「イエスは仕えるために来られた」(2021年3月21日礼拝式文、説教)

前奏
招詞   イザヤ書57章15b節
賛美 16(135) 我らの主こそは
詩編交読 61編(69頁)
賛美 294 ひとよ、汝が罪の
祈祷
聖書 エレミヤ書25章15節 (旧 1223)
     マタイによる福音書20章17~28節 (新 38)
説教 「 イエスは仕えるために来られた 」
祈祷
賛美 298(1345)ああ主は誰がために
信仰告白 日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告  
頌栄 27 父・子・聖霊の
祝祷
後奏

エレミヤ書25:15
マタイによる福音書20:17~28

 神がどのようなお方か、それは聖書を通して明らかにされています。
神はただおひとりのお方、天地万物の造り主。そのお方が、あろうことか、ご自分のお造りになられながら、神への背き=罪によって、神から引き離された私たちの生きるこの世に、人の姿をとって降ってこられました。そのお方がイエス・キリスト。
 聖書の「聖」という言葉は、旧約聖書の書かれたヘブライ語に於いて、「分離」を表す言葉です。はじめの人アダムの罪=神への背きによって、人は神から分かたれ離されたものとなってしまい、人は罪のために神を見ることは出来ない、神を見た者は死ぬとされておりましたのに、約2000年前のある時、神の方から、人間の世に、「聖」なることを打ち破り、降りて来られたのです。
 それは神が「愛」であられるから。親は子を無条件に愛するものです。今、日本社会に於いては歪みが酷く生じて来ており、親が子を虐待する、そのような事件が後を絶たず、これはどうしたことかと社会の歪み、人間の罪の深さ、また人を愛から引き離そうとする悪の力がうごめいていることを感じるものですが、元来、親は子を愛するものとして神は造られたに違いありません。それは、創造主なる神は造られた人間を愛しておられるから。それと同様に世にある生き物の親子関係も元来無条件で結ばれているものです。
 ご自分が造られた人間が、神に背く者となってしまったにも拘らず、神は人間を造られた「親」として、親であるからこそ、愛する我が子である私たち人間の罪を悲しまれ、人が罪に気づき神に立ち帰るものとなるように願われ、旧約聖書の時代、律法を、そして預言者の口を通して、さまざま働かれたのです。しかし、人間はそれでも神に立ち帰ることをいたしませんでした。
そして遂に、罪によって滅びに定められた人間を何としてでも救う道を拓くべく、神は人となられ、御子イエスとして世に遣わされたのです。これは神ご自身が世に来られた、そう言い換えてもよいことです。
 そして、旧約の時代の律法に於いて定められていた人間の罪の贖いのための動物の犠牲を自ら終わらせ、すべての人の罪に対する報い、罰をその身に受けられ、罪の無いお方が、犠牲の小羊として、全ての人の罪に対する身代金=代価として、十字架の上で殺され、死なれたのです。そのお方が、神そのお方であったのです。
「神」と言うと、イエス・キリストを知らない多くの方々は、何やら得たいが知れず、気に食わないことがあると酷い目に遭わされる、そのような存在として恐れたり、また「私は無神論者だ」と声を大きく言ったり、さまざまですが、神は確かにおられ、神は愛であられ、その愛は、命を掛けて、人を救われるお方。神、イエス様は、人に仕えるために、世に来られました。神は、高いところから人を見張っているようなお方ではなく、親が子にすべてを与える如くに、人間に与え、仕えてくださる、高いところから低き地に自ら降られる、そのような愛のお方なのです。

 イエス様はこの時、ご自身が祭司長、律法学者に引き渡され、死刑を宣告され、異邦人=ローマに引き渡され、鞭打たれ、十字架につけられること、さらに復活されることを弟子たちに予告されました。この予告は16章、17章に続いて、三度目のことです。
「弟子たち」と言うのは、12弟子だけではありません。ルカによる福音書8章には、イエス様、12弟子と共にいて、奉仕をしていた数名の女性たちがいたことがはっきりと記されています。イエス様が逮捕された時、12弟子は一目散に逃げ去ってしまったのですが、付き従っていた女性たちは、イエス様の十字架にほど近く、見守っていたことが四つの福音書とも語っています。その女性たちは、福音書によって書かれている名前が少しずつ違うのですが、マタイでは「マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母」と記されています。

「そのとき」、イエス様が死と復活を予告された時、ゼベダイの息子たちの母が、ふたりの息子、ヤコブとヨハネと一緒にイエス様のところに来て、ひれ伏し、何かを願おうといたしました。
 ヤコブとヨハネとは、先週お話をさせていただいた、ペトロと共に、イエス様に連れられて高い山に上り、イエス様のお姿が真っ白に変わったこと、そしてモーセ、エリヤとイエス様が語らっていたことを見て、聞いたふたりです。
 そのふたりの兄弟の母も、イエス様の弟子であり、イエス様一行の世話をしており、十字架をイエス様の母マリアらと共に見守った女性です。
 この母が、息子たちふたりを連れて、イエス様の前でひれ伏したのです。
 イエス様は「何が望みか」と問われました。すると母は「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」と申しました。
 この母は、恐らくはイエス様がマタイ19:28で、イエス様が語られた言葉「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたたちも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」と仰ったことをはっきり覚えていたのでしょう。
またもしかしたら息子たちが、モーセとエリヤに会ったことを、(イエス様は誰にも言ってはいけないと口止めをしておられましたが)密かに聞いて心躍っていたのかも知れません。そして、右と左のどちらかに、息子たちではなく、ペトロが着いてしまって、ひとりは、イエス様の両脇から一歩離されてしまう、それは何とか陳情によって阻止したい!と思ったのかも知れません。
 母親の子離れの出来ていない過干渉と、自分の子だけは、という溺愛ぶり。母が大人になっている息子ふたりを引き連れて、「主が栄光を受けられる時、息子たちふたりを上席に座らせて欲しい」と懇願するとは、何とも呆れた光景と思え、また世に「ありがち」な光景にも思えます。「親のコネ」で良いポジションにつくなどということを聞くことがあります。聖書は、そんな人間の姿をよく知っている、そんな姿を滑稽に見ている、そのように思える出来事にも思えてしまいます。
 そのような人間的な思惑にまみれた願いに応えてイエス様は仰いました。「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」。
これは真剣な問いかけです。実は生半可に答えられるような質問ではありません。しかし、イエス様の言葉の意味を、まだ理解をしていないヤコブとヨハネは「できます」と、上席に座ることを願いながら意気込んだように答えます。
 イエス様はそれに対し、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左に誰が座るかは、わたしの決めることではない」そのように言われました。

「杯」とは、イエス様がゲツセマネで「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と苦しみもだえ祈られた、その「杯」です。「杯」とは「神の怒り」が盛られている杯であり「神の裁き」を表します。イエス様は、ゲツセマネで、すべての人の罪に対する神の怒りと裁きの盛られた杯を、父なる神から差し出され、苦しまれ、しかし「御心のままに」と受け入れられることになる「杯」です。この時、予告をされていた十字架、それが「杯」の中身です。
「わたしの杯を飲むことが出来るのか」
 神の怒りと裁きの盛られた杯を飲むということは、ヤコブもヨハネも、「すべての人の罪に対する神の怒り」に触れること、更に、神の怒りに触れて苦しむことが出来るのか、そのような問いかけだったのです。
 
 使徒言行録12章によれば、このヤコブはヘロデ・アンティパスによって殺害されたことが語られています。ゼベダイの子ヤコブは12弟子の中で、最初の殉教者となりました。ヨハネについては、伝統的に「ヨハネによる福音書」を書いた人物と言われています。このヨハネも生涯、主の「杯」を飲むことになったに違いありません。
殉教ということ、非常に難しいことですが、このイエス様の言葉のヒントになる御言葉が、パウロの言葉としてコロサイの信徒への手紙1:24にあります。「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」。
「杯を飲む」とは、「キリストの苦しみの欠けたところ」を満たすこと。キリストの十字架の苦しみに欠けたところがあるのか、不思議に思えますが、主は、地上で神の愛を証するために、「苦しみのかけら」、その場、その時代になさねばならない業を、キリストに従いゆく者たちに残されているのではないでしょうか。
殉教―信仰のゆえに殺されてしまうということ。あまりにも厳しいことで、受け入れがたいと思えてしまいますが、罪のこの世にあって、主に属する者は、世の命を超えた命の希望を見据え、隣人への愛のため、神の栄光が世に顕されるために、身を挺して世の罪に抗うことがあります。それは人間の思いを超えて、「時」に聖霊によって促されることがある、ということなのかもしれません。神のただしさと、隣人愛のために、身を挺する人が、歴史の中に多くおられました。そのような場所に、主に信頼される僕は置かれることがあります。新しい世界の、まことの命を見据えつつ。
 第二次世界大戦中のアウシュビッツ収容所で、カトリックのコルベ神父は、無作為に、理不尽に死に向かわされることになり「わたしには家族がいる」と泣き叫んだひとりの人に代わり、自らが死ぬことを申し出、自ら進んで餓死をさせるための牢に入り、死に至る人々と共に讃美歌を歌い、人々を励まし、イエス・キリストを証ししつつ、殉教の死を遂げました。
 罪の世に、愛を、神の義を表すために、また人を助けるために、信仰によって「主の杯」を飲む人がいるのです。そのような愛を示す人が時々に現れ用いられ、世に於いて人々を慰め、励まし、救いに導いて、キリスト教2000年の歴史は築かれています。

 しかし、ヤコブもヨハネも、その母も、この時、自分たちの言葉の意味を知りませんでした。「杯を飲む」こと、「新しい世界」が来る時、栄光の主の両脇にいるということは、十字架の主のために苦しむこと、主のために、隣人のために苦しみ死ぬことを意味しているのですから。
 また、弟子たちもその意味を理解をしておりませんでした。
 弟子たちは、この出来事を知って、何を出し抜こうとしているんだ!と怒りました。ゼベダイの子たちとその母、そしてペトロをはじめとする他の弟子たちも、心の中にあることは同じだったのです。「自分が偉くなりたい」と。人の上に立ち、力を振るいたいと。

 それに対し、イエス様は言われました。「異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい」。
「偉くなりたい」、この「偉い」という原語の意味は、「大きい」という意味です。世に於いて「偉い=大きい」ことは、人の上に自分を置こう、そして人を支配しようという人間の罪に纏わる願望です。そこには嫉妬、羨望があり、またそれらは半面、自分を極端に卑下して卑屈になる心と相反しながら共にあり、それらは人の心を闇と罪に向かわせる心の動きです。
 しかし、私たちの神、主は、世に来られ、すべての人の罪の贖いとなるために、自らをささげてくださった、そのようなお方です。主イエスは、神の怒りの盛られた盃を飲み干され、多くの人の身代金=贖いとしてご自分の命を献げてくださり、苦しみ十字架に架けられ陰府に下られましたが、三日目に復活をされました。死を打ち破り、復活されたのです。
 主の十字架と復活、そのことこそが、神の罪ある人間に対する救いのご計画が成し遂げられた時、イエス様が栄光を受けられた時でありました。
 イエス様は高き天より、低きに下られ、すべての人の罪のための身代金=贖いとなられた。神は人間を愛するあまり、そのように人となられ、自ら苦しまれ、その命を捨てて、人に仕えてくださったのです。
 そのような神の御前で「偉くなる」=「大きくなる」ということは、神が高いところから低いところに降られたように、自らをへりくだり、世に於いて世の権力者のように大きくなることを望まず、人を自分の足もとにおくことを望まず、寧ろ人の足もとで―イエス様が最後の晩餐の席で、弟子たちの足を洗い、その手本となられたように―僕として仕える者となること、そのことに他なりません。
 それは見せかけの謙遜などではなく、まことに主の御前に、主を第一とする信仰によって、信仰によって豊かに与えられる聖霊の助けを受けて、為すことが出来ることでありましょう。
 私たち人間は、どこまでも自分を誇りたがり、謙遜をする態度に於いても、それを誇りとしたりしてしまうものです。 
 このイエス様の御言葉「偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」、このことを私たちは地上の生活に於いて、心にしっかりと刻みたいと思います。絶えず、神の御前にぬかづき、自分を大きく=偉くするのではなく、私の中で神を大きくして生きたいと願います。

 この時、弟子たちはまだ何を分かっていませんでしたが、主の十字架、そこに於ける挫折、そして主の復活、主の赦し、昇天、聖霊降臨の出来事を経て、まことに「仕える」ということを知る者と変えられて行きます。
 私たちも今は弱いかもしれない。分かっていないかもしれない。しかし、もっともっと、私たちの内側で、自分ではなく、神が大きくなること、神の御心を第一にして生きることが出来る者と変えられるように、祈り求めたいと願います。
 そして、神から委ねられている各々の働きを、仕える者として為せるようになりたい、そのことを願います。