「確信をもって大胆に神に近づこう」(2020年12月27日礼拝説教)

イザヤ書60:1~6
エフェソの信徒への手紙3:1~13

 主の年、2020年の終わりの礼拝です。
 この年をどういう言葉で表しましょうか?私が思い浮べる言葉は、最初に「禍」=コロナ禍の禍でしょうか?苦難の苦でしょうか?悲しみという字でしょうか?忍耐の忍、また耐、どちらでも相応しいようにも思えます・・・それとも人を避ける、避難の避?貧困の貧?思い浮かぶ言葉は何だか私たちの生活の中の言葉としては辛い言葉ばかりです。
 コロナのような疫病による禍は、聖書も出てまいります。例えば、出エジプト記で、傲慢で神を認めようとしないエジプトのファラオに対し、ファラオが悔い改め主なる神を認めるものとさせるために10の禍が送られましたが、そのうちのひとつが「疫病」でした。
 また苦難ということ、聖書が語る苦難はやはり人が神に立ち帰るために与えられるものという考え方が強い。また忍耐は、信仰の大切な事柄で、「忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ロマ5:4)というロマ書の言葉は私たちを励ましてくれます。また「悲しみ」は「悲しみは喜びに変わる」(ヨハネ16:20)のイエス様の成し遂げられる約束の言葉があります。
 しかし「人を避ける」の「避」は、私たちの信仰に結びつかないと思えてしまいます。
マタイによる福音書によれば、ベツレヘムで誕生されたイエス様は、父とされたヨセフへの夢のお告げによって、命を守るために家族でエジプトへ避難したというということが語られていますが、これは特定の人、ヘロデ王とその周辺の、権力を持つ暴力的な力で幼子イエス様を殺そうとする人たちを避けたということで、すべての人と距離を取るとか、そのような意味合いとは違います。人を避ける、人との交わりを裂く―この新型コロナウィルスという疫病は、教会の礼拝と交わりにも大きな悲しみを齎しています。
 しかし、このことを通してZOOMというオンラインで共に礼拝をささげるという新しい知恵が与えられ、教会の礼拝に集うことが難しくなっておられる方々とも、同じ時間に共に言葉を交わし、お元気でいらっしゃることを喜び合うことが出来、ご自宅に居られながら共に礼拝の恵みに与ることが出来るようになりました。このことは、教会の交わりにとって、思いがけない知恵が与えられたと思っています。コロナが無ければ、このようなことに思い至ることは無かったか、なかなか時間が掛かることになったことでしょう。
 また、社会的な人間関係は複雑で、社会的人間関係の維持をどうしてもしなければならないことに実は苦しんでいる方々がおられることは確かなことなのでしょう。そのような声に出し難い苦しみには、「避ける」ということが当たり前になったことは、賑やかで大勢でいることが良いこと、ひいてはマジョリティと言われるところに身を置くことが強くて安心できて良いことのような価値感に転換が与えられる機会となり、ほっとされ救われる思いをされた方も実は多かったのではないかとも思っています。
しかし、貧困の問題が大きくなっていることは、個人の問題ではなく、社会的な問題で、良いことは見当たらない。しかし、主イエスは人間の貧しさの極みに降りて来られたことを思う時、イエス様の許に光があることを覚え、主の救いが鮮やかに顕されることを信じ、祈らずにはおれません。
 私たちが今年受けたさまざまな困難は、主によって必ず新しい喜びと希望、また時にまことの悔い改めに導かれる事柄だと信じ希望を持ちたいと思います。コロナが終息して、元の生活に戻れるのか、きっとこれまでとは違う新しい価値観が生まれざるを得ないのだと思っていますが、神は必ずこの世にご計画をもっておられ、引き起こされるすべてのことを通して私たちを鍛えて、主を知る知恵を深めてくださり、すべてを益として用いてくださると信じます。

 さて、今日お読みした3章1節で、パウロは自分自身のことを「あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロ」と語っています。実際、この手紙を書いているパウロは、獄に繋がれているのです。
この手紙については諸説あり、その中には「これはパウロが書いたものではない」と言う学者も多くいたりするのですが、それらに耳を傾けつつも、使徒言行録によればパウロはフィリピ、エルサレム、カイサリア、ローマで投獄されたことが語られており、いえ、もっとあったのだろうとコリントの信徒への手紙二などを読むと思わされるのですが、私はパウロがローマでこの手紙を書いたと考えるのが相応しいのではないかと考えています。
使徒言行録の最後で、パウロはローマで投獄の身となっていることが語られるのですが、パウロは番兵をつけられながらも自費で借りた家に住み、「訪問するものはだれかれとなく歓迎し、まったく自由に何の妨げもなく、神の国について宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」と自由な宣教を赦されていることが語られてあり、この手紙、エフェソの信徒への手紙でパウロは「囚人となりながら」、ユダヤ人を超えて、すべての人、異邦人に向けて、福音を力強く語り伝えていることを高らかに語っていることと、一致するからです。

またこの「囚人となっている」という言葉は、ただ「獄に繋がれている」と言うことをパウロは語っているのではなく、それと同時に「キリスト・イエスの囚人」=キリスト・イエスの宣教の器として捕らえられ、福音のためにすべてを献げて用いられる者として、自分自身が「キリスト・イエスの囚人」であという二重の意味が含まれていると思われます。
「キリストイエスの囚人」とされたことを2節で「神がわたしに恵みをお与えになった」、と語り、更に13節でパウロは自身が受けている「この苦難(囚人とされていること)はあなたがたの栄光」であるとまで語っているのです。ローマ帝国の都ローマで囚人となったがために、それを用いて多くの人々、主に異邦人にイエス・キリストの福音を宣べ伝えることが出来るようになった、獄に繋がれることは、苦難であり、パウロ個人の生き様について言えば、いつ命を取られることになるかさえ分からないことですが、この苦難が福音を宣べ伝えるための神のご計画とパウロは考えているのです。

 続く3節で「初めに手短かに書いたように、秘められた計画が啓示によってわたしに知らされました」と語っているのは、恐らくこの手紙の1章9~10節を指していると思われます。お読みします。「これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」。
パウロは3:4節で「キリストによって実現されるこの計画」と語り、さらに3:9節で「すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画」と語るのですが、世の初めから隠されていた計画は、ユダヤ人を超えてすべての人が「キリストのもとに一つにまとめられる」いう神の計画であることをパウロは語っており、そのための宣教の器としてパウロは神に召されている、そのことを今日の御言葉でパウロは語っているのです。

 すべてのものの創造主、私たちの神、このお方は人間を限りなく愛しておられます。
すべての物の創造の御業を完成されて、「極めて良かった」と喜びの叫びを上げられたお方。しかし、ご自身の「かたち」に造られた人間が、主のただひとつの「これはしてはいけない」という禁止の命令を、人は蛇にたとえられるサタンの誘惑に心奪われ、いとも簡単に神に背く罪に陥ってしまったがために、人間はその罪、神への背きのために、神と共に生きることは出来なくなりました。それは、主なる神にとってどれほどの悲しみであったことか、恐らく私たち人間には図り知ることが出来ないほどのお悲しみだったのでしょう。
 神と共に生きられなくなった人間はエデンの東に追放されてしまいます。
しかしそこから、神が人間をご自身のもとに取り戻そうとされる救いの御業が始まって行くのです。そのお働きそのものが、聖書の内容です。聖書は、罪によって神から離れてしまった人間を、神がその初めから「隠されていた秘められた計画」として、やがて「キリストのもとに一つにまとめられる」までの救済の歴史の書と言えます。

主は人間を救うため、まずイスラエルの民を選ばれました。その選ばれた理由は申命記7章に記されてあります。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただあなたに対する主の愛のゆえに」と。イエス・キリストは、世の貧しさの極まりの場所、貧しい馬小屋に産声を上げられましたが、主なる神の御目は、絶えず世の悲しみ、苦難、貧しさ、悲惨に注がれているのです。それは遥か前、人間が罪を犯し、神の許から離れていったその時から。
そして、奴隷であったエジプトから脱出をさせ、律法を与え、背く民を荒野で鍛え、主のみが民を養われる神であられることを徹底的に教えこまれ、それでもまだまだ背く民に、預言者を通してご自身の言葉を与えられました。
それらのことは、イスラエル民族、ユダヤ人に最初に現されたことであり、イスラエルの人々は、長く主なる神はイスラエル民族の神という認識であったようなのです。それは、民族以外の人々は、主を知らず、偶像を伏し拝んでいたため、そのように考えたのには無理ありません。
しかし旧約聖書の思想は時代を追うごとに変化があり、神は更に新しい形でご自身を啓示されるようになったことで、主なる神は万物の創造主であられ、全世界のすべての人々のためのただおひとりの主、神なのだということをイスラエルの民も気づき始めます。
しかし選ばれた者の誇り、特別な民としての意識が高く、また律法の中でも、安息日の遵守、割礼、食べて良いものと悪いものの食物規定に強く拘り、他の民族と自分たちの違いを殊更に際立たせようとしたがために、主なる神が異邦人も含めてすべての人の主であることを受け入れられないままでした。自分たち以外の民族、異邦人に救いなど無い、主なる神は異邦人を救いに入れようなどと考えてはおられないと考えていたのです。
そのような中、イエス・キリストは、ユダヤ人としてお生まれになられました。そして、この手紙を書いたパウロも、生粋のユダヤ人。律法に於いては最高の教育を受け、当初はイエス様と弟子たちを迫害していた側の、イエス様のお弟子たちから恐れられるほどの迫害者でした。
しかし、パウロは使徒言行録9章、イエス様を信じる人を見つけたら捉えて獄に入れようと息巻いていたダマスコへの途上で、突然天からの光を受け、「なぜわたしを迫害するのか」という、イエス・キリストの声を聞いたのです。圧倒的な力がパウロを包み、3日間目が見えなくなり、その中にあって不思議な神の導きが備えられてあり、パウロは聖霊の働きによって変えられてしまったのです。イエスの霊=聖霊によって、パウロは180度心を変えられて、神に向き合う人とさせられたのです。
言ってみれば「ごりごり」のユダヤ人のパウロでしたが、神に特別に選ばれ、聖霊によって造り変えられ、ユダヤ人を超えて、異邦人もキリストを頭とする同じ体=教会の交わりの中に入れられるのだということが神の望みであり、神はパウロをそのために用いられたのです。パウロは異邦人のために主を、救い主なるイエス・キリストを宣べ伝えるために選ばれた主の囚人なのです。

イエス・キリストを通して齎された福音、「神の秘められた計画」―それは神が人となられ世に降られ、すべての人の救いのために自らを犠牲の生贄として十字架の上でその肉を裂き、血を流すことによって、イエス・キリストを主と信じ、自らの罪を悔い改める者に、主と共にある新しい命を与えられる、そのようにしてすべての人間を、主ご自身がご自身の元に奪還をする、そして創造のはじめがそうであったように、神共にある命のうちに生きるものとされる、そのようにして実現する「永遠の計画」を宣べ伝えるイエス・キリストの恵みにある囚人とさせられたのです。

パウロが伝えた福音によって、イエス・キリストを信じる信仰に入れられた者たちは、主キリストに結ばれています。この「結ばれる」という言葉は、手を繋ぐという言葉ではなく、ギリシア語で「エンクリストゥ」、「キリストのうちに入れられる」という言葉です。
私たちはイエス・キリストを信じ、また求めて今教会に集い、また今、世に生きていますが、世にありながら、世にあって「キリストの内に」入れられているのです。
苦労は多いこの世の歩みではありますが、私たちは主の十字架の御許を隠れ家とするように、イエス・キリストの十字架と復活の命のうちに、世にあって既に生かされている者たちです。「神に近い」のです。
コロナの現実の中で、恐れ、世の流れに落胆して心沈むこともあるかも知れなません。
 しかし、私たちにはイエス・キリストを通して現された神の「永遠の計画」のうちに既に入れられています。入れられようとしています。
 私たちには信仰による希望があります。信仰による神の約束があります。
 今の状況に悲しみ打ちひしがれるのではなく、「確信をもって、大胆に神に近づく」ことが赦されているのです。
 目を開き、主の救いがあることを見据え、希望に生きるものとさせていただきましょう。神の救いは私たちのもとにあるのです。主は私たちを必ず救いへと導いてくださいます。それが神のご計画であるからです。