「苦難の中の慰め」(2021年1月3日礼拝説教)

エレミヤ書31:16~17
コリントの信徒への手紙二1:3~11

「インマヌエル―その名は神は我々とともにおられるという意味である」
 マタイによる福音書1章で、天使が夢の中でイエス様の父とされたヨセフに告げた言葉です。
インマヌエルの主、私たちを罪から救い、私たちと共に居てくださるお方。このお方は来られました。私たちの只中、この世に。まことの光として。十字架の上で私たちの罪を贖い取られ、死なれ陰府に降られたけれど、復活をされたお方。その復活の力によって、多くの苦しみと罪に満ちる世にある私たちを救い出し、世に於いては共に居てくださり、世の重荷を共に担い、共に歩んでくださるお方。苦悩の多い世に於いて、神共にある命を与えてくださり、そしてやがて、鮮やかにご自身の復活の命に、私たちをも導き入れて下さるお方。
 主の年2021年。
 新型コロナウィルスの感染拡大は止まるところを知らず、先行き不透明な中に、教会も、この国も、また世界中が置かれています。一週間後に思いがけない変化があるかもしれない、そんな恐れを持たざるを得ない、不安な状況の中に世界中すべての人が置かれています。
 そのような中、生かされている私たちですけれど、救い主イエス・キリストは、私たちと共にいてくださいます。霊=聖霊として信じる私たちの内側を住まいとしてくださっています。私たちが苦労をしている時、慰めてくださり、また「未来には希望がる」と告げてくださり、それを成し遂げてくださるお方です。
 神の愛を体いっぱいにいただいて、この聖書の約束を信じて、2021年、信仰と希望と愛をもって、互いに祈り合い、支え合い歩ませていただきましょう。

 それにしても、新型コロナウィルスという疫病は、これまでの私たちの価値観、対人関係のあり方、生活を一変させました。数え切れない問題や悲しみがありますが、その中で、今日お読みしたコリントの信徒への手紙二1章を読んで思い巡らすことがありました。それは、「交わり」に関係すること。コロナ禍の中にあっても尚豊かにされる、私たち主にある者たちの交わり、主が共におられる=インマヌエルを起点とした、「交わり」についてです。

 パウロの書いた今日の御言葉、1章4~5節をもう一度お読みします。「神はあらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです」。
 主イエス・キリストはインマヌエルであられると同時に、私たちの慰め主。その慰めはどのようにして私たちに訪れるのか、それは「キリストにあって満ちあふれてわたしたちに及び」さらに「わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれている」この「満ち溢れ」流れ出る命の循環と言いましょうか、それは「インマヌエル=共にある」ということ、主と共にある「命の交わり」ということと大いに関係していると思うのです。

 イエス・キリストを通して現された救いに入れられた私たちの命というのは、このコロナウィルスに突然脅かされるような苦難の世に、弱い体をもって生きる者でありながら、それと同時に、神共にある命のうちに既に入れられています。
 既に立てられた救いの十字架の御陰に置かれ、そこを逃れ場としつつ、命は神と共に既にあるのです。「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)とパウロは語っていますが、主にある私たちは、既に天にある主に結ばれて、復活の主の命に与る、既に永遠の命をいただいています。
 永遠の命?ずっと生き続けるなんて疲れてしまいそう―そんな風にお考えになったり疑問に思ったりされる方もおられるかもしれません。永遠の命、私たちの感覚としてどのような状態であるのか、具体的に私たちには分かりません。ただ私たちが認識するような「ずっと生き続ける」そのようなあり方ではありません。
 9節のパウロの言葉を借りますと「死者を復活させてくださる神」の御力によって、初めの人アダムの罪によって神から離された人間が、イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、イエス・キリストを信じる信仰によって、神共にある命の中にすっぽりと入れられるということ。そしてやがて世の死を超えて、病も労苦も無い、神共にある命へとすっぽりと入れられることです。インマヌエル=神共におられるお方、この言葉は永遠の命をも表す言葉だと私は認識しています。

 またパウロは、「永遠の命」に近い言葉として、今日の御言葉の中には使われていないのですが、ギリシア語でエンクリストゥ、直訳すると「キリストのうちに」という言葉を多く使います。イエス・キリストによって救われて、命そのものがすっぽりと位置を移され、新しく救い主キリストと共にある命の中に入れられる、そのような意味の言葉です。
 この言葉は、新共同訳で「キリストに結ばれて」と訳されることが多いのですが、私の前任地の目白教会で長く牧師をしておられ二年前に天に召された篠原信先生が、この言葉について何度も熱心にお話ししてくださったのが印象的です。
「エンクリストゥは、『キリストに結ばれて』と訳されることが多いけれど、手を繋ぐような、そんな結ばれ方じゃない、命がすっぽりキリストのうちに投げ入れられるのだ。十字架によって罪赦されて、キリストのうちにすっぽり入れられた新しい命なんだ」と。
イエス・キリストを救い主と信じた者たちは、初めの人、アダムの罪によって神と引き離されて、滅びに定められていた命の場所から、キリストと共にある命の中に既に移されているのです。キリストと共にある―ここにおられるキリストを信じた私たちは同じ確かな命のうちに入れられている。救い主キリストのうちに入れられて、復活のキリストと共にある同じ命の循環、喜びも重荷も担い合う、そのような命のうちに入れられているのです。

 さてパウロは、この手紙の随所で、自分自身のことを、あからさまに詳しく語っています。コリントの教会は、パウロが第二伝道旅行で長く滞在し、自らが伝道し、建てた教会でしたが、パウロが新しい伝道の旅に旅立った後、「異なる教え」を語る伝道者が教会を訪れ、教会を混乱させました。そして、教会に分裂が起こり、パウロをあからさまに非難する人々が出てきていたのです。パウロですら、批判や非難を教会の人々から浴びせられていたということは、ある意味驚きです。
そしてパウロは彼自身の弱さや悲しみ、不安を赤裸々にさらけ出してこの手紙で語っています。例えば「わたしのことを、『手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話してもつまらない』と言う者たちがいる」のように。
 そのようなパウロの赤裸々なまでの人間としての弱さや悲しみが語られるが故に、パウロの悲しみが、この手紙を読む私たち自身の弱さや苦脳と重なり、同時にパウロの苦しみと、苦しみからの解放も、私たち自身のものとして重なり、共感して受け取れる手紙であることを感じます。
そしてパウロのさらけ出す弱さや悲しみが、分裂をして混乱していたコリントの教会を悔い改めに導くきっかけとなっているようなのです。

 8節では「兄弟たち、アジア州でわたしたちがこうむった苦難について、ぜひ知ってほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失っていました。わたしたちは死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」とパウロは書いていますが、その内容について、この手紙の11章でパウロは語っています。「投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。・・・」と。またコリントの信徒への手紙15:32には、「エフェソで野獣と闘った」と自ら書いており、これはエフェソのコロシアムで、パウロが見世物とされて野獣と闘わされたということなのでしょう。この世は神に背く世であり、神の働きがあるところに、それを妨げる力も同時に働くのです。
 しかし、死者を復活させてくださる神は、大きな死の危険からパウロを救い出してくださいました。命などとうに失われてもおかしくないような危険と苦しみの中、神はパウロを救い出されました。だからパウロは更にこの先、苦しみが襲って来たとしても、神が必ず救い出してくれることに希望を持っているのです。
さらに11節で「あなたがたも祈りで援助してください」とパウロは語っていますが、互いのために祈り合うこと、それは、命の危険が伴うような危機にあっても、神の救いを得る助けとなるということです。
 パウロは、宣教に当たり、多くの人の祈りのうちに入れられていました。キリストのうちに入れられた者たちの祈りの交わりの中に取り成されていました。パウロは人々の祈りの支えが、苦難の中にあって命の救いになったことを知っています。それはパウロが人々の祈りに支えられて、神によって与えられた恵みであったとパウロは理解しているのです。祈りを通して救われたパウロ、それは信仰の証しとなり、そのことを通して多くの人がパウロの救われたことを通して神に感謝をするようになる、だから苦難を自分は厭わない、ますます祈りによって私パウロを支えて欲しいとパウロは語っているのです。
 
 このことは、私たち教会の群、信仰者が共に互いに祈り合うことがどれほどの恵みであるか、どれほど神の動かすものか、私たちはそのことに通じるものとして覚えたいと思います。祈りは神に必ず届けられ、神を動かす助けとなるのです。
 私たちの群に何か問題が起こるならば、またおひとりおひとりに何らかの困難が起こっていることを知ったならば、互いに熱心に祈り合う、そのことが強い、神共にある交わりとなるのです。

 またこの祈りの交わりは、先にエンクリストゥ「キリストのうちに」というパウロが語る、永遠の命に類する言葉についてお話をさせていただきましたが、そのことと大いに関連すると私は考えています。
 カールバルトという神学者は、おひとりの神が、父子聖霊なる三位一体のお方であられることを説明するのに、「愛の交わり」という言葉を使って語りました。ヨハネによる福音書の講解説教をさせていただいている中で、何度も「わたしが父のうちにあり、父がわたしのうちにおられる~わたしを信じる者は、わたしの行う業を行い…」(ヨハネ14:10~12)というような、三位一体を髣髴させる言葉がありますが、三位一体というのは、ひとりであられる神のうちにあって、父子聖霊という三つなる位格の愛によってひとつとなる愛の交わりである、そのように説明するのです。そして、その愛の交わりの中に、私たち人間も、イエス・キリストを信じる信仰、罪の悔い改めによって、「入れられる」=エンクリストゥという状態に入れられ、神の創造のはじめがそうであったように、神共にある者とさせていただけるのです。
そして主と共にある命のうちにあって、私たちが苦難に遭うとき、主からの深い慰めが、この交わりの中にある者たちに溢れ出て来ます。
この「慰め」という言葉は、聖書に於いて、私たちが普段使う「励まし」や安堵という意味とはかなり違う言葉です。元々の語源は、「息を吐く」「深い呼吸」という意味です。キリストのうちに入れられている者たちには、神の深い呼吸も直に届くのです。そして、世でどのような苦しみの中に置かれることがあったとしても、キリストのうちに入れられた者たちにとっては、神の慰め、神の深い息に包まれる時となるに違いないのです。
 深い悲しみの中を経験された方が、その中で「不思議な喜びすらあった」と語られることを聞くことがあります。世には無い、天来の神の力が溢れ出て、神共にある命の交わりの中に入れられた私たちを慰め、励まし、生きる力を与えていてくださるからに違いありません。

しかし、なぜキリストのうちに入れられながら苦難があるのか、という問題が残ります。それは今日の御言葉の5節「キリストの苦しみが満ち溢れて私達にも及んでいる」、そこに理由があるのではないでしょうか。
この罪の世にあって、信仰を持っても苦難を受けることがあります。残念ながら、このことは聖書にあって断言出来る事柄です。しかし、その苦難は「キリストの苦しみが満ち溢れてわたしたちに及ぶ」、神共にある命のうちに入れられた私たちに、十字架の主の苦しみが溢れる場合がある。慰めと励ましが与えられるのと同様に、キリストの苦しみも私たちは分け与えられる場合がある、恐らくは信仰の度合いに応じて。
 使徒言行録5章の終わりに、キリスト教徒に対する最初の迫害が起こった時、使徒たちは「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜」んだ、そのことが語られていますが、信仰の交わり、神共にある愛の交わりは、互いに傷みも負い合い、更に支え合い、慰め合う、そのような交わりです。
 その交わりに、私たちは今、入れられているのです。そして、この土気あすみが丘教会の主にある交わりも、主が共にあり、また皆も共にある、神共にある、神の息がここに流れ込んでいる交わりです。
 苦難があろうとも、主は共におられます。そして、慰め、励まし、道を拓いて下さいます。

 新型コロナウィルス、恐ろしいことが起こっていると思えますが、このことも、神の御旨の中にあって意味のあることなのでしょう。そして、主はこの苦難にあって私たちを救い出してくださいます。私たちは、互いに顔と顔を合わせて長く話すことが今なかなか適いませんが、仮令離されていても祈り合うことが出来ます。祈りによって主ともにある交わりのうちにあり、支えあうことが出来ます。
 主にある祈りによる交わりを私たちはこの年、より深く豊かにさせていただきたいと願います。それは、主が求めておられることであり、また祈りは私たちを支えてくれる、神を動かすことを起こす力があるのです。
 この一年、皆様の主にある交わりがより豊かになりますことを祈ります。