前奏 「我、心より喜べり」 曲:ブラームス
招詞 イザヤ書 35章10節
賛美 19 み栄え告げる歌は
詩編交読 62編1~9節(70頁)
賛美 393(124) こころを一つに
祈祷
聖書 創世記12章1~4a (旧15)
コリントの信徒への手紙 一12章31b節~13章13節 (新317)
説教 「 いつまでも残るもの― 信仰・希望・愛」
祈祷
賛美 564 イェスは委ねられる
信仰告白 日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告
祈祷 今月の誕生者・受洗者の感謝
頌栄 27 父・子・聖霊の
祝祷
後奏
創世記12:1~4a
コリントの信徒への手紙一12:31b~13:13
1984年4月8日、土気あすみが丘教会は牧師館も兼ねた高津戸の借家の一室で、これから新興住宅地として開発されようとしていた土気の地に、信仰の種を蒔くべく産声を上げました。それからまる37年。今年は創立38年目を過ごすことになります。
この年、コロナ禍がまだまだ続く気配があり、世界中の社会情勢が悪く、またさまざまな変化も見込まれる年度となりますが、今年度の年間聖句は、今日お読みした御言葉の最後、「信仰と、希望と愛。この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」を選ばせていただきました。それは、前年度の年間聖句「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(ロマ12:11,12)、これは図らずも、コロナ禍の教会を歩むことに「相応しい」年間聖句となってしまったことを思わされましたが、コロナ禍、また変化のある中にあって、「信仰、希望、愛」この三つの「いつまでも残る」もの、確かなものを、堅く保ち、心を高く上げ、それらを追い求めて生きよう、苦難と言える社会状況に生かされているけれど、私たちは今、ここにあって既に神の愛に包まれており、守られており、更に目指すべき「完全」=救いの完成、神の愛の支配にすっぽり包まれる日がやがて来るという、約束に生かされています。私たちはその「神の約束に生きる民」であり、世にあっても主が共にいていつも励ましてくださる。守っていてくださる。神の愛のうちに信仰と希望を高く掲げて、神の確かな約束を見据えつつ、この新しい年度を歩み始めたい、そのことを願っています。
最後まで残るものは、信仰、希望、愛。
ここで「最後まで残るもの」の「最後」とは、聖書の語る救いの完成の時である、復活され、天に昇られたイエス・キリストが再び来られる時を指します。
「世の終わり」というと、何やら物騒で恐ろしく思えてしまいます。実は、そこに至るまでの時は「苦難がある」ということは聖書ははっきりと語っていることでもあるのです。聖書が語る「終わりの時」とは、この罪の世が無くなり、すべてが新しくされて、完全な救いがあらわされる時なのです。
今、私たちの生きているこの「時」、世は、完成に至っていません。未だ神に背く世であり、絶えず人間の間で諍いがあり、暴力があり、さまざまな悲しみや苦脳があり、コロナのような疫病にも脅かされ続けているような世ですけれども、イエス・キリスト、神の救いは既に来られ、世には身を寄せるべき十字架が立てられています。
神の救いはイエス・キリストを通して既に現されました。イエス・キリストこそ「道であり、真理であり、命」であり、人は世にあって、逃れ、立つことの出来る場所である主の十字架が備えられています。救いは現された、しかし未だ、救いは完成していません。「既に来られた」と「しかし未だ完成していない」、私たちはそのような「狭間」の時を生かされているのです。
十字架の御許に身を寄せ、世を生きる私たち。世にある限り、未だ苦難があり、悲しみ、病気などありますけれど、私たちは神の恵みによって救われました。また救いに入れられようとしています。恵みを受けた者として、私たちは信仰・希望・愛を掲げて生きること、どんな時にも落胆せず、縮こまらず、上を向いて生きること、このことを、イエス・キリストに救われた者たちは、「敢えて」堅く、そこに立つ意志を持つべきです。
「信仰」とは改めて何でしょうか。
先週は、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」という、復活されたイエス様が、「この手をわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ったトマスに対して、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われたことを中心にお話をさせていただき、その中で、信仰とは、「鰯の頭も信心からというように、信じます、信じていますから神様宜しくお願いします」のように闇雲に手を合わせることではない、そのようにお話をさせていただきました。そして、信仰とはその前提に、圧倒的な神の恵みによって神の側から「与えられる」ものなのだと、ヨハネによる福音書の中の「神がお遣わしになった者を信じること、それは神の業である」(6:29)というイエス様の言葉を引用しながらお話をさせていただいたと思います。
トマスに対しては、イエス様はご自分の傷跡に手を入れなさいと言われ、自らの傷ついた体をトマスの前に差し出されました。ご自身の姿をありのままさらけ出され、「あなたの望むとおり、手を入れてごらん」と言われた、その圧倒的な愛にトマスは「わたしの主よ」と絞り出すように叫ぶしかありませんでした。私たちには神の圧倒的な愛を恵みとして受けて、涙してひれ伏すしかない瞬間がおそらくあります。きっと皆さんそれぞれに。個別のあり方で。
神の恵みが先にあり、私たちは恵みを受けた者として新しく生きる、それがキリスト教「信仰」のはじまりにあります。
旧約聖書に於いて「信仰」を表す言葉のひとつに、エメスという言葉がありますが、エメスには「真実」という意味が込められています。「アーメン」=そのとおりです、これはエメスに由来します。真実なる神がまず、厳然とおられる、神の完全な救いの約束がある、私たちの前に。目には見えないけれど。そのことを絶えず見据える、また自分の基とすること、それが聖書の語る「信仰」の原点なのです。そして、神はイエス・キリストを通して、私たちにご自身を現されました。イエス・キリスト、その十字架と復活の出来事、そのことを見据え、その出来事から与えられるまことの救いの約束を、私たちはしっかりと自分の目の前に置いて生きるのです。
神の愛、恵みは、すべての人に絶えず注がれています。ただ、人間は生まれながら罪によって、神に背を向けて暗闇を生きており、神の愛に気づかないだけなのです。
神は神に背く人間を忍耐をもって、人が神の愛に気づき、神に向き直り、神と向き合い、真実なる主から目を背けず、神の真実と向き合い、神共に新しく生きる、それを始めることを愛のまなざしを注ぎつつ待っておられます。神の愛は「忍耐強い」のです。
キリスト教信仰は、人間の思いが中心ではなく、どこまでも「神中心」であり、「私は信仰によって生きて行きます」という言葉を言い換えれば、「私は真実な、揺るぎないただおひとりの神の御前にまっすぐに立ち、神を絶えず見据え、御言葉に聞き、神共に生きて行きる者となります」という言葉になりましょう。
トマスがイエス様の愛に触れて「わたしの主、わたしの神よ」と、信仰の告白を心の底から沸きあがる叫びのように口にしたように、ただ十字架と復活のイエス様の愛の前に、頑なな自分を脱ぎ捨て、またさまざまな自己中心的な思いを脱ぎ捨てて、主の愛の前に立つのです。
またヘブライ人への手紙11:1に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」という御言葉があり、旧約聖書の義人たちの「信仰」が語られていますが、その中で、今日の旧約朗読の創世記12章の出来事について語られています。その内容はこうです。「信仰によって、アブラハムは自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召しだされると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」。これは、アブラハムは「神のエメス真実、神の約束の言葉を目の前にしっかりと置いて、」いる=すなわち信仰の故に、神の言葉に従って、行き先も知らずに出発した、ということになりましょう。信仰とは、神の真実、神の約束を確かなものとして、その御前に立って、神の言葉=聖書に聞いて、御言葉に従って生きることです。
ですから、信仰とは闇雲な思い込みのようなものとは全く違うものです。
そして「希望」ということ、これは将来起こるべき出来事に対して「希望を抱く」のように私たちは日常に用います。将来に対する良き訪れを、待つこと、期待すること、欲すること。それもここでパウロが語る希望のひとつでありましょう。この世の現実に対して、絶望しないこと、心を縮こまらせないこと。心を高く上げて生きること。
主なる神は万物の造り主であられ、世にある良きもののすべてをご自身の手に持っておられます。私たちはその神に希望を置きます。希望を掲げる、それを目の前に、まだ手にとってはいないけれど、必ず神がよきものを与えてくださる、その神を見据えること。「希望」とは、「信仰」と限りなく近い言葉として聖書で語られています。
どちらも、神が私たちの前におられ、私たちは神の御前に立ち、不完全な世にあって神としっかりと向き合いながら生きることを意味する言葉です。
「愛」はギリシア語でアガペー。
聖書にはもうひとつ、フィリア=友人同士の愛という意味の「愛」が使われています。さらに恋愛感情としての愛・エロースという言葉がギリシア語にありますが、この言葉は聖書には使われていません。
コリント13章は、愛の賛歌とも呼ばれ、この御言葉を大切にしておられる方も多いと思われる御言葉ですが、ここで語られる「愛」とは、神の愛、アガペーの愛です。
アガペー=神の愛、これは人間に属するものではありません。信仰と希望は、神が主体でありながらも、人間の側の働きかけが必要とされるもので、人間の側のものでもありますが、アガペーとは神に完全に属しており、人間が生まれながらに持っている愛ではありません。生まれたままの人間が持てる愛は、エロースとフィリアです。
「愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」
私はこの御言葉に信仰を持ち始めた当初、憧れて、「愛って素晴らしい」と思い、暗誦するほどだったのですが、ある時、自分の持っている愛というものは、この御言葉と正反対だったということに気づき、愕然といたしました。
でもそれは今思えば当たり前のことだったと思います。ここで語られるアガペーは人間が生まれ持っているものではなく、生まれたままの人間=私が持っていた愛というのは、恐らく自己中心的な、「エロースの愛」でしかなかったからです。
「愛は忍耐強い」に始まる、この愛の賛歌は、誰しも「私」を主語としたならば、自分の愛がどれほど神の愛から離れているか、そのことに気づくことでしょう。そして、主語を「キリスト」にしたならば、イエス・キリストの十字架を通して現された神の愛がどのようなものであるか、理解出来ることでしょう。神がどれほどの忍耐をもって、御自ら、人間に対して「信じ、望み」、私たちが神の愛に気づき、神に立ち帰ることを待っておられるかを。
神の愛、アガペーとは、罪人を赦し、自らを差し出し、私たちの人格を重んじ、静かに忍耐して、人間が神の愛に気づくことを希望を持って待ち望み、私たちが神共にある命に入れられるために、命を捨てる、そのような愛です。
神は私たち人間が、自らの罪に気づき、悔い改めて、神、十字架と復活のイエス・キリストの御前に立って、世を神ともに、信仰と希望によって歩む者となることを忍耐して待ってくださり、「完全なものが来たとき」、すなわち終わりの時、イエス・キリストが再び天から降りて来られる時、人間を滅びではなく、神共にある永遠の救い、命に入れるために、自らを十字架の上でささげてくださった、そのような愛なのです。
なぜ、十字架の犠牲が必要だったのか。それは、神は聖なるお方であられ、聖なる神は、罪ある人間と共にあることが出来ないから。神共にある命に人間が入れられるためには、罪は滅ぼし尽くされなければなりません―これは旧約聖書から連綿と続く神の側の論理です。旧約の時代は、犠牲の動物がその役割を担っておりましたが、イエス・キリスト、神が、人となられ、私たちと同じ「体」を持つ者となられ、その「体」を自ら十字架の上ですべての人の犠牲として血を流し死なれました。そして、人は、主の十字架の御前で、自らの罪を告白し、悔い改め、イエス・キリストを信じる者―十字架のイエス・キリストを絶えずしっかりと見つめ生きる者となる―そのことだけで、罪赦され、聖なる者とされ、聖なる神と共に、永遠にあるものとなることが出来る道が、拓かれたのです。
今は、私たちはこの不完全な、「既に十字架は立てられた」「しかし未だ救いは完成していない」世を、信仰と希望を持って生きる民です。イエス・キリストの御前に立ち、十字架と復活のイエス・キリストのもとにある真実、信仰と希望によるしか、私たちはこの苦難のある世を神ともにある平安と喜びをもって生きることは出来ません。私たちはこの不完全な苦しみの多い世を、十字架の陰に身を寄せながら、信仰と希望によって、今は、救いの完成の時を、「鏡におぼろに映ったものを見つめ」るように見つめています。はっきりと見えません。
しかし、「完全なもの」がやがてやって来られます。
その時、私たちは神と、イエス・キリストと「顔と顔を合わせてみることになる」のです。何という喜びの時なのでしょうか。これは、信仰と希望に生きる世にあるキリスト者への、聖書の約束です。
世には苦難があります。しかし、「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る」のです。このいつまでも残り、また永遠に繋がれる、信仰による命のうちを希望を高く掲げてこの年も、またこれからも歩んで参りましょう。
「最も大いなるものは愛」。神の愛、アガペーは今も、またとこしえに、神のもとにあり、私たちすべてに与えられているのです。そして、信仰によって与えられた聖霊によって、私たちは、きっと少しずつ、アガペーを自分の愛とすることが出来る日が来ることでしょう。
アガペー、神の愛、その愛に生かされている者として、その愛を受けた者として、私たちも神を愛し、互いに愛し合い、信仰と希望と共に、世を共に歩んで参りましょう。