「力は弱さの中でこそ」(2021年6月6日 礼拝式順、説教)

前奏
招詞    ローマの信徒への手紙5章5節
賛美    54-20  主をほめよ(1,2)
詩編交読 66編13~20節(73頁)
賛美    530 主よ、こころみ(1,2,4)
祈祷
聖書     エレミヤ書1章5節(旧1172)
        コリントの信徒への手紙 二
          12章1~10節 (新339)  
説教    「 力は弱さの中でこそ 」
祈祷
賛美     54-532 ひとたびは死にし身も (1,3)
信仰告白 日本基督教団信仰告白/使徒信条
聖餐     77 パンくずさえ拾うにも    (始1,2 終3,4)
奉献
主の祈り
報告  
頌栄     25 父・子・聖霊に
祝祷
後奏

エレミヤ書1:5
コリントの信徒への手紙二12:1~10

 パウロという人、この人が居なければ、キリスト教は存在しなかったのではないか、少なくとも、現在の形では無かったに違いありません。勿論、イエス様という神の御子であられるお方が世に来られたことが無ければ、キリスト教信仰はある訳はない、これが大前提ですが、イエス様がどのようなお方か、福音書が纏められる前に、パウロの手紙があったのです。
 パウロは新約聖書27の書物の中、ローマの信徒への手紙からフィレモンへの手紙、13の手紙を自分の言葉で書きました。新約聖書はイエス様のご生涯を書いた4つの福音書から始まりますので、福音書がはじめにあって、その後パウロの手紙などが加えられていった、そのように受け取ってしまいがちなのですが、パウロの手紙は紀元50年代に書かれたものであり、 それに対して、福音書はマルコによる福音書が一番早く書かれているのですが、マルコによる福音書が書かれたのはそれから10数年後の紀元70年頃。パウロ書簡が各地の教会で回覧され読まれ、「キリスト教信仰」がパウロの神学を中心として形成されつつある、その後に福音書が書かれているのです。
 イエス様の直接の弟子たちは、ペトロ、そしてイエス様の弟と言われるヤコブを中心にして、エルサレム教会と呼ばれる教会を形成し、ユダヤ人に対してイエス・キリストを宣べ伝えておりましたが、パウロはエルサレム教会とは全く立場の違う人でした。何故なら、パウロはもともとイエス様の弟子ではなく、イエス様の弟子たちを迫害する側のユダヤ人ファリサイ派の中心的な人物で、主の教会を荒らし回り、イエス様の弟子たちから恐れられていた人であったからです。
 そのパウロが使徒言行録9章に書かれてありますが、復活のキリストに出会い、たちどころにイエス様を信じる人に変えられて、回心に導かれ、その数日後には「この人こそが神の子である」とイエス様のことを宣べ伝え始めたのです。
 神の為さることは不思議です。迫害者であるパウロを選び、劇的な回心に導かれ、十字架のキリストの救いを宣べ伝えるために用いられたのですから。神のご計画は計り知れません。
パウロは、エルサレムの使徒たちと親しくなろうと願っていましたが、エルサレムの使徒たちはなかなかパウロを受け入れることなど出来ませんでした。回心後、パウロはアラビアに赴いたり、故郷タルソスに戻ったり独自の宣教をし、シリア、キリキアなどに居た時期もありましたが、バルナバに導かれてアンティオキアの教会を拠点として、独自の宣教活動を始めます。そして第一次伝道旅行と言われる旅をして、その後、エルサレム教会の使徒たちと会い、「エルサレム使徒会議」と言われる場で、パウロは伝道旅行の中、ユダヤ人ではなく異邦人と呼ばれる人たちも聖霊を受け、イエス・キリストを受け入れるようになった、その多くの経験を語り、その後、エルサレム教会の使徒たちはユダヤ人に、パウロは異邦人に対する伝道を使命として、宣教の対象を分けて、働き始めたのです。
パウロは精力的に、まさに命を懸けて伝道の拠点を広げて行きます。現在のトルコの多くの地域を旅して周り、ギリシア・ヨーロッパにも向かい宣教をします。その一つがコリントの教会でした。
コリントの教会はパウロ自身が立てた教会でしたが、パウロが旅立った後、さまざまな伝道者が来るようになり、それぞれの伝道者の支持者が党派に分かれて競い合うようにまでなっていました。ペトロもコリントに来ており、ペトロはイエス様の直接の弟子として、イエス様の風貌、行い、言われた言葉など、思い出話をコリントの教会の人々に披露したことでしょう。またアポロという人は、人々を魅了するほどに弁舌豊かな伝道者でした。
それに比べて、パウロは直接のイエス様を知りません。ペトロのようにイエス様のことを生き生きと語ることは出来ませんし、パウロは実は話下手であったようです。
コリントの人々は、弁舌家のアポロと比べたのでしょう、パウロのことを「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(二コリ10:10)などと言い、また「面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る」(10:1)などと思われて、パウロは蔑まれたのです。パウロ自身も「話し振りは素人」(二コリ11:6)と自分のことを語ったりもしています。
また、パウロが天幕作りの仕事で生活費を稼ぎながら、無報酬で福音を宣べ伝えたことも、哲学の教師に報酬を払って訓練を受けることが慣わしのコリントの町の土地柄では、パウロの伝道者としての資質と資格の低さの証拠と看做されて、さらに、パウロがエルサレム教会の貧しい信徒へ献金を募っていたことは、自分たちからお金を騙し取るパウロの悪賢さだとまで中傷されていたのです。
イエス・キリストの福音を宣べ伝えるために何度も鞭打たれ、石を投げられ、難船し、盗賊に遭い、飢え渇き、寒さに凍え、投獄され、命を掛けてキリストに仕えて来たパウロ。復活のキリストに出会ったことで、ファリサイ派ユダヤ人としての特権のすべてを捨てて、ただキリストを宣べ伝えることだけに、命を掛けてキリストにのみ仕えて来たパウロ。イエス・キリストに出会わなければ、そんな苦労をせずに済んだに違いないはずですのに、キリストの故に、パウロは苦しみを受けました。また口下手なことなどで誤解され、人間的に蔑まれることで、どれほど屈辱を感じ、苦しんだことでしょうか。
この手紙でパウロは狂おしいほど赤裸々に自分自身を語り、自分自身の悲しみを吐露しています。

悲しみ、恐れながらも、しかしパウロには自分だけに顕された主からの啓示がありました。世を生きておられたイエス様と語り合った経験は、パウロにはありませんでしたが、パウロはそれに増して、彼自身を宣教に突き動かす、復活されたキリストからの不思議な啓示を受けていたのです。その信仰の神秘をパウロは12章で語るのです。

2節で「キリストに結ばれた一人の人」と、「控え目」に語っていますが、これはパウロ自身のことです。
それが事実であったことを証明するかの如く、パウロは「14年前」という時を敢えて語っています。この手紙は紀元55年に書かれたと言われていますので、14年前と言うと紀元41年の出来事ということになりましょうか。パウロが宣教旅行に行くさらに前、シリア、キリキアに居た頃のことだったのかと思われます。そういえば、パウロが復活のキリストに出会い回心した場所は、シリア。ダマスコに行く道に於いてだったことを思い出します。

パウロはその時、第三の天にまで引き上げられたと言うのです。
古代社会では、天は3層あると考えられていました。青空の上に、天上の海があり、その上に、第一の天、第二の天、第三の天があると。第三の天とは、一番上。神のおられるところの意味でありましょう。
それはあまりにも不思議な体験であって、パウロ自身、体のまま天に上げられたのか、体を離れて霊のような形で天に引き上げられたのか、判断が出来ていません。「神がご存知です」、これらの同じ言葉をパウロは二度繰り返していますので、興奮を覚えるほどに、強烈な出来事として捉えていることを思わせます。また、人の業、また人の評価は人間がするものではない、神のみが為さる、神がすべてをご存知だということに思いを込めているようにも思えます。
そこで、パウロは「人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にした」と言うのです。一体どんな言葉だったのでしょうか。しかしそれは「人が口にすること」も「言い表」すことも許されない事柄ですので、パウロはそれ以上は語りません。しかし、この出来事が、パウロが何が起ころうとも、命を掛けても、イエス・キリストを宣べ伝える確信となっていたに違いないのです。
信仰には神秘的な領域があります。パウロは、誰よりも多くの異言を語る人であり、ペトロたちのように、イエス様と直接顔と顔を合わせて語り合ったことはありませんでしたが、それに代えて、復活のキリストによる信仰の神秘の領域をパウロは誰よりも体験し、それがパウロを突き動かす原動力となっていたことを覚えます。

 それはまさしく神からの賜物でした。神の選びと、恵みによって与えられた啓示に他なりませんでした。 
人は誰も経験したことの無いような素晴らしい経験をしたならば、それが何であれ、この世にあって「特別」なことを与えられた人間としての世に於ける誇りを持つものです。
 主なる神、キリストはそのような人間の性質をご存知です。しかし、神の恵みを人間的な誇りに代えることは、神との関係を阻むものとなりましょう。主は、パウロに誰も昇ったことのない第三の天にまで引き上げ、神の神秘を告げられましたが、パウロがそのあまりにも素晴らしい啓示のゆえに、自分は特別のように「思い上がることがないように」と、主はパウロの身にひとつの棘を与えられたと言うのです。それはパウロが「思い上がらないように、痛めつけるためにサタンから送られた使い」であったとパウロは語ります。
 サタン、悪魔とも言われますが、パウロのこの言葉は、旧約聖書のヨブ記で、主なる神が、ヨブに災いを齎すことを、サタンに許したという出来事が記されてありますが、そのような旧約聖書的な思想を知り尽くしているゆえのパウロの言葉でありましょう。
 このパウロの言葉から、パウロには何らかの病、若しくは障がいのようなものがあったのだろうと言われています。パウロはこの「使い」を離れさせてくださるようにと、三度主に願いました。パウロは多くの人の病を、自分の受けている聖霊によって癒しましたし、また死人を蘇らせたということも語られています。そのように神の霊の力を受けていたパウロでしたが、自分に与えられた病は癒すことは出来なかったのです。
そして、祈った末に「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という主からの言葉を受けたのです。

主なる神は、「思い上がることがないように」とパウロに棘を与えられました。「思い上がる」心が人間にある時、心は自分の誇りでいっぱいで、満腹で、神の入り込む余地はないのではないでしょうか。イエス様が山上の説教で「心の貧しい者は幸いである」と言われたことを思い出します。自分に対して貧しくへりくだる人の中に、神はご自身を顕されます。

余談ですが、私は神学校の卒業論文で、旧約聖書で人間を表す「ネフェシュ」という言葉について調べて書いたことをお話ししたことがありますが、ネフェシュ、この言葉の意味は多様ですが、ネフェシュの語る人間像とはいつも喉が渇いている、「渇望する」存在でした。それは神への飢え渇き。私はネフェシュを調べることによって、神によって造られた人間は元来「神によってしか満たされない、神を渇望してやまない存在として造られている」ということを知りました。
 いつも心貧しく、神に飢え渇いている、それは世に生きる人間の姿としては弱いものです。しかしそれは神の恵みを受け取る器として、神が愛して働かれ、神の力をいただける欠けの多い土の器でもあります。自分に弱く、空っぽの弱い器を、神の力、神の霊によって満たしていただく、神の働かれる器となるからです。

私たちは自分の欠けているところ、弱さ、また年齢と共に動きが鈍くなり、また病を持ち弱くなる体を悲しみますが、そのような時にこそ、実は私たちはまことに神共に生きる者となれるのではないでしょうか。自分の力だけではどうしようもないことを知る時、力を捨てて、誇りなどかなぐり捨てて神に祈り、自らを委ねる、そのことが出来る恵みの時なのではないでしょうか。

 パウロはこの時、恐らく50代半ば頃だったと思われます。2000年前で人の寿命は短かったとはいえ、老人ではなかった筈です。そして宣教のために命を掛けて働いていました。ただキリストを宣べ伝えるために、また自分の造った教会の問題に対して真剣に、手紙を書いていました。その手紙が聖書として後世に残され、まさかキリスト教信仰の基を作とり、2000年を経ても全世界で人を生かす言葉になることになるなど、微塵も思わないまま、生まれ持ったファリサイ派ユダヤ人としての世の誇りを投げ捨てて、体に棘を持ち、口下手で、人から蔑まれ、罵られ、暴力を振るわれることもありながらも、イエス・キリストの信仰を、復活の主からの直接の啓示によって理解し、それを手紙という形で言葉にし続けました。
 紀元70年のユダヤ戦争の後、エルサレム教会は消滅してその後の行方は分かりません。しかし弱いパウロの手紙が信仰の模範として後の時代、力強く広がって行ったのです。神の御業は人の思いを超えています。

 パウロはイエス・キリストに出会って、世の人間として「強い者」から「弱い者」に変えられました。しかし、弱さを身に帯びることによって、主を得たのです。
 主はそんな弱くされたパウロの内側に力強く働かれました。神の力はパウロの弱さの中にこそ十分に発揮されたのです。だから、パウロは「弱さを誇る」と言い切りました
 悲しみも苦労も、受けた痛みも、生き抜くその最中には分からなかったけれど、苦しみを通して、キリスト教信仰の土台をパウロは作ったのです。
 
 私たちも私たちの内側に弱さがあるならば、そこにこそ神が十分に働かれます。神を真剣に渇き求めつつ、何があってもイエス・キリストから離れず、力を捨てて、主に自らを委ねましょう。人生の結果は神のみが知るということなのでしょう。自分を誇ることは、神の御旨ではありません。神に明け渡せる弱い土の器として、私たちは世を生き抜くべきなのです。

 歳を重ね、弱くされる―それは実はまことの人生の成熟の時なのではないでしょうか。キリストにあるならば、年齢の積み重ねという弱さに思えることは、神の力が十分に発揮される成熟の時です。
 主の命が、おひとりおひとりを通して豊かに顕されることを祈ります。