「王の王、主の主」(2020年11月22日礼拝説教)

ミカ書2:12~13
ヨハネの黙示録19:11~16

 今日で、教会暦による教会の一年は終わります。
 今日は終末主日。聖書ははじめがあり、終わりがあることをはっきりと語りますが、この一年の終わりの主日、終わりのあることを見据えて、またその終わりが救い主がまことに統治される日であることを覚え、その希望を見据えて礼拝を献げます。

 皆様にとってこの一年はどのような一年でしたでしょうか。
 新型コロナウィルスがこの年の初めから猛威を振るい始め、すべての人の生活が激変いたしました。3月には突然学校が休校となり、4月には緊急事態宣言が出されました。子どもたちの生活は混乱し、経済活動が停滞し、多くの人たちの仕事が失われ、移動が制限され、皆マスクをつけ、手洗いうがい、消毒を絶えず行い、人との距離を保つことが必要とされるようになり、病院に入院された方に面会は許されなくなり、施設に入られている高齢の方々には、面会もなかなか出来ない状況です。医療関係、介護のお仕事をされている方々のご苦労は計り知れませんが、私たちの群の中にも入院をされたり、施設に入っておられる方々がおられますが、お見舞いに行きたくとも適いません。
教会も、皆様ご存知のとおり、公に集うことを閉じた時期があり、聖餐式を未だ執り行えておりません。
 これまであったもの、世の常識が覆された一年。何もかもが「コロナ」という見えない疫病の脅威とそれへの恐れの前に、一時の間に変わってしまいました。すべてのものごとに対して、見つめ直すことが神によって促されているようにも感じられます。そして、すべてを取り払い、主との正しい関係だけに生きよと、主に言われているようにも思えたりいたします。
それにしても世は儚い、世のものすべてはあまりにも儚く消えてしまうものだということを感じさせられる年でした。
 ペトロの手紙一1:24の御言葉が心に響きます。お読みします。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」。
 そんな一年が終わり、主イエス・キリストの来られることを待ち望むクリスマスがもうすぐやってきます。永遠に変わることがない神の御言葉そのものであられるイエス・キリスト、そのお方が来られることに希望を高く上げつつ、この一年の終わりの主日、神の救いの御業について、それがどのように来られるのかについて、ミカ書とヨハネの黙示録をたよりにひもときたいと思います。
 
 この一年、世界中のすべての人がコロナの苦しみを受ける中、私自身は聖書の世界観に改めて思いを馳せ、キリスト教信仰というものの厳しさを思うと共に、「神の支配」が近づいていることに思いを馳せることの多い一年となりました。
 
「神は愛なるお方」であると同時に「神は聖なるお方」であられます。
「聖」とは、神と罪ある人間との分離を表す言葉であり、旧約聖書に於いては神の聖に人間は近づくことすら赦されておらず、神の支配は生温かいほんわかした、なんでも良いよ、良いよと言ってくれるような、多くの人が求める愛の形とは違うものであることを知らされます。
 そのように分かたれた神と生まれたままの罪ある人間との関係ですが、神の側から、「聖」なること=分離を打ち破り、罪ある人間のもとに降りて来られ、同じ肉を持った人として生きられ、人間の罪を赦し、人間が神ともにある命に生きることが出来る道を拓いてくださいました。
新約の時代を生きる私たちは、既にイエス・キリストの十字架の贖いが成し遂げられた世に生きておりますので、罪の悔い改めとイエス・キリストを救い主と信じる信仰によって、罪赦され、神の聖なることとひとつになって共に生きることが赦されていますが、私たちの生きるこの世そのものは、未だ相変わらず、神とは引き離されたものであることを認めずにはおれません。
 神と引き離された世に於いて、私たちイエス・キリストを信じてその十字架の血によって贖われ、救いの十字架の陰に匿われ、世にありながら神の支配の中に入れられて生きています。
 世の理不尽な苦しみが起こる時、「神が居るなら何故こんなことが起きるのか」「神はどこにいるのか」、多くの人が心に「神」という存在に対して不満を抱き、声高に申しますが、それはまことに神がどのようなお方であり、この世というものがどのようなものであるのか、聖書を通して本当にはご存知ないからであろうと思います。

 ダビデ王、ソロモン王と続いたイスラエル統一王国は、ソロモン王の後継者争いが発端となって、南北、ふたつの国に分裂をしてしまいます。分裂の後、北王国イスラエル、南王国ユダともに、主なる神に忠実な王はほぼおらず、権力ある者は貧しい人々を虐げる、主の名のもとにあるはずのイスラエルの民の王国は、世俗の人間的な思惑にまみれて、偶像により頼み、主を忘れ、罪の中に埋もれてしまっていたのです。
 モーセを通して与えられた主の律法もないがしろにされ、さまざまな悪が襲う中、主なる神は預言者を立てられて、ご自身の言葉を預言者に託すようになります。主は人間の救いのために自ら動いて働かれる神であられます。
先週、「モーセのような預言者」という説教題で、モーセは律法と預言の中心にいる人だということを申し上げましたが、モーセの後、暫く預言は活発ではなかったのですが、イスラエル王国が南北に分かれた後、エリヤ、エリシャという預言者が北王国に立てられるようになった時代から、預言活動が活発になり、イスラエルは預言者の時代を迎えます。律法に従うことが出来ず、罪が増し加わるだけだったイスラエルの民に対し、主はご自身の言葉を預言者に託して人々を気づかせ、ご自身のもとに取り戻そうとされたのでありましょう。

 本日お読みしたミカ書のミカは、南王国ユダの紀元前8世紀の預言者でした。南王国ユダの支配者たちの罪を糾弾し、支配階級への裁きを語り、南王国にやがて起こる滅びを預言するのです。
 それはやがてエルサレムは滅び、瓦礫となる、そのような厳しい預言であり、それはそのまま、150年くらい後、紀元前587年のバビロン捕囚によって実現をしてしまいます。まことの預言は成就するのです。
 ミカ書にはそのような厳しい預言と同時に救いの言葉が散りばめられています。5章1節は、まさにイエス様の到来が預言されています。「エフラタのベツレヘム」に、「イスラエルを治める者が出る」と語られているのです。イエス様はベツレヘムの馬小屋でお生まれになられました。まさに、このことはイエス様の誕生を通して実現したのです。
 今日の御言葉は新共同訳のタイトルとして「復興の預言」とされていますが、このことはまだ実現していない預言の言葉です。ここでは神の厳しい裁きがあった後に、主による復興がなされることが語られています。
「ヤコブよ、わたしはお前たちのすべてを集め、イスラエルの残りの者を呼び寄せる。わたしは彼らを羊のように囲いの中に群れのように、牧場にみちびいてひとつにする」。

「残りの者」という言葉は、聖書に於いて独特の概念のある言葉です。いかなる試練や誘惑にあおうとも、忍耐し、主なる神への忠実を貫きとおした者と言いましょうか、殆どの人間は罪に誘われて主を忘れ、偶像により頼むことをして神を悲しませ、神の厳しい裁きによって滅びに定められてしまう。しかし最後まで主に忠実であったもの=残りの者が終わりの日に、羊のように囲いの中に、主の完全な統治の中に入れられるという、世の終わり=終末と関連する言葉です。このミカ書の言葉は、21世紀の私たちもまだ見ぬ、終わりの日の預言の言葉なのです。

 13節を続けて読みます。「打ち破るものが、彼らに先立って上ると 他の者も打ち破って、門を通り、外に出る。彼らの王が彼らに先立って進み、主がその先頭に立たれる」。
 紀元前8世紀のこのミカによる預言の言葉は、今日お読みした新約朗読「ヨハネの黙示録」19章と重なり合います。
 ヨハネの黙示録は紀元1世紀の終わり頃に書かれたもので、ミカ書とは800年以上、書かれた年月に違いがあるのですが、今日お読みしたミカ書2章とヨハネの黙示録19章は、恐らく「同じこと」を語っていると思われるのです。
 ミカ書は、罪深いユダ王国の支配階級に対する裁きの言葉であり、バビロン捕囚を預言していると思われる言葉が語り続けられますが、バビロン捕囚が起こった後も、人間の罪は絶えることはありませんでした。
遂に主の憐れみによって神が人として来られるという時が紀元1年とされる年に起こるわけですが、イエス様は紀元30年頃、ユダヤ人たちの嫉妬と、ローマ帝国の権威の中、十字架に架けられ死なれます。
 イエス様の十字架の後、キリスト教会が始まって行きますが、教会の歴史は迫害と苦難の歴史となっていきます。多くの殉教者が出て、信仰を守り抜くことはまさに命懸けのことであり、そのような時代でした。

 ヨハネの黙示録は、迫害が厳しくなっていくローマ皇帝ドミティアヌスの時代、長老ヨハネと呼ばれる人が迫害の故にパトモスという島に居る時、主なる神から与えられた幻であり、主からの預言の言葉であり、これらの言葉は教会の礼拝の中で語り伝えられた言葉と考えられていますが、黙示録で語られる多くのことは、神の裁きであり、また世の苦しみです。この罪の世、悪の支配する世には果てしないほどの苦しみがあることが語られます。罪の世に対して、次々と天よりの厳しい裁きが起こり、地上には天変地異が起こり、多くの人が死ぬ―それらは主なる神から人間への罪の悔い改めを迫るものでした。
 しかし驕るものはどこまでも驕り続け、人々は神を罵り続けるのです。神に従う義しい人々にも多くの苦しみがもたらされますが、黙示録が語ることは、耐え忍ぶものの幸い、神の掟を守り、イエスの証しを守りとおしている者たち、忍耐することがいかに必要かということが中心に語られていくのです。

 そして遂に悪の力、サタンが封じ込められ、完全に滅ぼされる時が近づきます。それが今日お読みした19章です。天に於ける高らかな賛美の中、天が開かれ、遂に白い馬に乗った騎士=イエス・キリストが現れる、キリストの統治が苦難の果てに訪れるのです。
 そのお方は、「誠実」「真実」と呼ばれ、正義をもって世の腐敗した権力、暴力によって自らを高めて驕り高ぶり、貧しい人々を苦しめる人々を裁き、また、世の権力や暴力、また搾取によって、世で不当な苦しみを受けている人たちに対して、神の公正と正義が顕されるというのです。白い馬に乗った騎手、イエス・キリストは、誠実と真実とをもって、世で不当な扱いの中で苦しむ人々の救いのために戦われるのです。
 その姿は、「目は燃えるような炎のようで、頭には多くの王冠があり、自分のほかはだれも知らない名が記されていた」とあります。多くの王冠は、王のなかの王ということでありましょう。そして、「だれも知らない名」ということは、古代において「名」はその人格そのものと考えられておりましたので、その名を知られることは、知られた相手に支配されることを意味していました。ですから「だれも知らない」ということは、他の何ものによっても支配されることのない、キリストの主権を現しています。
「血に染まった衣」を身に纏われたその名は、「神の言葉」であり、衣と腿のあたりには「王の王、主の主」という名が記されているとあります。このお方は「神の言葉」であられ、王の王、主の主、すべてのものの上に立つお方であるのです。
 このお方がこの世の悪を怒りをもって踏みつけられるというのです。
 それはまだ実現しておりません。しかし、聖書の預言は真実であり、聖書の言葉は必ず「成る」のです。

 この世には苦しみがある、このことを聖書は語ります。そして苦しみ、苦難を超えて、世の救いが定められた日にやって参ります。
 この年、私たちは多くの苦しみを担っています。世界中が苦しんでいる。この時も、神からの私たちへの強いメッセージが語られている時と信じます。「悔い改めよ」と。「わたし=主をひたすら見上げて生きよ」と。
苦難を耐え忍び、忍耐をして、主をひたすら待ち望む者を、神はうち捨てられることはありません。大切に御手のうちに守ってくださいます。世に苦難がありますが、救いは、神に従う者の上にあります。救いは、イエス・キリストを信じて、自らの罪を悔い改め、主に従う者の上にあります。
 そしていつの日か―今日かも知れません―イエス・キリストは「王の王、主の主」として力強く来られます。
 希望をもって主を待ち望みましょう。世の苦しみは、主の到来と共に終わりを告げます。信仰によってまことの命に鮮やかに入れられる時がやがてやって参ります。
 目の前の現実に打ち崩れるのではなく、主にある忍耐と希望をもって、この時を歩みぬきたいと願います。