前奏
招詞 イザヤ書42章1a節
賛美 37(134) いと高き神に
詩編交読 57編1~6節(65頁)
賛美 218(135) 日暮れてやみはせまり
祈祷
聖書 ヤコブの手紙 1章12~18節 (新 421)
説教 「 試練と誘惑 」
祈祷
賛美 531 主イェスこそわが望み
信仰告白 日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告
頌栄 26 グロリア、グロリア、グロリア
祝祷
後奏
ヤコブの手紙1:12~19
受難節に入りました。受難節は46日間。イースターの前、今日を含めて6回の日曜日と、40日の週日を合わせた時です。
日曜日を外した40日、40という数は、聖書の中で、神によって与えられる苦難と試練の時を表していると言えましょう。ノアの洪水は、40日40夜続きました。イスラエルの民の荒野での生活は40年間でした。それらの日々、年月というのは、神からの試練によって、人間が練り清められて新しくされる、そのために必要な時間でありました。
また、イエス様は宣教のご生涯を始められる前、40日間の断食をされ、その後悪魔の誘惑を受けられ、その誘惑に屈することなく、悪魔を退けられ、神の御子としての地上の使命を果たされるべく立ち上がられました。
主の復活を記念する日曜日を外した40日間、私たちは十字架に向かわれる主の御苦しみを覚えつつ、その苦しみが「私のため」であったことに心を寄せつつ、罪を悔い改め、神に立ち帰ることを心に求めつつ過ごさせていただきたいと願っています。
受難節の第一主日、今日は、ヤコブの手紙をお読みいたしました。ヤコブとは、イエス様の弟であり、初代エルサレム教会の中心人物となった人です。
この手紙は、短い挨拶からはじまり、2節で「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」と「試練」という言葉が語られて始まります。 そして今日の御言葉12節では、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」と更に「試練」について語り始めます。
「試練」とは何でしょうか。
私は高校生から親元を離れて寮生活をしたのですが、思春期でしたし、そのことは私にとってはかなり強烈な心の体験となっていて、いつも「どうしてこんなに苦しいんだろう」と思っていて、日記を書いたりしていました。
そんな中、ある時ふと「これは神が私を鍛えるための試練だ」と目が覚めるように思って、すべてのことを神の御手にあって受けとめる気持ちになったのです。そして、そのことを日記に書き留めました。それ以来、身の周りに起こることを、試練、自分の成長のために必要な時間として受けとめるようになりました。当時信仰は持っていませんでしたが、神は私の造り主、父のような存在と、幼少の頃、幼稚園で教会とキリスト教信仰に触れた経験から、神という存在に「良い畏れ」を抱いていたと思うのです。そして神の目に於いて、人間として成長したいと強く願いました。
とは言え、その後、生活が変わり、劇団に入り、考える時間もないように、歌ったり踊ったりして体を動かして、さまざまな世の誘惑も多く、世のことに忙しく過ごしていた青春時代、高校時代の日記を読み返す機会があり、「こんなことを考えていたとは!高校の頃の私は今より大人だったんじゃないかしら」と自分からは遠い出来事に感じたことも記憶しています。高校生の時代、子どもながらに孤独を味わい、真理を求めて研ぎ澄まされて、神に近づこうとした一時期があったのだろうということは思うのですが、世のことで、自分の願いや欲望にそった楽しいことが起こると、真理を求める心は隅に追いやられて、調子に乗って、自分自身の欲望に引かれ、さまざま翻弄されながら、罪の中に埋没して生きることを、人間はすぐにしてしまうものなんだなということを、そしてそのように生きて行くことは、神から離れていくことであり、土台を失い、自分自身をさまざまな面で弱くするということを、幼い経験ながらおぼえています。
罪の時代―そんな記憶が20代にはありますが、罪に気づいたからこそ、イエス・キリストに出会えた、憐れみによって救われた、悔い改めを知った、そのことも覚えています。
17節では、「良い贈り物、完全な贈り物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」と語られますが、「完全な贈り物」とは、何でしょうか。
それは、私たちに神から与えられた御子イエス・キリスト、そのお方であると共に、イエス・キリストの十字架を通して、罪ある人間が自分の罪を知り、悔い改め救われて、新しく、神共にある命に生かされる道が拓かれた、そのことではないでしょうか。
イエス様は、全く罪の無いお方であられましたのに、人に裏切られ、罵られ、犯罪人のひとりとして殺されるという、世の理不尽の極みを味わわれ、体に於いても、心に於いても、また霊に於いても、人間の経験し得る極限の苦しみを味わわれました。主イエスは、私たち人間の痛み苦しみのすべてをその身に負われたのです。そして、自らの罪を悔い改め、罪の赦しを求める者に、イエス・キリストの十字架は、私たちの罪の代価となり、罪の赦しと救い、神との和解の道を拓かれました。そして、イエス様の復活を通して、信じる者たちに新しい命を与えてくださいました。
それは、キリストを信じる者たちが、その信仰によって、造られたものの初穂となるためであるとヤコブは語ります。
聖書は、神が終わりの日にすべてのものを新しくすることを告げています。
旧約聖書の律法に於いては、すべての収穫物の初物は、神にささげられておりました。それは、私たちが世で与えられているものはすべて、神から恵みである、という信仰の表明でした。それと同様に、イエス・キリストの十字架の御前に罪を悔い改め、救われた者は、神の御前にささげられる尊い初物のささげものとして、救いの完成の時の収穫のはじめであるとヤコブは語っているのです。
ヤコブは「完全な賜物」と共にもうひとつ「良い贈り物」ということを語ります。
旧約聖書コヘレトの言葉3章11節に「神はすべてを時宜に適うように造り」とあります。そして、神は良い贈り物を私たちにくださいます。しかし、私たちは自分たちの人生に与えられるすべてのことが「良い贈り物」と思い、受けとめることがなかなか出来ない者なのではないでしょうか。むしろ、私たちの目には悪い贈り物として感じられることが少なからずあります。実際、私たちの日常には「なぜ」と問わざるを得ないようなことが起こります。この世界の現実を見ていても「なぜ」と問わざるを得ない。「なぜこんなことが起こるのか」。「なぜこんな目に遭うのか」。
ヤコブはこれら「何故」と思わされるような、「良い贈り物」と思えないことを、ここで「試練」という言葉で語っています。
今日の御言葉の小見出しには、「試練と誘惑」と記されており、今日の説教題にもさせていただきましたが、この「試練」と「誘惑」という言葉、実は新約聖書の書かれたギリシア語に於いては同じ言葉なのです。「試練」と思われることは、それを受け止める人の心によって、試練にもなれば、神から離れさせ、罪に陥らせる誘惑にもなる、そのような意味合いを含んでいるのです。
しかし、「試練」とは、神からの「良い贈り物」なのです。お読みした箇所の前、1:2に於いて、ヤコブは「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」と語っています。「何故」と思わされるような、「良い贈り物」と思えないことを「この上ない喜びと思いなさい」と語っているからです。
このような御言葉に出会いますと、私たちはふと立ち止まらされます。「試練を喜ぶなんて出来ない」「私の思いとは違う」と。
しかし、聖書はさもそれが当たり前のようにそれを語るのです。そして更に言うのです。「試練に耐え忍ぶ人は幸いです」(12節)と。そこには、私たち人間の心の思いとは別の、神の側の目が、論理があります。
13節では「誘惑に遭う時、だれも『神に誘惑されている』と言ってはなりません」とありますが、ここで使われる「誘惑」という言葉は、「試練」と同じ言葉ですが、試練を受けた人間の受け取り方が、問題とされて、敢えて「誘惑」と訳されているのだと思います。試練に遇うと、私たちはしばしば、人生のマイナス方向へと誘われます。勇気と希望を失いかけます。絶望や諦めへと傾きます。心くすぶり、自己中心的になり、他者を大切にすることが見えなくなります。そして何より、神に対する信頼を失うことすらあります。信仰が揺らぎ、神と神の愛が見えなくなります。
そのような私たちの気持ちが、13節の「神に誘惑されている」という言葉に表されています。何か良くないこと、悪いことが起こると、神すら悪いお方のように思えてしまう、そのように人間には陥りやすい考え方があります。神を悪し様に、都合が悪いと自分より低いものと思い込んでしまうという罪をまた犯します。
この言葉と、そのようなことを言う人々が居たという背景には、何か悪いことが起こると、他の人のせいにしてしまいがちな人間の性質と共に、当時の社会にあった、ギリシア神話の神々の影響などもあるのではないか思えます。ギリシアの神々というのは、さまざま人間にいたずらをしたり、誘惑をしたりいたしますから。そのように「神」が「悪に誘惑する」というイメージは、多神教的な、また自分の願望を神に投影する偶像崇拝的な考え方に見られるもので、日本人も、そのような神認識をする人々は多いと思います。そして、誘惑にあったことを神のせいにし、「神がこうしろと言うのだから仕方ない」のように、投げやりに、自分の欲望の赴くままに自分を貶めてゆく。そのようなことは起こりえることです。ヤコブは、私たちの人生がマイナス方向へ傾く原因を、私たち自身の内側に見ているのです。
試練に遇った時、私たちは外側の状況が変わりよくなることをまず願います。しかし、神は人間の心を見るお方です。試練が与えられることによって、私たちの内側が変えられることを望んでおられます。試練の中で何が起こってくるのか。そこで「信仰が試される」のだと2:3は語っています。どこまでも信じるのか、信仰に留まるのかが問われるのです。
そこでなお信じようとするならば、さらに真剣にもっと神に向き合わざるを得なくなりましょう。心を神に向け、祈り、目を凝らし、耳を澄ませます。するとより良く見えてくる。より良く聞こえてくる。信仰による希望がはっきりと見えてくる。神の言葉、イエス・キリストそのお方そのものである、聖書の御言葉が、読む毎に私に強く訴えかけてくる。そのようなことが試練の中で起こるのです。
神は、試練を通して、私たちが神を深く知る知識に満たされ、新しい希望に満たされて、どんな時でも、神を愛し、自分を愛し、隣人を自分のように愛し、謙遜に神の御心を生きる者となることを求めておられます。
「思い違いをしてはなりません」(16節)と、ヤコブは注意を喚起します。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです」(17節)。
光というのは、神の最初にお造りになられたものですが、光は世に遭って、「移り変わり」や「影」(17節)があります。光も被造物であるからです。それと同じように、神に造られた私たちの人生にも移り変わりがあり、影があるように思えます。喜びや楽しみもあれば、苦しみや悲しみの時があります。
けれども、「光の源」(17節)である父なる神は、変わることなく私たちを照らし続けておられます。
信仰を持っていても影の中を生きるように思える時がある。しかし、神の光はイエス・キリストのもとにある私たちを絶えず照らし続けてくださっています。そして、私たちが内側から試練を耐え忍び、練り清められることによって、神に近づけ、「命の冠」をいただく―ヤコブは語っています。「試練に耐え忍ぶ人は幸い」なのです。
私たちの主は光の源であられます。試練を与えられ、影のように暗い中を生きているように思える時も、神に希望を置きつつ耐え忍び、生きるならば、それは神に近づき、まことの神の光の中を生きる道となるのです。