「復活の体」(2021年5月30日 礼拝式文 説教)

前奏   「 いざ、我ら聖霊に願わん 」   曲:ブクステフーデ
招詞 申命記 11章14節
賛美 351(124)聖なる聖なる
詩編交読   66編5~12節(73頁)
賛美    352 来たれ全能の主
祈祷
聖書     コリントの信徒への手紙一15章35~53節 (新321)  
説教     「 復活の体 」
祈祷
賛美     579(134)主を仰ぎ見れば
信仰告白 日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告  
頌栄     26 グロリア、グロリア、グロリア
祝祷      
後奏

コリントの信徒への手紙一35~53

 私は聖書を読む時、不思議に思えることも含めて「そのまま」解釈する読み方をして、語る傾向が強いと思います。
そのような読み方を「逐語霊感」―聖書の一字一句は神の霊感によって書かれ,聖書の記述に誤りのないことを主張する説―と呼んだりして、それは現代的でないと切り捨てると言うのでしょうか、例えば、イエス様の母マリアが聖霊によってイエス様を身籠ったこと、イエス・キリストが復活されたことなどに対して「理解出来ない」と、不思議なことは「神話」として解釈し、無いことにして、学術的成果を踏まえながら、聖書をすべて理性的に現代的に解釈をする、そのように読む人々や教会があります。とは言え、日本基督教団信仰告白では、「旧新約聖書は神の霊感によってなり」と冒頭にあり、私たちの教会、日本キリスト教団の教会は毎週この言葉を口に出して告白をしているわけなのですが。
 そこまでは行かなくとも、「不思議なこと」に関しては、それは人間の経験がない事柄ですので、どうしても「あやふや」で「言葉だけ」になってしまうきらいもあります。また「聖書そのまま」を掘り下げ過ぎて、恣意的な解釈になって、特に終末論などカルト的になる危険もはらんでおり、「不思議なこと」を説教で語ることはとても難しいと感じています。
 私自身は完全に逐語霊感を取ってはおらず、聖書の学問的成果を踏まえつつ、聖書は多くの人間の手によって書かれたものであることを認め、例えば聖書の不思議な「数」の問題は―神が6日を掛けて世界を創造したこと、ダニエル書に書かれている不思議な数のことなど―「そのまま」ではなく、深淵な、また隠された意味を持って語られているものと理解し、そこには学問的成果を踏まえて理解をすることが相応しいと思ってもおり、人間の知識の理解を超えたこと、分からないことはたくさんあるけれど、しかしそのすべてを通して神が働かれ、旧新約聖書66巻が神の言葉であることを信じています。
 そして人間の心に不思議と思えることについては、神は人間を遥かに超えたお方であるというそのことに人間はひれ伏すべきだと思っており、説教を語る時、「伝統的なキリスト教の教理」から離れず、それと照らし合わせ吟味しつつ、出来るだけ聖書が語ることをそのまま伝えることを心掛けているつもりです。

 先週はペンテコステ。天におられる主なる神、イエス・キリストのもとから神の、復活のキリストの霊であられる聖霊なる神が弟子たちに降されたことを共に祝い、聖霊は私たちの内に働く神の力、イエス・キリストの霊であられる、そのことをお話しいたしました。
 旧約聖書の時代があり、イエス様のご降誕、十字架と復活によってイエス様が栄光を受けられ天に昇られ、世には神の、イエスの霊であられる聖霊が生きて働く時代となりました。ペンテコステを経て、今日の聖日は、神が父子聖霊なる三位一体のお方であることが確立されたことを喜ぶ、三位一体主日です。
イエス・キリストの十字架と復活を通して、罪の赦しの道が、神の救いが現されました。しかし、私たちは世に生きる者たちであり、聖書が語る「救いの完成」には「未だ」至っておりません。私たちは「既にキリストの十字架が立てられ救いが現された」、しかしながら「未だ救いは完成していない」、「既に」と「未だ」の間の時を、救いの完成が来ることに希望を持ちつつ、聖霊によって力を、また知恵を受けながら、世を歩む者たちです。
 救いの完成―パウロはその「時」のことを、今日お読みした15章51節以降で語っています。もう一度お読みします。「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今と異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」
 このパウロの言葉は、パウロの言葉の中でも不思議な、本当に不思議な言葉だと思います。人間が誰も経験したことのない、世の死を超えて、「その日、その時は、誰も知らない」(マルコ13:32)とイエス様が仰った日のことを告げているのですから。

 パウロはどうしてこの真理を知り得たのでしょうか。
 パウロは宣教のために多くの迫害、苦難を受け、その中にある祈りの中で、神の啓示を受けた、おそらくそのようなことだったに違いないと思うのですが、手がかりとして、第二コリント12章で、パウロが「14年前、第三の天にまで引き上げられた」さらに「楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にした」と、語っていることがあります。
 この大胆な言葉をパウロはそれでも控え目に、「私は」と言わず「私の知る一人の人」のこととして語っています。2000年前に生きたパウロに於いても、その出来事を「私の経験」としてあからさまに語ることは、誤解を与えかねないと、配慮した言葉だったのではないでしょうか。
 パウロはイエス様に世に於いて直接の教えを受けた人ではありません。寧ろ、イエス様と弟子たちを迫害する者の筆頭のような人でした。そのような人を、神は用いられること、不思議であり、また神の御目がすべての人に及んでいること、神が罪人を救おうとされていることを覚えずにはおれません。
 パウロはユダヤ人ファリサイ派としてガマリエル門下と言って、律法の最高の教育を受け、尚且つローマの市民権も持つ、非常に恵まれた環境に置かれた人で、ギリシア語とヘブライ語を堪能に話すことが出来、またローマ書などを読みますと、どれほど理知的な人だったことかと思えます。そのパウロが、イエス様の啓示を受け、誰も見聞きしたことのない、「救いの完成」=キリストの再臨の時を語り、また死者の復活という、死を超えた命を語るのです。

 この手紙が書かれたのは、紀元54年頃と言われており、イエス様の十字架の出来事から約20年後です。今から20年前ということを思い起こしますと、2000年、ミレニアムと言われた年あたり。私などには少し前のことに思えるほど、20年前の記憶は鮮明です。復活の証人であった使徒たちの中には迫害によって死んでしまった人もいましたが、ペトロはじめ多くはまだキリストの復活の証人として生きていた時代です。
 その時、「最も大切なこと」として語り伝えられていたことは、15:3「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」でした。キリストの十字架と復活、このことは、この時代だけでなく、現代に至るまで、イエス・キリストの信仰の中心です。
 しかし、主の復活を「荒唐無稽」と信じない人たちが、当時から居たのです。その人たちに対して、パウロは14節で「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」と語り、さらに、今日お読みした35節から、「死者の復活」「復活の体」について語るのです。

 イエス様が復活の姿を現された時のことを、マルコによる福音書16:12は「彼らのうち二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された」と語っています。このことをもっと踏みこんで詳しく書いているのが、ルカによる福音書24章のいわゆる「エマオの途上」の出来事です。
 イエス様の復活のその姿、体は十字架で死なれたその姿、体とは「別の姿」だったと言うのです。その後、弟子たちの真ん中に現れたイエス様を見た弟子たちは「亡霊」と思い、恐れおののきました。イエス様は「亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」と言われ、手と足をお見せになり、さらに弟子たちに「何か食べ物はあるか」と言われ、弟子が焼いた魚を渡すと、それを弟子たちの前で食べられ、体があることを証明されました。
イエス様の復活は、「体の復活」だったのです。その体は手に釘の跡があり、わき腹に刺された傷のある体でした。しかし、この体、世を生きておられた時とは「別の姿」で現れたかと思えば、弟子たちの真ん中に立たれた時、弟子たちはイエス様だということが分かる体でもありました。パウロはこの体、復活の体のことを「霊の体」と15:44で語っています。
 カトリックフランシスコ会訳の注解には「霊の体」ということについて「生命のあるところには『体』がなければならないが、それは必ずしも『肉体』でなくともよい。『肉体』が死んでも、われわれの生命が続くとすれば、『体』は別種のもの」そのように語っています。
 またパウロは、このキリストの復活を、今日お読みした御言葉の少し前の15:20で、「眠りについた人たちの初穂となられました」と語っています。初穂とは、収穫のはじめの神へのささげものであり、その後の収穫も初穂に連なる、そのような意味がありますが、復活の初穂であられるイエス・キリストに連なるものとして、私たち信じる者たちの死者の復活がもたらされることを、パウロは語ります。

「体の復活」、死んだ体が蘇る?私たちにはあまりにも不思議に思えますが、「体」ということを新旧約聖書を通して、またキリスト教信仰は徹底的に拘ります。そしてパウロの語ることはこうです。
 まず、「あなたの蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか」と。この言葉は、死は終わりではないことをまず告げています。
 私たちのこの体、世の命は、はじめの人アダムに連なるものです。創世記2章に於いて、人間の創造が語られおり、神は人間を土の塵から造り、その鼻に命の息を吹きいれられたことが語られていますが、私たちの今生きる体は、「土ででき、地に属する」、「朽ちる」「弱い」体です。イエス・キリストは「復活の初穂」であられますが、今の私たちの体はアダムに、この地に属する土から出来たものであり、「死」に定められている体です。
 しかし、パウロは土で造られたこの体、この世の命の死を、「天に属する」体に「蒔かれる種」に譬えて語るのです。人が死に、最初の人アダムに属する土で造られた、弱いこの「自然の命の体」は、最後のアダム、命を与える霊、イエス・キリストの復活の命に連なる、復活の体―永遠の命―に与るための、蒔かれる種であると言うのです。イエス・キリストの十字架によって罪赦された者たちが世の体に死んだ時、その朽ちた体は、キリストの復活の体に連なる、復活の体の種であると語るのです。
 種としてのキリストにあって死んだ者の体は、「蒔かれるときには卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも力強いものに復活する」と言うのです。
 この体、年齢と共にさまざまな弱さや困難を帯びる弱い体、命の息が神によって引き取られたならば、すぐに塵に帰るようなこの体は、死んで種として蒔かれて、やがて主イエス・キリストの復活に信仰によって与り、輝かしく、力強い、天に属する、霊の体に復活すると言うのです。
「霊の体」、その姿は、輝かしく、力強い体であり、今の私たちの朽ちて、塵に帰るような弱い体ではありません。この体と同じ肉体であると思ってはなりません。イエス様の復活の体は、ある時は「別の姿」で現れ、ある時は、「生きておられた姿」であったと思われます。しかしそれは、釘うたれ、槍で刺された十字架の傷跡のある、世を生きた痕跡のある体であり、さらに魚を食べることが出来る体でもあられました。それは自由な形の、私たちの想像を超えた、「天に属する」「霊の体」であられました。
 イエス様はその体のままで天に昇られました。そしてイエス・キリストは今も天に、その体でおられます。そして、「最後のラッパの鳴る」時―終わりの時―、同じパウロが書いたテサロニケの信徒への手紙一4章と重ねて語らせていただきますと、イエス・キリスト、そのお方が天から降りて来られ、既に死に、蒔かれた種とされた体は復活して朽ちない者とされると言うのです。

 何とも不思議なことをパウロは語ります。
 このことを、私たちはどう受けとめましょうか。
 私は、信仰と希望によって、憧れをもって受けとめたいと思うのです。
 死は終わりではない。イエス・キリストの十字架と復活に与る信仰に立って、アダムに連なる弱い土で出来た体は、ただ死んで塵に帰り滅び去るのではない。蒔かれた種として、イエス・キリストの復活に与る霊の体、復活の体に「かの日」に瞬く間に変えられる。死なない衣を着せていただくのだと。
 
 土気あすみが丘教会に来させていただいて、私は13人の方々の死と葬送に立ち会わせていただきました。おひとりおひとりを思い起こし、また、私のお目に掛かったことのない、この教会の天にある聖徒のおひとりおひとりを思い、そのおひとりおひとりが、今既に「蒔かれた種」とされて「天にある」ことを覚えます。
 世の死の別れはこの上なく悲しみをもたらしますが、しかし、私たちはイエス・キリストにあって、心を高く上げたいと思うのです。その方々は、既に「蒔かれた種」とされていることを。「かの日」、私たちも共に、朽ちない体、復活の体に変えられて、主と共にある栄光に与らせていただくこの「約束」にあることに、信仰による希望、そして憧れを持ちたいと思っています。
 
 キリストに連なる者たちは、世にあって、弱い土でできた朽ちる体を持って苦労多く生きておりますが、この体の内側にイエスの霊、聖霊をいただいています。パウロはこの体を「神の神殿」(一コリント3:16)と呼んでいるとおりです。歳を重ねる毎にさまざまな弱さも増して行くこの体ですが、イエス様の霊であられる聖霊なる神が、信じる私たちの内には宿っておられます。

 この体を生き抜きましょう。そして、世の命の終わり、良き「蒔かれた種」として、「神の国」を受け継ぐものとして、復活の体に変えられる時が来ることを、恐れるのではなく、信仰による確信と希望をもって見据えたいと思います。