「イエスの十字架」(2021年3月28日礼拝式文、礼拝説教)

前奏       「愛するイエスよ、汝、何の罪のゆえに」     曲:J.S.バッハ
招詞       ヨエル書2章12~13節
賛美       35 主よ、あわれみたまえ
詩編交読   62編1~9節(70頁)
召天者を憶える祈り
賛美       300 十字架のもとに
祈祷
聖書       出エジプト記12章21~23節(旧 112)
ヨハネによる福音書19章17~30節 (新 207)
説教 「  十字架の上で  」
祈祷
賛美 306 あなたもそこにいたのか(125)
信仰告白 日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告
頌栄 25 父・子・聖霊に
祝祷
後奏

出エジプト記12:21~23
ヨハネによる福音書19:17~30

今日は棕櫚の主日。民衆が喜び、自分の上着や棕櫚の葉を敷いて、ホサナ、ホサナと主を賛美する中、イエス様がエルサレムに入城された日。イエス様が、十字架、そして死と復活へと向かわれる、最後の一週間が今日から始まります。
今日が棕櫚の主日であることを覚えつつ、本日の御言葉は、金曜日の出来事、「イエス様の十字架」です。
ヨハネによる福音書は、イエス様ご自身の苦痛、御苦しみに対する描写は少なく、淡々と、その道行を象徴的な言葉を交えながら語っていきます。今日は、それらの道行きの出来事とその中で象徴的に語られている事柄を、順に追って読んで行きたいと思います。

イエス様は最後の晩餐の席で、弟子たちに告別説教をされた後、ゲツセマネの園で捕らえられ、まずユダヤ教の大祭司のもとに連れて行かれ尋問をされ、その後、ローマ総督ピラトのもとに送られ、さらに尋問をされます。敢えて、ユダヤ人たちがイエス様をローマ総督ポンティオ・ピラトのもとに送ったのは、ローマ帝国の属国となっているユダヤの法では、ローマ国内で人を死刑にする権限が正式には与えられていなかったから。イエス様をいたぶって何としてでも悲惨な十字架刑に処そうとしたユダヤ人権力者の思惑によります。
しかし、ローマ総督ピラトには、イエス様を十字架刑にするような罪は見出せませんでした。ユダヤ人たちの言い分は、イエス様が死んだラザロを甦らせたことをはじめとする奇跡で、多くのユダヤ人がイエス様に従うようになっていることに対する嫉妬、またイエス様がご自身を「神とひとつである」と言われたことで、「神を冒涜している」という、ユダヤ人の感情的な事情によるもので、ローマ人のピラトには、客観的にそれらが罪とは全く理解出来なかったのです。
ピラトは寧ろイエス様の言葉に興味を持ち、ユダヤ人たちにイエス様を釈放することを促す提案をするのですが、ユダヤ人たちは、イエス様ではなく、強盗のバラバを釈放するように大声で叫び言い返します。5日前、ホサナ、ホサナと歓呼の声を上げて、エルサレム入城を喜んだ民衆は、あっという間に「イエスを殺せ」と叫ぶ暴徒となっていたのです。彼らがイエス様をエルサレムにお迎えした時、イエス様がこの世の王として、ローマを制圧して、自分たちの生活を苦しみから解放してくれるという理想像を持っていました。しかし、イエス様は戦いではなく、小ロバに乗って、平和の王として入城され、それを貫かれました。人々は自分たちの理想像とはイエス様が違った、そのことで怒り、またユダヤ人たちの言葉に扇動されて、あっという間に、「イエスを殺せ」と叫ぶ暴徒になっていたのです。

そして、イエス様を鞭で打たせ、兵士たちはイエス様に茨の冠を頭に載せ、紫の服を纏わせ「ユダヤ人の王万歳」と言って、平手で頬を打ちました。ユダヤ法、律法に則れば、「40にひとつ足りない数」までの鞭打ちですが、イエス様の打たれた鞭打ちはローマ法に則ったもので、数に制限はありません。また、ローマの鞭とは肉が抉れるような金属が革に埋め込んである、そのような恐ろしい鞭です。その時、イエス様の流された血、傷はどれほどのものであったことでしょうか。
鞭と茨の冠で、血まみれになられたイエス様。さらにご自分が釘打たれ死ぬことになる十字架を背負わされて、「されこうべの場所」、風雨にさらされ肉が落ちて白骨になった頭蓋骨の場所、ヘブライ語でゴルゴタというところに向かわされます。ゴルゴタとは白骨化された頭蓋骨の丘という意味なのです。残酷な処刑の多く行われた場所だったということなのでしょう。

エルサレムにヴィアドローサ(悲しみの道)と呼ばれる、イエス様が十字架を担がされて歩まれた道がありますが、そこは曲がりくねった長い坂道です。十字架刑を受ける罪人のその悲惨な姿を、出来るだけ多くの人々がそれを見て、犯罪を犯せばそのようになる、という見せしめのために、街路を長くひきまわされたと言われています。鞭打たれ血だらけになっておられるイエス様はその道を十字架を担いで歩かされたのです。

ゴルゴタの丘―そこに着き、イエス様は十字架に手と足を釘打たれます。
十字架刑による死ほど、恐ろしく苦しく残酷なものはありません。紀元前1世紀のローマの哲学者キケロは「最も残酷で身の毛のよだつ死刑」と断言をいたしました。十字架とは、もともとペルシャの死刑の方法で、ペルシャ人にとって地面が神聖なものだったため、罪人や悪人の死体で、地面を汚すのを避けようとしたから、十字架刑、木の上で殺される刑が始まったのだそうです。そして、息を引き取ったなら、通常そのまま放置され、鳥などの餌食となり、白骨化するのです。
打たれる釘は、直径6センチものものだったと言います。掌に釘を打ったならば、すぐに手が裂けてしまう。だから、手首に近い部分に釘を打つのです。陽に晒され、血を流し、息絶えるまで、その苦しみは数日間続くこともあったと言います。私たちの主イエス様は、人としての弱い体を持ち、その死に於いて、恐怖と苦痛の極みを味わわれたのです。

十字架は三本立てられ、真ん中がイエス様、両脇にはふたりの犯罪人が、ひとりは右に、ひとりは左に架けられていました。
三本の十字架―暗くなったこの礼拝堂にすべての灯りをつけると、この十字架の左右に十字架の影が立ちます。その一本は罪人なる私の十字架ではないか、そのように思いながら、私は見つめます。私の十字架はもはや影でしかない。苦しみの十字架にはイエス様だけが架けられている、そのように思いながら見つめます。ルカによる福音書では、悔い改めた犯罪人のひとりに、「あなたは今日私と一緒に楽園にいる」とイエス様は語っておられますが、主は十字架の上で、苦しまれ、苦しむ私と共にいてくださり、罪と罪によって受けるべき痛みと苦しみを、イエス様が十字架に引き受けてくださり、悔い改める罪人の私たちを楽園=神共におられるところに主は導いてくださる、そのことを思い巡らすものです。

イエス様の十字架の上には、罪状書があり、そこには「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」とピラトによって書かれていました。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語の三つの原語―古代世界の三大言語で書かれていました。それはユダヤ人にも、ローマ人にも、ギリシア人にも分かる書き方で、書かれていたということです。そしてこのことはイエス様が、全人類の救い主であることを表している言葉となります。
これはピラトにとっては恐らくはユダヤ人に対する痛烈な嫌がらせだったのでしょう。ユダヤ人たちはこれを見て「ユダヤ人の王と自称した」と書き直してほしいと申しましたが、ピラトは「書いたままにしておけ」と言い放ちます。
ピラトはこんな人間的には「くだらない」嫌がらせには執心しますが、イエス様に罪の無いことを認めながらも、流されて妥協して、イエス様を十字架に架けることをゆるしました。人間はどうでもよい問題については、意固地に執着するのに、本当に重大な決断に於いて、安易に流されてしまう。重箱の隅をつつくようなことに熱心で、巨悪には寛容、そのような罪の性質があることを思うものです。しかし、そのようなくだらない嫌がらせも、真理の言葉として神は用いられます。イエス様はまことの「ユダヤ人の王」、メシア、救い主に他ならないからです。

イエス様に釘を打ち付けた兵士たち、この人たちは何事か分かっていない人たちです。残酷なことを仕事として、人が苦しむこと、血を見ることに慣れている。しかし、そのような人たちのすることも、神のご計画の中にあったことが暗示されています。それは詩編22:19「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という御言葉の成就として彼らの行動が預言されているからです。
この時のイエス様の着ておられたもの、ユダヤ人は通常5種類の衣服を着けていたのだそうです。サンダル、ターバン、帯、下着、そして外套―これは着せられた紫の衣でしょうか。茨の冠を被せられたイエス様はターバンをこの時着けていたとは考えられませんので、別のものだったのかもしれません。しかし、兵士は四人、衣服は五品目であったようです。4人で衣服を分け、残った下着を分けようとしたら一枚織であった―縫い目がなく、上から下まで全部一つに織られた下着、それは、出エジプト記28章にある、破れないための一枚織の大祭司の衣服を思わせる下着です。
イエス様はすべての人の罪を贖う大祭司、十字架に架けられ、自ら犠牲となり、尚且つすべての人の罪の執り成しをする大祭司キリスト、そのことがここで暗に象徴的に語られているのです。

そして、イエス様の十字架の傍には、母マリア、母の姉妹―この姉妹というのは先週の御言葉でお話をしたゼベダイの子ヤコブとヨハネの母だったと言われています―、クロパの妻マリア、そしてイエス様の復活の第一の証人となるマグダラのマリア、そして「愛する弟子」―ヨハネ福音書を書いたヨハネと伝統的に言われている―がおりました。ヨハネ以外の男の弟子は、イエス様の逮捕で自分たちの身に危険が及ぶのを恐れて去ってしまっていましたが、女性たちは、最後までイエス様のお傍に居たのです。

ヨハネ福音書でイエス様の母マリアが出てくるのは、2章の「カナの婚礼」の出来事と、このイエス様の十字架の二箇所だけです。
母マリアが婚姻の宴で、ぶどう酒が無くなったことに気づき、イエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と耳打ちをし、イエス様が水をぶどう酒に変えた出来事、それは「最初のしるし」と語られており、「その栄光を現された」と語られています。
「しるし」とは、イエス様が「メシア、救い主であるしるし」です。そして「栄光」とは、ヨハネによる福音書に於いて特に、イエス様の十字架の死と結びつく言葉です。
「最初のしるし」として現されたカナの婚礼の出来事を、主の栄光を指し示す出来事のはじまりとし、ヨハネによる福音書は7つのしるしを語ります。そして最後、7つ目のしるし、栄光は十字架。イエス様は、その命が終わる時「成し遂げられた」と言われ、頭を垂れて息を引き取られました。神のご計画、救いの御業の完成は、主の御苦しみ、十字架だったのです。
この最初と最後のしるしに、母マリアがおりました。
マリアはイエス様のただひとりの血縁です。そのことがここで何を表し、何を象徴しているのか、考えを巡らせました。イエス様は、ユダヤ人としての人間の血筋を持ち、同時に聖霊によってまことに神であられました。イエス様が人間としての体、血を持っておられた、その基とされたマリア。その母マリアを、イエス様は、「愛する弟子」に委ねられました。それは事実であったことでしょう。
それと共に深読みかもしれませんが、イエス様のただひとりの血縁、母マリアは、ユダヤ教、旧約聖書、律法の民であるユダヤ民族を、その血筋としてここでは象徴されているのではないか、そのように思えました。
キリスト教会は、旧約聖書、ユダヤ教を基にして始まりました。それは確かなことです。イエス様はユダヤ人としてお生まれになられました。そして、その母マリアを、「愛する弟子」―ヨハネと思われる―に委ねたということ。それは、この後、ヨハネ教団と通称される教会が作られていくことになり、ヨハネによる福音書はヨハネ教団による文書であると言われるようになるのですが、それはユダヤ教から分離された、イエス・キリストの十字架を基点とする、信仰共同体。イエス・キリストの十字架と復活によって作られ、ユダヤ教から分離した新しい信仰共同体です。ユダヤ教は、その枠組を超えて、イエス・キリストの十字架、そして復活、それを通して現された、神の救いの御業の完成、そこへと集約されていくことを象徴しているのではないか、弟子ヨハネにイエス様が「あなたの母です」と言われたことを、私はそのようなことの象徴として考えています。

イエス様は、すべてのことが成し遂げられたことを知り「渇く」と言われました。
イエス様は、人間の体の痛み、苦しみ、悲惨のすべてを味わい尽くされました。「渇く」と言われたイエス様、舌が干上がり、人間の体の死の直前の極まりを語っていると思われる言葉です。イエス様は肉体の苦脳のすべてを味わい尽くされました。「こうして、聖書の言葉が実現した」、これは詩編22編のことを語っています。

そこに酸いぶどう酒を満たした器が置いてありました。
人々は、死の苦しみをほんの少々和らげるため、そのぶどう酒をいっぱいに含ませた海綿をヒソプの枝に付け、イエス様の口元に差し出しました。
イエス様はそのぶどう酒を受け取ると「成し遂げられた」と言われ、頭を垂れて息を引き取られました。
ヒソプの枝、それは、今日旧約朗読でお読みいたしました、出エジプト記12章、イスラエルの民がまさに出エジプトをする際、神に命じられたことは、家族ごとに小羊一匹を屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る、その血を塗られる枝は、ヒソプの枝でした。
イエス様は新しい出エジプト、その救いのしるし。
イエス様はカナの婚礼の席で水をぶどう酒に変えられました。このことが「しるし」である意味は、この時のぶどう酒はイエス様の十字架の血、栄光の時を指し示していました。それであるなら、ぶどう酒はイエス様の十字架の血を、救いのしるしの流された血を象徴いたします。イエス様の十字架で流された血は、出エジプトの小羊の血に象徴されるものであり、更に旧約の救いを超えた、神の救いの完成の出来事である、そのことを、ヒソプの枝につけられたぶどう酒がイエス様の口元に差し出されたことは語っているのです。

イエス様の十字架、その御苦しみは、すべての人間の罪の身代わり、贖いとしての御苦しみでありました。
私たちはイエス様の御苦しみによって、イエス様の隣の十字架に架けられている罪人同様であるにも拘らず、イエス様に罪の報いとしての苦しみを、身代わりになって味わっていただき、救われました。
ただ、イエス・キリストの十字架を、私のためと知ること、悔い改め、信じ、キリストの十字架の御前に身を寄せること、そのことによって罪赦され、私たちは救われます。滅びではなく、神共にある命、イエス様が辿られたように、死を超えて復活の命に与る道が拓かれます。
イエス様の御苦しみは、私たちの救いのためでありました。このことを、私たちは心して味わい知りたいと願います。