「聖霊の賜物」(2021年5月23日礼拝式文、説教)

前奏    「 来ませ聖霊、主なる神」 曲:J.S.バッハ
招詞     ヨハネ 16章13a節
賛美     207 ほめよ主を(134)
詩編交読 66編1~4節(73頁)
賛美    346 来たれ聖霊よ
祈祷
聖書     エレミヤ書 31章33~34節 (旧1237)
        コリントの信徒への手紙一 12章1~11節 (新315)   
説教     「 聖霊の賜物 」
祈祷
賛美      342 神の霊よ、今くだり(14)
信仰告白  日本基督教団信仰告白/使徒信条
聖餐      81 主の食卓を囲み     (前1、後2,3)
奉献
主の祈り
報告  
頌栄      29 天のみ民も
祝祷
後奏

エレミヤ書31:33~34
コリントの信徒への手紙一1:1~11

 今日はペンテコステ、聖霊降臨日の礼拝―皆様と共に喜び祝えますことを感謝いたします。
 イエス様が世に来られたクリスマス、そのご生涯の歩み、十字架、復活、昇天、そして今日のペンテコステに至るキリストの出来事を辿る、「主の半年」を過ごして参りました。そして教会暦に於いて、ペンテコステから始まる半年を「教会の半年」と読んでいます。それは、ペンテコステが「教会の誕生日」と言われているからです。
 今日は、イエス様のご復活、イースターから数えて50日目。ペンテコステは50という意味のギリシア語です。また、この日はユダヤ教に於いては、五旬節、麦の収穫の祭であり、シナイ山でモーセが十戒を与えられたことを記念する日とも重なっていることは、象徴的です。
旧約の時代、主なる神はモーセを通して律法を与えられました。律法は言葉が板に書きつけられた掟であり、主なる神と選ばれた民イスラエルとの間の契約です。それはイスラエルの民にとって何よりも大切なものでしたが、人は律法を行うことによって神と和解し、神との正しい関係を取り戻すことは出来ませんでした。イエス様の時代のユダヤ人ファリサイ派の人々は、律法を重んじ、それを「守る」ことを誇りとし、「守る」ことが誇りとされた律法は形だけのものとなり、守れない人を見つけては裁くようになり、神の愛から離れました。そして、遂に神が人となられ世に来られても、それを認めず、イエス様を「律法に背いている」と裁き、律法の主である神の御子を十字架に架け、殺したのです。
イエス様は人々の罪によって十字架に架けられ死なれ、3日目に復活され、40日に亘って弟子たちに復活の姿を現され、天に昇られました。それから10日後、天におられる父なる神と、神の右の座にお着きになられたイエス・キリストのもとから、神の霊、キリストの霊であられる聖霊が、弟子たちに降されたのです。
それは、本日の旧約朗読、エレミヤ書31章で語られる「新しい契約」、「律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」と預言された出来事の成就でした。
イエス様はマタイによる福音書5章で言われました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と。律法は、神の御子の世に来られたこと、十字架の死と復活、昇天、聖霊降臨を通して完成されました。
ヨハネによる福音書をほぼくまなく読んで来ましたが、ヨハネ福音書に於いて、「イエス様の栄光」とは、十字架の出来事として語られていました。イエス様は十字架で栄光を受けられ、死なれ、復活され、天に昇られ、すべてを成し遂げられて、その時、神の霊、イエス様の霊=聖霊が、弟子たちに降されたのです。
ヨハネ16章には次のようなイエス様の言葉があります。「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである」
この言葉はイエス様が十字架に向かわれる直前の、最後の晩餐の席で語られた言葉で、「弁護者」とは聖霊なる神を指しています。「弁護者」の原語の意味は、「傍らに居る者」。イエス様が十字架で死なれ、弟子たちのもとを去らなければ、「傍らに居る者」なる聖霊は来られない、そのことを語られた言葉です。
イエス様は体を持つおひとりの神。イエス様は死なれましたが体をもって復活され、天に上げられました。イエス様は体を持つ「おひとり」のお方です。
私は子どもの頃、幼稚園で「イエス様はいつもあなたと一緒にいてくださいます」ということを教えられました。そのことはとても嬉しい励ましの言葉でしたが、それでもいつも不思議でした。「イエス様はおひとりなのに、どうしてこんなたくさんの人が居る中で、私と一緒に居てくださるんだろう?皆とも一緒に居るって聞いたけれど、イエス様は一人なのに」と、どうしても腑に落ちず、本当に信じることは出来ませんでした。
しかし、聖霊なる神がどのようなお方であるかを知った時、その疑問はすっきりと晴れて行きました。
主なる神は父、子、聖霊なる三位一体としてのおひとりの神。父なる神は天におられ、イエス様はひととき地上に降りて来られましたが、十字架の栄光、復活を経て、再び天に昇られ、天の父なる神の右の座=支配の座におつきになり、天の御座より、ご自身の霊であられる聖霊を世に、世にある私たちに送っておられます―神は霊として、信じる者ひとりひとりに、また私たちの只中に居られる。霊であられるから、そのあり方は私たちには計り知れず、体は恐らく無い。聖霊は燃えさかる炎や、風に譬えられ、またイエス様が洗礼を受けられた時、聖霊が鳩のように降ったと記されています。私たち人間には計り知れないその有り様で、私たちひとりひとりの内側に住んでくださる。パウロはひとりひとりの内側に、聖霊=イエス様の霊が宿ってくださっているこのことを、「私たちの体は神の神殿」と呼んでいます。(一コリント3:16)
聖霊は神の、イエス様の霊であられ、聖霊は天の父とイエス・キリストのもとから送られる霊。「イエス様がいつも共に居て下さる」というのは、聖霊なる神として、霊として、イエス様が見えない形で私たちと共にいてくださるということだったのです。
そして、「文字=律法」ではなく、霊として、私たちひとりひとりに宿られ、私たちの心に神の愛を記してくださり、そのようにして人は「神の民」(エレミヤ31:33)となり、「神を(まことに)知る」者とされる(エレミヤ31:34)のです。

***

 それは、あまりにも唐突な圧倒的な神の出来事でした。この出来事は使徒言行録2章に記されていますが、聖書の中でも最も不思議な出来事のひとつと言えましょう。
 イエス様が天に昇られた出来事を見届けた弟子たちは、エルサレムに戻り、ひとつになって熱心に祈っていました。イエス様は天に昇られる時、弟子たちに告げられていたからです。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いていた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼を授けられるからである」(ルカ1:4,5)
 その時、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、家中に響き渡りました。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったと言うのです。すると、祈っていた弟子たち―1章によれば120人ほど―が、「聖霊に満たされ、〝霊”が語らせるままにほかの国々の言葉を話しだした」と言うのです。何と不思議なことでしょうか。
 私は子どもの頃、英語が話せるようになりたいなぁと思っていまして、ある時、ぺらぺらと適当に口を動かして、「神様がこれを英語にしてくれたら良いなぁ。突然英語が話せるようになると良いなぁ」と変なことを思ったことを思い出します。そして、ペンテコステの出来事というのは、子どもの頃のその私の願望が実現したような出来事として起こったようなのです。
 この新しい言葉を、パウロは「異言」と言い、本日お読みしました「聖霊の賜物」の中に語られているひとつです。10節「ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています」。
 またパウロは異言について、一コリント14:18で「わたしはあなたがたの誰よりも多くの異言を語れることを感謝しています」と語っており、パウロは異言という聖霊の賜物を受けて祈り、宣教の業に就いていたことが分かります。異言には、使徒言行録2章のペンテコステの出来事がそうであったように、外国語が語られる場合があり、また普通に聞いても何を言っているのか分からない「新しい言葉」もあるようで、それらの新しい言葉を聞いて解釈する、「異言を解釈する」聖霊の賜物があることも、パウロはここで語っています。
さらに、パウロがここで語っている聖霊の賜物を挙げてみますと、「知恵の言葉」とは、ある状況にある時に相応しい神からの知恵による言葉が与えられるということでありましょう。イエス様はユダヤ人ファリサイ派の人たちから「ローマ皇帝に税金を納めるのは律法に適っているかどうか」と問われ、これは適っていると答えても、適っていないと答えても、裁かれることになる意地の悪い質問でしたが、イエス様は「銀貨を見せなさい」と言われ、その銀貨にはローマ皇帝の肖像と銘が書かれていることを、ユダヤ人に認めさせ、ローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていることを、敢えてユダヤ人の口から言わせるように導かれ、返答によって裁かれることを免れました。このような言葉が知恵の言葉でありましょう。
また「知識の言葉」とは、例えばイエス様が徴税人ザアカイに出会った時、ザアカイを知らない筈なのに、ザアカイの名前をイエス様は知っておられ、「ザアカイ、降りてきなさい」と言われた、そのようなまだ見ぬ知識を知る力ということなのでしょう。
 また「信仰」も聖霊の賜物だとパウロは語ります。またイエス様は、ヨハネ福音書6:29で「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と語られています。
 さらに、「病気を癒す力」「奇跡を行う力」「預言―神の言葉を受けて語る力」、また「霊を見分ける力」、それらが聖霊の賜物である、パウロは語ります。そのような奇跡と思えることが信仰の世界には起こり得るとパウロは認識し、語っているのです。

 コリントの教会は、それらの聖霊の賜物を受けた人々が多く、それら各々に与えられた賜物によって教会形成がなされていました。パウロは7節で「一人一人に、〝霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです」と語っています。

 21世紀の科学技術の発達した現代、パウロがここで語っている聖霊の賜物を古代の遺物、絵空事、おかしなことと思ってしまいそうになります。しかし私自身は、そのような理解は、聖書を読む態度として相応しくないと思っています。何故なら、神は人間を遥かに超えたお方であられ、科学も全能の神の創造の御業の中の一部に過ぎないと考えているからです。人間の持ち得る知識としての科学の中に、神を閉じ込めることは出来ません。神の御業は人間の知識を遥かに超えている、そのことに対し、まず私たちは謙遜であらねばならないと思います。
 しかし、霊的な事柄というのは、非常にデリケートで、聖霊は神、そのお方であられ、同一線上に語ることは出来ないことですが、「悪霊」ということも聖書は語りますので、悪しき霊の働きが世にあることは聖書が語る確かなことです。
 パウロが10節で「霊を見分ける力」ということを語っているのは、現代に於いても、さまざまな宗教が「奇跡」「病気を癒す」ということを喧伝して人を集めることが多いのですが、悪しき霊も、不思議な業を起こし得るということなのでしょう。
 イエス様はマタイによる福音書7章で「偽預言者に警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける」と言われました。
 不思議な現象そのものによっては、それが聖霊によるのか、悪しき霊=偽預言者によるものなのか、見分けがつかず、不思議なことがらを求めがちの人にとっては、不思議なことが起こったら「これは神の業だ」と思って、何でも受け入れてしまう、そのようなことが起こり得ましょう。しかし、それらの出来事が起こった後、その後、どのような実を結ぶのか、不思議な出来事、それだけに目を奪われて翻弄されて、心のバランスを崩してしまう、そんなことも有り得ましょう。そのように、結果、人を弱く混乱させるようなことであれば、それはイエス様の、聖霊の働きではありません。
 霊の賜物は聖書が語っていることで、それをいただくことを求めるべきだと私は思っていますが、奇跡のようなことばかりを求めるならば、そこには悪しき霊に付け入る隙を与えてしまいましょう。賜物を求めるならば、まず「信仰」を、そして「霊を見分ける力」を強く求めなければならない、そのことを思います。

 聖霊なる神は、「イエスは主である」と宣言する、また人に「イエスは主である」と宣言をさせる霊であられるのです。聖霊を受けたならば、その信仰は「イエス・キリスト」に集中して行きます。ヨハネ福音書14章でイエス様の言われた「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」という、イエスこそがキリスト、救いの道であるということ、他に救いは無い、ということが、「心に記され」ます。
 また聖霊、そのお方が与えられること、そのことそのものが、神の賜物に違いありません。聖霊は私たちを強め、罪ある私たちの内側に住まわれ、また内側から変革させる神の霊であられ、信じる者をイエス・キリストの十字架の救いと愛に目覚めさせ、イエス・キリストを証しをするものに変えて行きます。

 この日、既にイエス様は目に見える形で弟子たちの間にはおられなくなっておられました。
 しかしペンテコステの出来事で聖霊、イエス・キリストの霊をその上にを受けた弟子たちは、その日を境に力強く、イエス・キリストを証しする人となり、イエス・キリストを証しする群となり、イエス・キリストの教会が誕生して行きます。その意味で、ペンテコステは「教会の誕生日」なのです。キリスト教会は、聖霊の力強い働きによって始まりました。
 イエス・キリストの教会は、多くの困難、迫害に遭いながらも、神の不思議なまでの導きによって、2000年という年月を超えて、世界中に広がり、人々を生かし続けています。
 私たち土気あすみが丘教会、この群も、ペンテコステの出来事に連なるひとつの枝です。
 聖霊を受け、力強くこれからも歩ませていただきましょう。イエス様は、私たちと共におられます。