イエス・キリストはその十字架に於いて滅ぼしてくださり、新しく、神と共にある命に生きる道が拓かれます。
 心にイエス様を主・私の救い主と認め、感謝と悔い改めをもって救いを信じた時、霊=聖霊なる神が信じたひとりひとりに宿って下さるのです。
「神を見た者は死ぬ」どころか、神が私たちの内に宿ってくださる、神共に生きる者としてくださる、そのような新しい契約が、今私たちには与えられています。

 イエス・キリスト、私たちの救い主。罪、死から私たちを贖い出してくださるお方。モーセのような預言者、いえ、モーセを遥かに超えて、神が人となり、聖なる栄光の神の方から人間に近づいてくださり、十字架によって命を捨てられ、人間を死から命へと救い出してくださるお方。神の愛そのもののお方。私たちをご自分の命を捨てるほどに愛してくださっておられるお方。
 このお方が私たちの主なるキリスト。このお方は、このお方を求める者を喜んで受け入れてくださるお方です。もっともっと主を求めましょう。祈り、御言葉に近づきましょう。そして新しい契約、主の愛に生かされて、この週も歩ませていただきましょう。