イザヤ書2:1~5
ローマの信徒への手紙13:11~14
今日から待降節。先週は、多くの教会の皆様が教会にお越しくださり、クリスマスを迎えるためのたくさんの備えをしてくださいました。
紫の蝋燭は、私たちの心の罪の悔い改めを表します。待降節は、私たちが自らの罪を省み、イエス・キリストをお迎えするに相応しく、自らを整える時。待降節の4週間に一本ずつ増えて行く蝋燭の灯は、闇に包まれた世と私たちの心の闇を照らす光が大きくなっていくこと、イエス・キリストの到来が近づいていることを表しています。今年は、世界中、忍耐と苦労の多い一年でしたが、イエス・キリストの救いの到来は今、近づいているのです。
今日お読みしたローマの信徒への手紙13章では「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです」とパウロは語っていますが、ここで語られている「救い」とは、私たちひとりひとりがイエス・キリストを信じる信仰によって「イエス・キリストの救いに入れられる」という意味ではなく、「世の救いの完成」という意味で語られている「世の救い」です。
それは世の「終わりの日」。先週は「終末主日」として、「終わりの日」のことについてお話ししましたが、待降節、イエス・キリストを迎える時節も、可愛い赤ちゃんのイエス様が世に、貧しい馬小屋にお生まれになったことを覚えると共に、主の再臨=終わりの時、十字架に掛かり、復活され、天に昇られたイエス・キリストが、再び天より降りて来られ、全てを統治される、そのことを希望を持って見据えるという、「主が来られる」ということに、二重の意味があるのです。
イザヤ書は、先週お読みした旧約聖書ミカ書のミカと同じ時代、紀元前8世紀の南王国ユダの預言者のイザヤの預言です。2章2節では、「終わりの日に主の神殿の山は、山々を頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。国々はこぞって大河のようにそこに向かい・・・」と語られますが、先週のミカ書と同様、「終わりの日」の救いの完成の日について預言されている言葉なのです。
今は悪の力や不法が世に満ちており、暴力や争い、戦争や戦争の噂が絶えません。貧富の差が広がり、さまざまな差別や残虐なまでの暴力によって難民となっている人々、飢えている人々が多くおられるような世の中です。しかしこのことはいつの時代も変わらない。古の聖書の時代も同様であり、2000年を経た21世紀の今も変わらないことに驚かされます。現代社会の様々な状況を思いつつ、「人間は変わらない」、人間の罪は無くなることは無いことを感じずには居られません。
しかし主なる神は、世に対し、完全な救い、神と共にある命に人が生きる道を、備えておられます。聖書は、苦難と忍耐の末に、救いが鮮やかに現れることを語るのです。
お読みしたイザヤ書2章には、エルサレムからはじまる終末の救いが語られています。3節で語られる、「ヤコブの神の家」「シオン」も共に、エルサレムを指す言葉です。
イエス様は、エルサレムで最期の時を過ごされ、エルサレムの城壁の外、ゴルゴタの丘で十字架に架けられました。エルサレムは主の復活の場所となり、天に上げられる時、弟子たちに天使は「エルサレムにとどまれ」と命ぜられ、聖霊降臨・ペンテコステの出来事が起こったのはエルサレムでした。エルサレムから救いは現れるのです。
しかしながらエルサレムはユダヤ教、イスラム教、そしてキリスト教という、一神教の世界三大宗教の聖地であり、宗教間の争いの故に、紛争が絶えない地域でもあります。
先日、アメリカの大統領選挙があったことは皆様周知のことと思いますが、4年前アメリカのキリスト教福音派の人々の支持を集めて大統領となったトランプ氏は、2017年、エルサレムをイスラエルの首都と認め、またアメリカ大使館をテルアビブからエルサレムに移転するという公約を実現し、物議を醸しました。
何故そんな必要があったのか、その意味の根底には、この「エルサレムから現れる救い」の語られるイザヤ書の御言葉などを非常に重んじて、イスラエルの救いこそが主の到来の前触れ、大前提であり、エルサレムから救いが現される、エルサレムこそが「山々の頭」であり、「終わりの日」にすべての国々がそこに向かう、そのような熱烈な終末待望があるのです。
複雑で語りつくせませんが、トランプ氏の支持基盤であるアメリカ福音派の人々というのは、終末の救いの到来を今か今かと熱狂的に待ち望む人々で、その終末待望に応えて聖書が事実として拓かれて行くことを望む思いが根底にあるというのが実際だと考えます。同じキリスト教徒でありながら、私たちには想像し難いことではあるのですが。
「福音派」という言葉の理解は多様で、すべての「福音派」と呼ばれる人たちがそうであるとは言い切れないのですが、今日は「福音派」という言葉を、アメリカを中心とした保守的な、例えばトランプ大統領を支持する共和党の支持基盤である「福音派」という意味で使わせていただいています。
私たち、プロテスタントキリスト教は、聖書理解は実にさまざまで、世には完全な教会はありませんので、それぞれに良いところと欠けたところがありますが、アメリカという国は、私たちが思う以上の宗教国家であり、終末を非常に意識している福音派、保守派の人々が多いという側面があります。日本にもその影響を受けている教会は多くあります。
私はこのコロナ禍にあって、実は「終末」そして「救い」ということを考えることが多かったのですが、私自身の立場は、終末を多く語りますし、それを信じて待ち望む者ですが、福音派の人々のように、それをひたすら「熱望し待ち望む」=という立場ではないことを自分のうちに確認しました。
そのように、今か今かとキリストが再び来られる日に憧れる信仰というのは、「私は主の羊であり、救われているから、終末が来ても大丈夫!滅びない。早くイエス・キリストが来られる救いの完成の時が来て欲しい!」と言われているように聞こえて、私には独善的に思えてしまいます。
それよりも寧ろ、「神の忍耐」を祈る者でありたいと思いました。ペトロの手紙二3:9に次のような御言葉があります。「ある人たちは、(終わりの日が)遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです」
神はすべての人が悔い改め、救われるのを忍耐して待っておられます。簡単に羊と山羊を分けるようなことはなさらない。主は忍耐して「すべての人が悔い改めるのを待って」おられる。そのため、「主の日」「終わりの日」の到来は、遅いのです。十字架から2000年を経た現代もまだ起こっていないのです。
神はすべての人を愛し、待っておられます。その神の忍耐に応える私たちでありたいと願っています。そして、更なる神の忍耐を祈り求めつつ、私たちの愛するすべての人も、まことの救いに入れられる日が来ることを祈り求めつつ、クリスマスを前にするこの待降節の時、深い悔い改めの心をもって、遂に「終わりの日」が何時の日か、いえもしかしたら今日来ることを見据えつつ、自らを整えてイエス・キリストをお迎え出来る者となることを願い祈りたいと思います。
さて、「終わりの日」、すべての国々が大河のように列を成してエルサレムの神殿の丘に登ってくるとイザヤは預言しています。その時、国々の争いは裁かれ、多くの猛り立つ民は戒められると言うのです。更に、その日に、人々は「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」と。
これは、戦いの道具を農耕の道具に変え、滅ぼす者ではなく、耕し育む者に変えられる、戦争ではなくまことの平和が齎されるという言葉です。終わりの日は、すべての国々の人々が平和を実現する日となるのです。すべての苦難の果てに、キリストは来られます。イエス・キリストこそ、平和の君であられます。イエス様は、エルサレム城外ゴルゴタで十字架に架けられ、エルサレムで復活をされ、聖霊降臨の出来事もエルサレムで起こりました。救いはエルサレムに現されます。
更に今、救いは、終わりの日は、初代教会の時代よりも、また私たちが生まれた時よりも、私たちが信仰を持った時よりも近づいています。時は、前に進んでいます。今日お読みしたローマの信徒への手紙13章は、「終わりの日」を待ち望む、私たちのあるべき態度が語られています。
初代教会の人々は、イエス・キリストの再臨を、今か今かと待ち焦がれていました。今は神の忍耐によって、2000年の月日が流れており、再臨など無いのではないか、そんなこと、絵空事としか思えない、先ほどお話をした、福音派の人たちと真反対な態度でありながら、「イエス・キリストを信じている」と言う人々は、洗礼を受け、クリスチャンとなった方々の中にも多くおられます。
あまり分類をすることは避けなければならないとは思いつつ―私たちの所属する日本基督教団の教会というのは、「終末」ということについて語る牧師は多くないと思いますし、「終末」ということを具体的に見据えておられる方々も、恐らくそう多くはないのではないか、そのように思えています。熱狂的に期待しすぎることも、信仰者として独善的になり、道を踏み外し兼ねないと私には思えますが、「イエス・キリストは再び来たり給う」これは、聖書がはっきり告げていることであり、私たちの信仰の重要な事柄です。
2020年という年は、新型コロナウィルスの世界中の蔓延によって、これまで当たり前であったことが当たり前でなくなった時となっています。そのため、私自身、またすべての人が、自分の立ち位置ですとか、自分を取り巻くさまざまなこと、生きるということそのものについて、立ち止まり、目を開いて改めて見つめざるを得なかったのではないでしょうか。これまで毎日を生きることに流されて、生きていることが当たり前のこととして、うすぼんやりと眠るように生きていても時は過ぎていったかもしれない。しかし今は、眠っていては生きては行かれない時となっています。
コロナは、私たちを眠りから覚ます出来事となりました。日常は当たり前には続かない、目を覚まし、変革をしなければならない、それを神から促されているようにすら思えます。
既に「世は更け、日は近づい」ているのです。
私たちは暗闇を歩いているように思えている。しかし、明けない夜はありません。夕があり朝が来ます。今、暗闇の中に居るような私たちには、やがて必ず朝が来て、日の光のうちにすべてが明らかにされる時がやってきます。それが、イエス・キリストが再び来られる日です。
その日に、この闇の中を歩くような、世の混乱の日々に終わりがやって来ます。
イエス・キリストが来られる日、それは裁きの日でもあります。聖書は厳しいのです。
私たちは、絶えず主が来られることに期待し、希望を持ち、隠れた行い、闇の行いを脱ぎ捨てて、光を武具として、いつどんな時であっても、日中を歩くように、品位を持って歩むことが求められています。それが、イエス・キリストを絶えず待ち望む態度です。終わりを見据えて生きる生き方です。
イエス様は「大酒のみの大食感」と悪口を叩かれたこともあるお方ですから、ぶどう酒など日常に飲んでおられましたし、パウロも体の弱いテモテにぶどう酒を飲むように勧めたりしておりますので、お酒を一切飲んではいけないなどということを聖書は語ってはおりませんが、品位を無くすほどにお酒を飲むことは相応しくありません。また肉体の欲望や誘惑にそそのかされるままに生きることも、闇の行いです。そして、心に暗く人に対するねたみを持ち、言い争うことも闇の行いです。
それらの思いや行いは脱ぎ捨て、光であられるイエス・キリストを、聖書の御言葉を心にしっかり刻み、日々を歩むのです。
イエス・キリストは命を捨てるほどに私たちを愛してくださっておられるお方です。主はすべてを与えてくださいました。その主の愛に応える者として、私たちは主に相応しく、光のもとにある行いをしなければなりません。それを求めることは、イエス・キリストをお迎えするに相応しいことです。
宗教改革者のマルチン・ルターの有名な言葉があります。「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、私は今日りんごの木を植える」。
イエス・キリストは再び来られます。そのことを待ち望みつつ、私たちに求められていることは、日々落ち着いて、なすべきことを為し、猛り立ったり、過度に沈み込んだりするのではなく、絶えず祈りつつ、御言葉に聞き従いつつ、日々新しい種を蒔き続けることです。新しい木を植えて、心を絶えず天に開いて、前に進み続けるのです。救いは一歩一歩近づいています。日々を喜び感謝しつつ歩んで参りましょう。
主は来られます。その日を見据えて、日々を誠実に歩ませていただきましょう。