「天に富を積もう」(2021年2月7日礼拝式順 説教)

前奏 「ガリラヤの風かおる丘で」  曲:蒔田 尚昊
招詞  コリントの信徒への手紙 二 5章17a節
賛美 207(123) ほめよ主を
詩編交読 55編23~24節(64頁)
賛美  494  ガリラヤの風
祈祷
聖書  詩編113編4~8節(旧954)
      マタイによる福音書6章16~24節 (新 10)
説教 「 天に富を積もう 」  小林牧師
祈祷
賛美 463 わが行くみち
信仰告白 日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告  
頌栄   25 父・子・聖霊に
祝祷
後奏

「 天に富を積もう 」
詩編113:4~8
マタイによる福音書6:16~24

 今日の御言葉の前に、イエス様は主の祈りを教えてくださいました。
 主の祈りの初めの半分の主語は「あなた」=父なる神であり、主の御名があがめられることが一番、神の御国の到来を待ち望む祈りが二番、神の御心が行われることを求めることが三番。そして、私たちからの神への願い求めは、主の祈りの後半でした。それは、私たちの信仰は、自分に先立ち神がおられることが前提されてあり、主なる神が私たち人間にとって何よりも第一にすべきお方であるということです。私たちは神によって造られた存在であり、私たちの存在そのものは元来、私たちをお造りになられた神に属している――そのことこそが、人間存在の原点であり、私たちが知るべき大切なことです。
「罪」を聖書は徹底的に語りますが、罪のもともとの意味は「的外れ」。私たちの存在の中心は主なる神でありますのに、人間は、目に見えない神を認めず、生きて行く中で自分の欲望を達成するすることが幸福と満たされた状態であると思い、また自分の世の名誉、また世の損得勘定で物事を判断いたします。重んじるべき、また目指すべき中心、「的」であるはずの神から的を180度外して、自分中心に自分勝手に生きるその人間の性質そのものが、聖書の語る罪なのです。

 この「主の祈り」を教えてくださる前に、イエス様は「施しをする時、人目につかせてはならない」「祈る時には奥まった部屋で祈れ」と教えられました。
 そして、今日お読みしました「主の祈り」の後には、「断食をする時、人に気づかれないようにしなさい」、「地上ではなく天に富を積みなさい」「体のともし火は目である」と言われ、それらすべてを総括するように「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」と語られます。「富」とは、自分中心の思いの象徴でありましょう。

 イエス様は人間の心をよくご存知であられます。人間を、神という自らの存在の根底の指し示す「的」から外させ、罪に陥らせるものは、人間の自尊心、人によく見られたい、褒められたいなどの、ちょっと姑息とも思える性質であり、また人間が世の富に対して限りなく貪欲であるということをよく知っておられ、それらがどれほど的外れであるか、神から人間を引き離すかを、教え戒められるのです。

 まず「断食」ということ、その本来の意味は、心も体もすべて集中して、神に自分自身をささげるためのひとつの努力と言えましょう。
 以前、韓国に行きました時に、教会の「断食祈祷院」を訪れたことがありました。訪れただけで、残念ながらそこに加わらなかったのですが、そこは奥まったところで、私のような見学者と断食をしている人の区別ははっきり分からなかったことを記憶しています。少なくとも苦渋に満ちた顔をしておられる方はおられませんでした。そこは当たり前ながら「見せる」ために断食をする場ではなく、神と近づきたい、その一心ということがよく分かる場所でした。
 また断食というのは、本来、人間の心と肉体というものは切り離せない「神秘」の関係にあることと関連するのだということを感じさせられました。

 旧約聖書の律法には「大贖罪日」と呼ばれる、大祭司が年に一度、神殿の至聖所に入り、いけにえの血を注いで、すべての民が一年に犯した罪の償いをする日が定められており、その日、すべての民はまる一日24時間断食をする定めがあります。それ以外は律法に断食の掟にはありません。
 しかし、ユダヤ人たちは大贖罪日のほか、律法に加える規則を決めて、4月の断食、5月の断食、10月の断食、エステルの断食など、理由を付けて行うようになり、更にイエス様の時代のファリサイ派の人々はモーセがシナイ山に登った記念としての木曜日、モーセがシナイ山から下った記念としての月曜日の、週に二度の断食を加えていたのです。それらは、彼らの宗教的熱心さを殊更に人々に誇示するしるしのようになっていました。髪の毛は薄汚れ、顔つきは苦渋に満ちていたことでしょう。
イエス様はそのように人に見せるために、自分をひけらかすために断食をするならば、それは神の目に留まる断食ではないことを語られます。自分の熱心さをひけらかすように、顔に苦渋を滲ませるようなその態度に対し、「偽善者」と言われ、その態度に対する「報い」として、神にその苦行、断食は受け入れられなくなっていることを戒められるのです。断食をするならば、それと気づかれないように身なりを整えなさい、神は私たちの「隠れたこと」を見ておられる、と。
「神は隠れたこと」をご覧になられている―私たちの心の「ちょっとだけ」はどうやら神には通じないようです。
 
 そして自分自身の「誇り」を求める心は、世の富への強欲へと結びついて行きましょう。人間は「溜め込む」ことで安心をします。
 しかしイエス様は「あなたがたは地上に富を積んではならない」と言われます。
 当時のユダヤ人たちにとっては、小麦、ぶどう酒、油、華美な衣服、敷物、宝石などが「宝」「富」と呼ばれていたそうです。小麦などすぐに虫がついてしまいましょうし、ぶどう酒も貯めて古くなると余程保存を上手にしなければ不味くなりますし、油は古くなるし、衣服や敷物は、今のような防腐剤もありませんからすぐに虫がついてしまう。また盗人が入って来て、家の中の宝石、そしてすべての「富」と言われるものを盗み出すことなど、現代社会よりも遥かに多かったことでしょう。

「主の祈り」には「日毎の糧を今日も与えてください」という祈りがあります。この祈りの言葉を厳密に直訳すれば、「わたしたちの必要なパンを、今日私たちに与えてください」であり、私たちの日々の暮らしの必要なものは神が与えてくださる、この祈りはそのことが前提されています。溜め込むのではなく、神からの日々の糧を感謝していただき、今日を生きるのです。ですから、私たちは食前に食事を与えてくださる神に、感謝の祈りをささげます。
 日毎の糧は必要ですが、それにしてもニュース等を見ていますと、例えばこの国の政治家たちの強欲さに驚かされます。一体、どれだけお金が欲しいのだろう?自分の人生で使い切れないほどのお金が有り余るほどあると思えても、もっともっと死ぬまで大量のお金を握り締めているように思える強欲さに、正直辟易してしまいます。命は主のもの。人間の命は有限であり、今日、明日にも終わるかも知れなず、世に蓄えた富は、死んでしまった後には使うことなど出来ないのに。
 イエス様は、そんな人間の強欲と、世のものの儚さをよく知っておられます。そして、「天に富を積みなさい」と言われるのです。

「天に富を積む」、それは何より、主の御言葉に聞き、自分自身を絶えず省みつつ、悔い改め、神の支配のうちに自分自身が置かれていること、向かうべき「的」は神であるということに全身を傾けて生きることなのではないでしょうか。
「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」イエス様は言われました。「心」とは、聖書に於いて、「人間の意志を司る器官」です。イエス様は私たちの意志を持って、心を神に向けて、御言葉に聞き、神という「的」、命の源、すべての富の根源であられるお方に、私たち自身を委ねることを求めておられます。
 イエス様は少し先の33節で「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのもの(日々の必要)はみな加えて与えられる」と仰いました。世のものに固執して、人を押しのけ虐げ自分の富と誉れを求め続けるのではなく、私たちの存在の根源は神にあることを知り、世にあって神のご支配のある天に的を当てて、天からの恵みとして与えられる富、日々の恵みを求めつつ、神の御言葉に聞き従いつつ生きるのです。

 更に続けて「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」と語られました。
「澄んでいる」とは、旧約聖書のヘブライ語に遡ると「二心のない」「物惜しみしない」という意味の言葉で、これは金銭へのこだわりのない態度も含む言葉です。「濁っている」はヘブライ語で単純に「悪い」という意味ですが、「目」と結びつくとき、特に「澄んでいる」と対応する時、「嫉妬に満ちた貪欲な目」という意味になるそうです。
 そして「天に富を積むこと」「体のともし火は目であること」が結びつく時、天に富を積むとは、神に心を向け、世のことへの執着に二心無く、物惜しみせず、自分が神によって世にあって豊かにされているならば、人に分け与える、神を愛し、隣人を自分のように愛して、神からの恵みを他者に分け与える、そのような生き様を「天に富を積む」とイエス様は語られているのではないでしょうか。

 私たち人間の「目が澄んでいる」ことを求められる、イエス様、そして主なる神。その「神の目」は、私たちが隠れて行う行為に注がれている、そのことが18節で語られておりました。
 また旧約朗読でお読みした、詩編113編にありますように、高き天より地に降られ、弱い者、乏しい者を起こし、高く引き上げてくださる―これはイエス・キリストの到来の出来事そのものと言えますが―神はそのようなお方です。神は人の目につかない隠れたところ、また弱さ、乏しさ、人間の悲しみのあるところに、殊更に目を注がれるのです。

 それであるならば、人は悲しまなければ、貧しくなければ主の目に留められないのか、信仰を持つことは貧しく悲しく辛いと思われるかも知れませんが、弱さ、乏しさに目を留められるのは、神の憐れみと愛のご性質であり、神は人が世にあって「幸福になる」ことを望んでおられます。申命記8:16で出エジプトの意味を、「ついには幸福にするためであった」と語られています。

「神の国と神の義」をまず求める時、神からの恵みの賜物が私たちに注がれます。その賜物として、世にあって私たちが「富む」という幸いが与えられるならば、「目を澄ませ」、更に天に心を向けて、自分を誇示したり、人間の誉れを人に求めるのではなく、隠れた行い、また人間の弱さ、乏しさに殊更に目を向けられる神の目に倣い、与えられた富を「分け与える」ことは、神の目に適うことでありましょう。

 キリスト教会、また神を第一とする人々は、歴史の中で、これらの教えに基づき、世の多くの貧しさに、自らをささげ、手を差し伸べ、学校やさまざまな施設を造り、世の弱さ、乏しさを共に担ってきました。そして人々の生活を、生きる道筋を変えてきました。
 私たちひとりの力は小さいかもしれません。でも、私たちは主にあってキリストの体とされた者たちの集う教会です。私たちの力を合わせれば、神の喜ばれる御業にきっと近づくことが適いましょう。

 私たちは神のご支配の中に生かされている者。世にあって神を第一にし、天に富を積むことを、何よりも求めて、「目を澄ませ」、自分のために「溜め込む」のではなく、「与える人」になることを求めたいと願います。
「神と富につかえることはできない」のです。神から与えられた恵みを、豊かに御心にそって用いるものになりたい、そのことを願います。