前奏
招詞 詩編 68編20~21節
賛美 155(124) 山べにむかいて
詩編交読 65編6~14節(72頁)
賛美 458(124) 信仰こそ旅路を
祈祷
聖書 申命記12章23~27節 (旧301)
ローマの信徒への手紙5章1~11節 (新279)
説教 「 信仰による希望 」
祈祷
賛美 535(134) 正義の主イェスに
信仰告白 日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告
頌栄 25 父・子・聖霊に
祝祷
後奏
申命記12:23~27
ローマの信徒への手紙5:1~11
先週の木曜日は主の昇天日。イエス・キリストは、十字架に架けられ死なれましたが、復活され、40日に亘って、弟子たちにその姿を現され教えられ、弟子たちの見ている中、オリーブ山から天に昇られました。その時、天使が現れ弟子たちに告げました。「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様でまたおいでになる」と。
主は再び来られる―キリストの再臨と言われるその時のことを、聖書は「終わりの時」と重ねて語ります。キリストの再臨と共に、キリストに結ばれて死んだ人たちが復活し、世に生き残っている者たちは、空中で主と出会うために天に引き上げられると、一テサロニケ4章でパウロがそのように語る出来事、それが今日の御言葉ロマ書5:2で語られる、信じる者が「信仰によって導きいれられ、神の栄光にあずかる」者とされる出来事であり、この言葉をパウロは、聖書が語る「終末」の出来事を見据えて語っているのでです。キリスト教信仰は絶えず「終わりの時」「主の再び来られる時」を見据えているのです。
イエス様が天に上げられるのを目の当たりにした弟子たちは山を降り、世の現実を生きる生活が始まります。その日々を、弟子たちは熱心にひたすら祈ることから始めていました。そのような中、天におられる父なる神と、キリスト・イエスのもとより聖霊が降されます。次週はペンテコステ。聖霊降臨を憶える礼拝です。私たちもこの週、弟子たちがそうであったようにより祈りを深め、聖霊を豊かにいただくことを願い求めたいと思います。
さて今、聖書を読む会では「コヘレトの言葉」を読んでいます。コヘレトの言葉は聖書の中でその語られている内容と思想が特殊な書物と言えるのですが、私たちの今、生きる世の現実、私たちの心の渇きをそのまま語っているように思えて、私たちの心を引きつけてやまない書物でもあります。
コヘレトは、私たちの世を生きる現実の苦しみ語り、生きる中で私たちが感じてしまいがちな「生きる空しさ」、人間の持って生まれた心をよく知っており、それを語りつつも、逆説のように共同体に於いて、よく食べ、よく飲み、分かち合い、互いに愛し合いつつ、喜び生きることを語る、ひとことで言えば「生命讃歌」であり、何があっても「生きよ」「生き抜け!」と呼びかけ続けている書であることを覚えます。そこには信仰の故に死ぬ=殉教ということは微塵も出て参りません。
それと共に「終末」ということを語りません。コヘレトの言葉は紀元前2世紀前後に書かれたものと考えられ、私自身は紀元前160年頃に書かれたものとして、聖書を読む会で語らせていただいておりますが、その同時代に旧約聖書の「ダニエル書」が書かれており、ダニエル書は「終末」を語り、その時代、ユダヤ教では「終末待望」が盛んに語られる時代となっていました。「終末待望」は、新約聖書の時代にも受け継がれ色濃くある・・・と言うよりも、それは切迫して見据えるべき事柄として絶えずあり、イエス様ご自身、「終わりの時」をさまざまな形で語っておられますし、今日お読みしている「ローマの信徒への手紙」を書いたパウロも、またその他の書簡もすべて、「終わりの時」を見据えて書かれています。
「終末を待ち望む信仰」とは、世の迫害に遭い、殉教し、また迫害によって無残なまでの死に方をする人が多くある時代、世を生きることの希望が失われる中、世の命を超えた、命の希望があることを教える、「神の啓示」であったと私は理解をしていますが、世を生きる苦しみの中で世の命を超えた命を見据える時、人は厭世的になり、「今」を生きることを諦めてぞんざいに生き兼ねません。「コヘレトの言葉」が終末を語らず、「生きよ」と言い続けているのは、当時の迫害の世を生きる人々が、生きることに希望を失い、厭世的になっていることへの警告であろう、そのように考えます。
そして終末待望と、相反するように思える「コヘレトの言葉」が聖書正典とされていることは、主なる神が人に「終末を見据える」ことと同時に、「世を生きよ」と言っておられる神のご意志の表れでありましょう。
宗教改革者のマルチン・ルターは「たとえ明日世界が滅びることを知ったとしても、 私は今日りんごの木を植える」と語りました。
信仰によって、私たちは「終わりの時」、「神の栄光にあずかる希望」「復活の希望」に生きています。世を生きるこの体は誰しも年齢と共に衰え、誰をも世の「死」を迎える訳ですが、世の死を超えた神の栄光にあずかる、主の再び来られる時、復活させられる、その希望が信仰者の誇りとして与えられているとパウロは語るのです。さらに「そればかりでなく」、「苦難をも誇りとします」と。
死を超えた栄光と共に、イエス・キリストを信じる者には、世にあって苦難を与えられる、それは信仰者にとって、終わりの時の栄光と共に与えられる「誇り」である、そのようにパウロはここで語るのです。
イエス様は、ヨハネによる福音書16章に於いて「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言われました。
「信仰を持ったら、世に於いて何の災いも無くなります」そのようなことを聖書は語っておりません。信仰を持っても、世にある限り、世のすべての人と同様に、さまざまな世にある問題を通りつつ、私たちは生きなければなりません。現在のコロナの問題、戦争と戦争の噂、自然災害・・・信仰を持たないすべての人の上に起こることは、信仰者の上にも襲って来ます。
「しかし、キリストを信じる者たちは信仰によって義とされ、主イエス・キリストによって神との間に平和を得させていただいています」―とこれはお読みした5:1のパウロの言葉をほんの少し言い方を換えて語らせていただいた、「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします」ということの理由として、パウロが語っている言葉なのですが、とても難しい言葉ですね。分かり難いです。「ローマの信徒への手紙」は難解です。
「信仰によって義とされる」これは、パウロが語る信仰の奥義であり、私たちプロテスタント教会は、このパウロの言葉を信仰の礎としています。
神は、そのひとり子であられるイエス・キリストを世に送られました。
このお方は、すべての罪人の罪の赦しのために「不信心な者のために死んで」くださいました。イエス様の十字架の時、弟子たちは逃げ去りました。彼らはまだ弱かったのです。弟子たちだけでなく、それまでイエス様の後を追って来ていた多くの人々は、イエス様が自分たちの望むこの世の王ではないことを知り、また大きな声のあるところに扇動されて、イエス様を罵り、「十字架につけろ」と叫び、イエス様を殺すことに加担しました。
しかし、イエス様は十字架の上で祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と。イエス様は、すべての人が罪人であったとき、すべての罪人のために死んでくださいました。ご自身を死に向かわせ苦しめた、すべての罪人のためにまでも。
それは、神の愛。神はご自身の似姿として人間を造られました。しかしながら、初めの人アダムの罪によって、神に背き罪の中に生きるようになった人間を限りなく憐れまれ、罪によって「滅び」に定められてしまった人間を何としても、ご自身のもとに取り戻し「神の栄光」を受ける者とするために、旧約の時代を通して働かれました。
主なる神はイスラエルを通して律法を与え、律法による罪の赦しの方法として、人間の罪を贖うための代価として、動物の犠牲、動物の血を流すことを定められました。
旧約の掟は、何とも残酷なことに思えます。「目には目を、歯には歯を、命には命を」、それが、神の側の、聖書の、世に与えられている原則なのです。人は罪によって、死=滅びに定められました。神に背いたならば、行きつく先は「滅び」であるのです。
死の滅びに定められた人間を救うためには、「命には命」=「血は命である」と語られる命の犠牲、血を流すことが神との関係に於いて必要だったのです。そのために、旧約の時代、数知れない動物の血が流され続けたのです。
しかし、それでも尚、人は神のもとに立ち帰り、神の栄光を受ける者となることは出来ませんでした。イスラエルの民のささげる動物犠牲は祭のように形だけのものとなって行き、神が求めるまことの悔い改めからは、遥かに遠いものとなってしまったのです。ただ、形だけの儀式のために、流され続ける動物の血。動物の命。主は預言者アモスを通して語っておられます。「わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない」(アモス5:21)と。
そして、主なる神は遂にご自身の御子を世に、人の姿で、「命」である世を生きる私たちと同じ血を持ち、痛みも病も持ち得る体を持つひとりの人として送られて、御子は、父なる神の全人類に対する救いのご計画、御心を引き受けられ、十字架という世に於ける苦しみと屈辱にまみれた死を、すべての罪人が滅びではなく、「神の栄光」にあずかる者となるために成し遂げられたのです。
動物犠牲は、想像するだけでむごたらしいものです。しかし、そのむごい、目を背けたくなるような動物の犠牲に終止符を打たれたのは、他ならない神ご自身、御子であられるイエス様の体、その体内を流れる「命である血」による贖いでした。イエス様は、その血を流され、むごい悲惨な苦しみの死を遂げられました。
しかし、神の御子は、死を打ち破り、復活されたのです。御子は十字架で死なれ、陰府に下られ、陰府=死の国を打ち滅ぼし、復活をされました。御子の死を通して、滅び=死は命へと変えられる道が拓かれました。
すべてを通してそのことを成し遂げられたのは、主なる神。主なる神は、御子イエス・キリストを通して、「主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば」(ロマ4:24)、罪赦され、「義と認められ」る、死から命に変えられる、その道を拓かれました。
神の御子の流された血は、すべての動物の流す血に遥かにまさるものであり、すべての人の罪を贖ういけにえと成り得たからです。「目には目を、歯には歯を、命には命を」、この掟にある、最も惨いあり様をその身に帯びられたのは、他ならぬ、律法を定められた神ご自身、御子であられたのです。
「義」とは、人が罪を赦され、神と人が和解をした状態を表す言葉です。人は、「信仰によって義とされる」とは、そのようにイエス・キリストを通して成し遂げられた神の御業、御子の十字架と復活を信じる信仰、主の十字架の御前に、心からのまことの悔い改めをしたならば、義とされ、神と和解させられた者とさせていただき、神との間に平和を得る、パウロはそのように語っています。
私たちの罪、神への背きは、イエス・キリストを信じる信仰によって―罪を悔い改め、イエス・キリストの十字架と復活の救いを絶えず目の前に置き、しっかりとキリストと向き合いつつ生きる時―私たちは、神との間に平和を得、世にありながら、新しい生き方へと促されます。
それが「苦難をも誇りとする」という生きざまである、パウロはそのことをここで語っているのです。
そして言うのです。「わたしたちは知っているのです。苦難を忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」
しかしながら、元来私たちは苦難を喜ぶことなど出来ないのではないでしょうか。
宗教改革者のマルチン・ルターは、生まれたままの人間にとって「苦難は焦燥を生み出し、焦燥は強情を生み出し、強情は絶望を生み出す。絶望はすべてを駄目にしてしまうであろう」そのように申しました。私たちの心には、ルターが語ったように、苦難に出あったならば、焦り苛立ち、神に怒り、強情になり、「絶望だ」と叫んでしまう、そんなことはありませんでしょうか。私たちは神に対してではなく、この世との平和を愛し、世の苦難に対して不平、不満と憎悪を沸き立たせるものです。
使徒言行録14:22に「わたしたちが神の国に入るには多くの苦しみを経なければならない」と言うパウロの言葉がありますが、すべての人に与えられる苦難は、信仰を持っても与えられるのです。私たちの人生にとって、過酷で忌まわしく思える苦難ではありますが、信仰によって「神との間に平和を得て」いる私たちには、引き起こされている苦難を、祈りのうちに、そこに現されようとしている御心を求め、正しく見、理解し、生きる。主なる神から、そのことへ促されているのです。
また詩編119編71節、聖書協会共同訳には「苦しみに遭ったことは私には良いことでした。あなたの掟を学ぶためでした」とあります。苦難とは、実は大いなる宝に満ちており、その中にあってこそ、イエス・キリストのまことの愛を見出し得るものなのではないでしょうか。イエス様は苦しみを受けられました。私たちの受ける苦難の傍らには主が居てくださいます。
ドイツの神学者ボンヘッファーは、苦難を「真珠を蔵する貝のようなもの。はじめに胴を、それから銀を、最後には金をと、次から次に見つけてゆき、だんだん深く降りてゆく竪穴のようなもの」と申しました。それと同様に「苦難はまず忍耐を生み出し、それから練達を、それから希望を生み出す」と。
苦難はまず忍耐を生み出します。忍耐は「そのもとに留まる。重荷を投げ捨てないでそれを負う」そのような意味があります。ロマ書15章に「忍耐と慰めの源である神」とパウロの言葉がありますが、苦難は神のご性質である忍耐を知る者とまずさせていただくのです。さらに練達とは、世の生活に於ける練達ではなく、神に対する練達です。信仰と平和によって確証される神に対する練達であり、神により近づくものとさせていただけます。
それゆえに、練達は希望を生むのです。神共にある命の希望。世にあってさまざまな不安や困難があるとしても、信仰によって、神との間に平和を得ているならば、「神の栄光にあずかる」ことは約束されているからです。何が起ころうと、信仰の勝利が、栄光が確証されているのです。死を超えて、滅びでは無く、命に至る希望が確証されているのです。
そのために、キリスト者は世にあって懸命に生きなければなりません。世を生きることは空しいなどと言わずに、苦難から忍耐を、忍耐から練達を、練達から希望をもって神を求め、日々為すべきことを為し、日々を信仰と希望、そして神を愛し、自分を愛し、隣人を自分のように愛しながら生き抜くのです。
その先に、神の栄光にあずかる恵みが確かに備えられているのです。
今を生きましょう。困難な時代ですが、忍耐と神にある練達、希望を高く掲げて、救いの確信をもって生き抜きましょう。
次週はペンテコステ。神の力を、神の霊を受けることを強く求め、それを受けてさらに前に向かって進んで参りましょう。