「荒野の果てに」
静かな夜。2020年前のこの時は、救い主イエス様がお生まれになる夜でした。
そこはエルサレムに程近い、荒野。救い主誕生の知らせは、真っ先に荒野で夜通し羊の群の番をする羊飼いたちに、主の天使によって知らされました。
荒野―聖書がこの言葉を語る時、第一に荒野とは死と苦難の地であり、追放された者の行きつくところです。
また、荒野はイスラエル民族が出エジプトをさせられて40年間さまよった場所であり、荒野の生活に於いて、主なる神だけが民を養われるということを徹底的に教えられ訓練された、試練と忍耐の場でもありました。
救い主誕生の知らせを真っ先に知らされた羊飼いとは、そのような荒野で定住の場を持たず、絶えず移動しながら生きる苦労を背負う人々でした。
イエス様のお生まれになったパレスチナ、現在のイスラエルの辺りは不思議な土地です。
エルサレムは海抜700メートル、高地にあります。エルサレムから西に20数キロのところに死海と呼ばれる湖がありますが、ここは海抜下約400メートル。海抜下というのは、海の位置よりも、400メートル低いところという意味です。海底深く400メートルのところにある土地、日本は海よりも土地は高いことが当たり前ですから、なかなか想像がつきにくい地形です。そのようなエルサレムと死海の間に、荒野と呼ばれる地帯は広がっています。
イスラエルは1年のうち、10月から3月は雨季で、少ないながらも雨が降ります。4月から9月は乾季で、殆ど雨が降ることはありません。
そんな特殊な地形と気候条件の中、雨季の終わりの春には、多くの大地が色とりどりの美しい野花で覆われるのです。パレスチナの植物の種類はヨーロッパに比べても豊富です。アザミやシクラメンも自生しています。香料になるハーブもたくさんあります。「肥沃の三角地帯」と呼ばれた文明の発祥の地の中にある地域なのです。
しかし、そのような豊かさと全く対照的に、どうにもこうにも花が咲かない土地もあります。それが荒野。イスラエルには、肥沃な土地と隣り合わせに荒野があるのです。
イスラエルの地形のことを考えていますと、主は何故この地を神の約束の地と定められたのかと、いろいろ思い巡らしてしまいます。
人間の人生がでこぼこであって、ひとりの人生を考えても、豊かさの隣に貧しさがあるように、高さと低さとも言えるような人生の時が訪れる場合があるように、世の人間の生き様を指し示すかのように、主はこの場所を選ばれたのではないだろうか。ひとりひとりの世の生に於いて、時に厳しいところを通らざるを得ないことがあるけれど、しかしすべてのことを通して、神の支配が顕される―神の救いは必ず荒野に、またでこぼこ道にあって顕されることを告げ知らせているように思えるのです。「地には平和、御心に適う人にあれ」と。
イスラエルの荒野とは、砂漠ではなく、石灰石に覆われたごつごつした地帯です。羊飼いたちは、そのような土地を巡り歩いていました。
そんな中にも僅かながら露が滴り落ちるため、わずかながら植物が育っている地域もありますが、生えているのは、エニシダ、茨など、低木の植物です。探し当てたそれらの植物は羊たちの食べ物となりました。イエス様のたとえ話の中に「茨に落ちた種」が出てきますが、イエス様は荒野の茨を思い描いておられたのに違いないと想像しています。
また、茨すら生えることも出来ないような荒野も広くあります。肥沃な土地が傍にあるとは思えない土地。エルサレムの東、死海に降る土地はまさにそのような土地です。
そこでは年に一度くらい思いがけないほどの大雨が突然降り、高地にあるエルサレム辺りに降った雨は、木の無いむき出しの石灰石の岩肌の荒野の急こう配を一目散に低い土地に流れ落ち災害を齎すほどにもなるのだそうです。詩編の中に「大水の溢れ流れる時にもその人に及ぶことは決してありません」(32:6)のような言葉がありますが、この詩編の言葉などは、そのような荒野を流れ落ちる大水のことを語っているのでしょう。
大雨が降った時、羊飼いたちはどのように羊を守ったのでしょうか。身を挺して、羊たちを安全な場所に避難させたのではないでしょうか。
羊飼いは、命がけで羊を守る、そのような人々であったのです。
当時は夜を導く光は星と月、また暖を取り調理をするための薪の火のみでした。羊たちは寝静まっていたことでしょうが、パレスチナの荒野には、昔からライオンや狼など、凶暴な動物がおりましたので、また盗人も多くおりましたので、羊飼いたちは、夜通し、羊の群の番をしなければなりませんでした。順番で天幕で眠ったりしながら、絶えることなく羊の群の番をしなければならない、羊飼いというのは過酷な仕事であり、また社会的に非常に低い身分とされ、またユダヤ人たちの中では、安息日という週に一度、すべての働きを止めなければならないという律法の掟を羊の群の世話のために働きを止めることなど出来ないがために、「罪人」と看做されていた人々でした。
羊の群れの番をしながらいつものように暗闇で過ごす夜、突然、主の天使―マリアにも現れた天使ガブリエルでしょうか―が羊飼いたちに近づき、主の栄光が周りを照らしたので、羊飼いたちは、一体何事が起こったのかと、非常に恐れました。荒野の暗闇が光りが輝いたのです。
恐れおののく羊飼いたちに天使は告げました。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。
天使は羊飼いたちが、救い主の到来を告げ知らせられる「民全体」の中の代表であるがごとくに「あなたがたのために救い主が生まれた」と告げました。荒野で日々命掛けで羊を守る、世に於いて苦労し、家も持たず、罪人と罵られ、理不尽に蔑まれる、貧しい羊飼い―世の片隅にひっそりと、また必死に生きる羊飼いにこそ、主の憐れみと愛は真っ先に注がれていたのです。
さらに天使は申しました。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つけるであろうこれがあなたがたへのしるしである」と。
すると、天の大群がこの天使に加わり、高らかに神を賛美しました。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ」。
この時、どれほどの光が辺りを照らしたのでしょうか。危険に満ちた、苦難と試練の場所である荒野、羊飼いが苦労して生きる場所は、神の栄光に輝くところの先駆けとなったのです。
天使たちは羊飼いたちのもとを離れ、天に去って行きました。
荒野はもとの暗さと静けさに戻りました。しかし、目撃者は自分ひとりではなかった。仲間のすべてが皆、輝かしい神の栄光に触れて、皆心には同じ天来の不思議なまでの喜びと希望に溢れていました。
そして「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合い、羊たちを一匹ずつきっと起こしたのではないでしょうか。そして希望に胸を膨らませながら、ベツレヘムを目指し荒野を急ぎ行ったのです。
ベツレヘムに着くと、羊飼いたちは天使が告げたとおりの場所を見つけ、飼い葉桶に寝かされてある乳飲み子を探し当てました。その光景はすべて天使が告げたとおりでした。喜び溢れる羊飼いたちは、神をあがめ、賛美しながらそこを立ち、人々に救い主がお生まれになったこと、救いが現されたことを告げ知らせる最初の者となりました。
死と苦難の地であり、追放された者の行きつくところとされていた荒野は、イエス様の誕生によって、栄光に輝く神の臨在が顕される場所、御救いが告げ知らせられる場所へと変わったのです。そして、そこにいる民―羊飼い―に平和の主の到来が告げ知らせられました。
2020年、世界は暗闇に包まれました。世界中が荒野とされてしまったような一年でした。
しかし、荒野は神の救いが顕されることが約束されている場所です。荒野で重荷を負いつつ、苦労をするひとりひとりにこそ、神の憐れみと愛、慈しみは注がれます。
そして、神の救いは顕れました。
今、ここに。クリスマス、救い主がお生まれになるこの日。
神の救いは、今、私たち、イエス・キリストを慕い求める者たちと共にあります。神は今、この世を、そして私たちのすべてに、愛のご計画をもって臨んでおられます。救いは顕れました。一番苦労をしている方々には殊更に、また私たちのでこぼこの道も、イエス・キリストと共にあるならば、必ずまっすぐな道に整えられます。その道は思いがけない神の道かも知れませんが、それが主の道であるなら、必ず豊かに導かれます。
新しい希望をいただいて、荒野から立ち上がり、新しい一歩を踏み出したいと願います。
イエス・キリストは救い主。救いは顕されました。ハレルヤ。