「高い山の上で」(2021年3月14日礼拝説教)

前奏   「イエスはわが喜び」         曲:クレプス
招詞    イザヤ書55章6~7節
賛美    132(145) 涸れた谷間に野の鹿が
詩編交読    60編1~7節(68頁)
賛美     297(125) 栄えの主イェスの
祈祷
聖書     出エジプト記19章17~19節 (旧 125)
        マタイによる福音書 17章1~13節 (新 32)
説教      「 高い山の上で 」
祈祷
賛美     436(124)十字架の血に
信仰告白    日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告  
祈祷     今月の誕生者・受洗者の感謝
頌栄     28 み栄えあれや
祝祷
後奏

出エジプト記19:17~19
マタイによる福音書13:1~13

 最近、少し家の片付けをしたいなと思い、まず捨てるものを探し始めました。今の牧師館には4年前に引越しをさせていただきましたので、その時、またその前に土気に赴任をする際に、多くのものを捨ててきました。そして、「捨てるぞ」と、一番大きなゴミ袋を片手に張り切ってみたのですが、そう捨てるものが残っていないことに気づきました。あるのは仕事と生活のために必要なものばかり、あと少々の写真や手紙類、捨てられない僅かながらくた。「私は本当に物を持っていないのだな」ということに気づかされました。
 そんなことをしながら、私は人生の終わりに何を持っているのだろう?そんなことを考えました。価値のあるものは持っていませんし、趣味で蒐集しているものもありません。いつか牧師の働きを終えたら本も要らなくなり、ほかのものも何を捨てても特に困らない、同じような生活のための道具しか無いことを思いました。でも、捨てられず持ち続けている、例えば既に天に召された友人からの手紙などがあることを思う時、この世のもので最後まで持っておきたいものは、生きて来た中で受け取った「言葉」なのではないだろうか?そんなことを考えました。そして、「言葉」というものは、どれほど大切なことか、どれほど人を生かすか、また多くの言葉が満ち溢れる世に於いて、私たちが何に「聞くか」、そして何を心に留めて生きるかに、人の生涯は決められるのだと思いました。
 そして、改めて、私―私たちには、神の言葉である聖書をいただいていることを思いました。私たちの人生に何が起ころうとも、「聞く」言葉、「聞き続ける」言葉、私を私たちを、ご自身の命を捨てるほどに愛して下さっているお方の「言葉」、「聞く」べき言葉があることを思い、最後まで残るのは、イエス様の言葉、聖書の御言葉、そしてその愛に違いない、それだけがあれば、人は生きることが出来るし、また恐れず死ぬことも出来る、そのことを思いました。

 先週はマタイによる福音書の16章をお読みいたしました。今日の御言葉はその続きです。イエス様は弟子たちに対し「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問われ、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰の告白をいたしました。イエス様はペトロの言葉を喜ばれ、「この岩=この信仰の告白の上にわたしの教会を建てる」と言われました。この時、イエス様は御自分が何者であるか、救い主、キリストであるということを明らかにされたのです。
さらに御自分が、この後どのように苦しめられ、殺され、また復活をされるのかということを語られ、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われました。自分を捨て、罪の十字架を背負い、イエス様の後を行く、イエス様にそのようにして従う、そこにこそ命の道があることを、教えられました。
今日の御言葉は、それらの出来事から数えて6日目の出来事です。

 聖書では数が象徴的な意味を示す場合が多いですので、マタイがここで敢えて「6日目」と語っていることは何らかの意図が秘められていることを思います。6という数字、また6日目とは何だろう?思いめぐらしました。そして神が6日間を掛けて万物を創造されたことがまず思い出されました。神の創造の御業の最後の日が、6日目です。完成の直前、まだ完成はされていない時。またヨハネによる福音書でイエス様が婚宴の席で、水をぶどう酒に変えられた「最初のしるし」―イエス様がメシアであることの奇跡の業―を現された出来事の水がめは6つでした。
 それらを思い巡らしますと、この「6日目」とは、神の鮮やかな働きが続けられている真っ最中であえることを現しているのではないだろうか、それも完成が近いことを見据える時。そのように考えました。
 
 その日、イエス様は12弟子の中から、ペトロ、そしてゼベダイの子ヤコブとその兄弟のヨハネの3人を連れて、高い山に登られました。イエス様がこの3人だけを連れて行かれるのはここだけではありません。十字架に向かわれる直前、ゲツセマネで祈られる時にも、この3人を連れて行かれています。ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、この3人は12弟子の中でも、特別な役割を担っていたことが思わされます。
 その高い山に登る時、そこで何が起こるのか、イエス様は知っておられたはずです。それを敢えて、この3人にだけ、お見せになられたのです。

 福音書を読んでおりますと、イエス様は祈られる時、また人々の喧騒を逃れる時、しばしば山に登られ、祈り、夜を明かされていることが語られています。
旧約聖書ではモーセが律法を主なる神から与えられたのは、シナイ山でしたし、エリヤに於いては、バアルという偶像の450人の預言者たちと、エリヤが、主の名によって対決をして勝利したのは、カルメル山でした。
 山は神の顕現に出会うところであり、また日常の喧騒を離れて、静まる場所、神と語り合うところと言えましょう。また、人が現実から離れることで、霊的に高揚させる場所にもなりましょう。

 その山で顕されたイエス様のお姿とは、驚くべきものでした。
 いつも傍に居られ、砂埃にまみれた服と草履、時に汗をかかれ、笑い、共に食卓を囲み、また教えてくださるイエス様のお姿が、弟子たちの目の前でみるみる変わって行ったのです。顔が太陽のように輝き、服は光のように白くなりました。その姿というのは、ヨハネの黙示録1章で現されている「天上のキリスト」の幻に似ています。ヨハネ黙示録では「髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く、目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き・・・」と。
 そこに旧約聖書の最大の人物であり、主なる神から律法を授けられたモーセと、終わりの日に、救い主の到来に先立って道を整えるためにやってくると伝承されている、預言者の時代の先駆けであるエリヤが現れて、イエス様と語り合っている姿を、弟子たちは見たのです。
ここではイエス様の神の御子としての本質(本来の姿)、天の姿が、まとっておられる人間の形を貫いて輝き現れて、三人の弟子たちに啓示されたと言えるのではないでしょうか。俗な言い方をすれば、イエス様が「正体を現した」との瞬間の姿と言いましょうか。イエス様の栄光に輝く姿、神の御子としての本質が、弟子たちに顕されたのです。暗い闇の中に輝く光のように。
 ユダヤ教の聖書外文書の中に、終末の時には義人たちの姿はこの世のものならぬ光輝に変わることが語られているものがあります(シリヤ語バルク黙示録51)。ここで「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」というのは、終わりの時に起こる、ユダヤ人の間で待ち望まれ、伝えられていたこと、終わりの日の救いがまさに来たらんとしていることを、弟子たちは見たのです。

 モーセ、エリヤ、ユダヤ人たちにとっては、このふたりは余りにも偉大な人物です。ルカによる福音書の同様の出来事を書いた箇所を読みますと、この時、モーセ、エリヤ、そしてイエス様は「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」とあります。またこのふたりとイエス様が語り合っておられたということは、旧約の時代に於ける神の人間に対する救済の業、律法と預言の上に、イエス様が立てられていること、イエス様は、旧約聖書の約束の救い主であられるという証と言えましょう。

 ペトロは、この三人が語り合っているのを見て、聞いて、あまりの出来事に興奮極まり、「口を挟」みます。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。
ペトロはいろいろなところで「出しゃばり」のように口をついていて、前の16章では、イエス様に喜ばれる信仰告白をしたかと思いきや、イエス様がこれから受けようとされているご受難をお話しされた時、「そんなことはあってはなりません」と脇にお連れしてイエス様を諌め、「サタンよ引き下がれ」とまで言われてしまっていますけれど、ここでは、イエス様とモーセ、エリヤが語らっているところに、この世を超えた神の領域の出来事と思われることに、口を挟むのです。感情が昂ぶったら、抑えられない、そのようなペトロであることを覚えます。また、同時にそのような、ちょっと先走ってしまうような人間性、さまざまな弱さや欠点を持つペトロを、イエス様は限りなく愛しておられ、ご自分の一番弟子として重んじておられることも覚えます。

 ペトロは現実を超えた出来事に、その恵みを自分だけのものにしておきたいと思ったのではないでしょうか。自分の今いるところに、モーセもエリヤも、イエス様も留めておきたい、この「場」で、ずっと至福の状況を独占し、留まっていたい。留めておきたい気持ちが、「仮小屋をたてる」という言葉になったのではないでしょうか。
 ここは山の上です。神が人間に語りかけられる場であり、また、人間にとっては生きる現実から離れた天に近い場所です。人間にはそのようなところで、ひたすら幸福感に留まっておれたらどれだけよいか、そこに留まりたい、この世の喧騒から離れてと、願うことがあると思います。しかし、この山の上の出来事は、人間の生きる現実とは違うものです。人間はそこに居続けることは出来ないものです。

 ペトロがこの言葉を語る中で、「光り輝く雲」が現れて彼らを覆いました。ペトロの「ここに留めておきたい」という、地上的な人間的な思いなど蹴散らすほどの、天の栄光をあらわす眩い光の雲。
 雲は聖書に於いて、神の栄光、また臨在を表わします。エジプトを脱出したイスラエルの民がシナイ山でモーセを通して「十戒」を受けた時、神はモーセに向かってこう言われました。「見よ、わたしは濃い雲の中にあってあなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞いて、いつまでもあなたを信じるようになるためである。」
罪人なる生まれたままの人間は神様に近づくことなど出来ません。しかし、この時、光り輝く雲、栄光の神のご臨在のほうが近づいて来て、彼らを覆ったのです。何という恵みでしょうか。
 神は、ペトロたちに自ら近寄って来られ語り掛けられ、雲の中からその声が聞こえました。まるでかつてモーセにシナイ山で語り掛けたように。「これはわたしの子、わたしの心に適う者。これに聞け」と。弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れました。あまりの威光、またその臨在の重さに、恐れ、ひれ伏すしかない弟子たちでした。

 その時、ひれ伏し恐れる弟子たちに、イエス様は近づいてこられ、彼らに手を触れて言われました。「起きなさい。恐れることはない」と。
この時のイエス様は、白く輝く姿ではなく、いつもの温かい手、そしていつもの慈しみに満ちた眼差しだったのではないでしょうか。そして、モーセとエリヤはそこにはもうおりませんでした。
 弟子たちは、天の栄光のあること、それをはっきりと見た、夢を見るような高い山の上の出来事から、再び、平地に、イエス様と共に世の現実へと戻って行きます。

 光り輝く雲の中から、「これに聞け」という主は弟子たちに言われました。イエスに聞け、そう言われたのです。イエス様は主なる神が人となられたお方。神の御子。モーセもエリヤも超えて、ただおひとり、まことに「聞く」べきお方であることを、旧約聖書の時代のすべてを通して、主なる神が約束されていた救い主、ただひとりの私たちがまことに「聞く」べきお方である、そのことを、高い山の上で、光り輝く雲の中から、主なる神は、弟子たちに向かって宣言されたのです。

 イエス様、このお方の言葉こそ、私たちの「聞く」言葉です。パウロは申しました。「実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ロマ10:17)と。
 私たちの周りには多くの言葉に満ちています。心地のよい言葉があれば、悪意に満ちた言葉を聞くこともあります。また心地の良い言葉に思えたことが、私たちを罪に誘う誘惑の言葉であったりいたします。
 私たちが聞き、またその後を従うべき言葉は、神の御子、神の言葉であられるイエス・キリスト、このお方の言葉です。
 この後、ペトロたちが山を降りて最初に出会う言葉は、悪霊に取りつかれた息子を憐れみ、癒して欲しいという、傷みをもった人の言葉でした。そのような悲しみの言葉があるのが、私たちの世の現実です。
 私たちの生きる世には苦難があり、混乱があります。そのような世の現実を生きる私たちには、さまざまな誘いの言葉、神から離れさせようとする声も聞こえてきます。
しかし、私たちにははっきりと示されています。聞くべき言葉は、「イエス・キリストの言葉」であることを。それは、私たちにはこの聖書を通して、イエス・キリストの言葉を通して明らかにされているのです。
 辛い時、困難な時、罪に気づき苦しむ時、さまざまな過去の悔恨の中にある時、また喜びの時も、何より「これに聞け」、イエス・キリストの言葉に聴き、主の御足の跡を辿るものでありたいと願います。そして、世の現実ともうひとつ、神の側の現実が、山の上の出来事が象徴する神の支配が、私たちの現実を超えたもうひとつの現実として「ある」ことに、確かな希望を持ちたいと願うものです。