「信仰の実り」(2021年6月13日礼拝式順 説教)

前奏     「プレリュード変ホ長調」    曲:J.S.バッハ
招詞      出エジプト記 15章2節
賛美      18(1,2,4)「心を高くあげよ!」
詩編交読  67編1~5節(74頁)
賛美       54-177 かみのいきよ
祈祷
聖書       創世記2章15~17節(旧3)
          ガラテヤの信徒への手紙 5章13~25節 (新349)  
説教      「 信仰の実り 」
祈祷
賛美      504 主よ、み手もて(124)
信仰告白   日本基督教団信仰告白/使徒信条
奉献
主の祈り
報告  
祈祷       今月の誕生者・受洗者の感謝
頌栄       24 たたえよ、主の民
祝祷
後奏

創世記2:15~17
ガラテヤの信徒への手紙5:13~25

 この国では江戸時代の鎖国が終わり、宣教師がやって来るようになり、まず国の知識階級に向かってイエス・キリストを宣べ伝えるようになり、さらに学校教育、女子教育、社会福祉の分野に活動を広げて行き、キリスト教はその奉仕の精神から、人々から尊敬を受けることが多い、そのようなこの国の宣教の始まりでした。
 今日は花の日・子どもの日。紫陽花が美しく咲く季節。例年ですと、子どもの教会では、子どもたちに、分かち合うこと、奉仕することの大切さを伝えることを願い、お花を「ひまわりの郷」にお届けしていますが、コロナ禍にあって、今日は子どもの教会はお休みです。しかしながら、絶えず私たちは子どもたちのことを覚え、またご病気の方々、ご高齢の方々、さまざまな困難の中にある方々を覚え、また主にある私たちの世の交わりが、互いに重んじ合い、愛し合い、仕え合い、主の愛によって全うされることを求めることを、今日改めて心に刻みたいと願っています。

はじめの宣教師たちの働きの尊さから、キリスト教は敷居が高い、正しい清い人でないといけないのではないか、また教会に行くような生活は、堅苦しくて自由が無いのではないか、そのように思って、教会に来られることを躊躇される方は、今でも多いと思います。
 ここにおられる皆様の多くは、日曜日の礼拝を中心とした生活をしておられます。
礼拝に来ることを、ご負担に思っておられる方はおられますか?毎週集われる皆様は、礼拝を中心とした生活を決して不自由に感じてはおられない、生活の中心として、寧ろ、礼拝無しには今日を、この週を歩けない、礼拝を通して生きる力を与えていただいていると感じておられるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
最近のこの国の調査で、60歳以上の方々の3割が、親族以外に親しい友人がいないという調査結果があったというニュースを見ました。しかし、教会生活をしているならば、週に一度、顔と顔を合わせて、安否を確かめ合い、心配し合い、互いに仕え合い、キリストにあって祈り合う仲間がいます。俗的な言い方になりますが、そのことだけでもどれほど礼拝を中心として集う生活が、生きる力となることでしょうか。週に一度の礼拝は、主の復活を記念し神を礼拝するという最大の奉仕と共に、世を生き抜くため、イエス・キリストを通して与えられる喜びに違いありません。
 礼拝を中心とした生活を不自由や負担に感じることがあるならば、それは交わりの中に歪みが起こっている場合もありましょうし、イエス様と御自身の間に、乗り越えるべき事柄が、何らかあるのかもしれません。
洗礼を受け、信仰を持ったといえど、私たちは罪の中に生まれている者たちで、世にあってさまざまな世の価値観、欲望などが絶えず誘惑のように私たちを襲ってきます。信仰から私たちを引き離そうとする力は、絶えず働いています。世にある限り、私たちは不完全で多くの迷いと悩みの中にあり続けるものでありましょう。
 私自身、イエス・キリストに出会い、救いを得て、礼拝を中心とした生活をするようになった頃、日曜日が楽しみで、そこだけが自分が赦されて居ることの出来る場で、礼拝が無ければ自分は今日を生きることが出来ないと思っていました。しかし信仰生活を続ける中で、信徒の時代、役員会がとても負担に思えて辛かった時期もありました。教会の中に問題があり、そのことに対して働き続け、「どうしてこんなにムキになるように教会のことのために働いているのだろう」とふと思うこともしばしばでしたが、祈りの中でそれらのことは、主のための、私自身の「今」なすべき役割として受け入れて、自ら考え、悩みながらも、主を思いつつ問題に対処していたように思います。そのことによって信仰が鍛えられ、また世を生きるひとりの人としても強くなり、主を、また主の教会に対しての思いと認識が深まり、自分の思い中心ではなく、主を中心とした生き方に大いに変えられたことは確かなことです。

 神は人間をお造りになられた時、たったひとつの命令を出されました。それは「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」というものでした。
 主なる神は何故、取って食べてはならない木を、園に置かれたのだろう?そんなことをなさらなければ、人間は罪を犯すことも無かっただろうに・・・と思われる方も居られるかもしれません。しかし、主なる神は人間の思いや意志を支配しようとされる方ではありませんでした。神は人間を「神の似姿」=神は人格を持たれ、自由な意志を持つお方であられますが、人間もそのように神と同様に、人格を持ち、自由な意志と決断を持つ者としてお造りになられたのです。人間に与えた自由を神に向けることを、自由な意志によって神に自ら近づいて行くことを望まれ、そのような自由意志を持つ存在として、人を造られ、「食べてはいけない」木の実も、抜き取ることなく、あるがままにそこに置かれたのです。
 しかし、初めの人アダムは、与えられている自由を神に対して用いるのではなく、神に背き、悪魔に譬えられる蛇の言葉に従うことに使ってしまいました。人間は神の望みと信頼に反して、与えられた自由を、悪の力に用いる存在となって生まれることになってしまったのです。
 その結果の人間の罪の性質が、今日お読みしたガラテヤ5:19に「肉の業」として語られています。もう一度お読みします。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」
これらの事柄は、私たちの持って生まれた心にとって、実は楽な、心が赴きやすい事柄ではないでしょうか。
「姦淫、わいせつ、好色」、これらをあからさまに見せる人は多くありませんが、程度の差こそあれ、そのような事柄に心を寄せやすいことを思います。これらのことに関する社会問題、人間関係の悲しみ、人権の侵害は枚挙に暇がありません。
 また、「偶像礼拝、魔術」、これらは、旧約の時代、主なる神とイスラエルの民との間の大きな問題でした。イスラエルの民は、主ではなく、豊穣の神と言われるさまざまな偶像に心を寄せ、神を悲しませました。それらの「神々」と呼ばれるものだけでなく、偶像とは人間の持って生まれた罪の性質に纏わる願望を映し出す鏡のようなもので、世の繁栄や欲望を安易に満たすように思わせるものすべてを指します。魔術もその類でしょう。安易に人間の好奇心や願望を満たすものです。
それらに対し、まことの神の業は人間には計り知れず、分かり難く、「らくだが針の穴を通る」(マタイ19:24)よりも、見出し難いものかもしれません。イエス・キリストの十字架の救い、神の愛を見上げつつ、自らの罪を見つめつつ、信仰による希望と忍耐をもって見上げない限り、神の御心は見出し難いものです。神の思いは人間の思いと違うからです。
そして私たちは見えない神に向かって葛藤します。しかし、それらの葛藤を神に向かって投げかけ続け、神に向かうこと、問い続けることをやめないならば、遂にいつの日か、神の愛にひれ伏すしかない瞬間が訪れることでしょう。旧約聖書のヨブが、苦難の中で神に訴え続け、最後、神の御前にひれ伏すしかなかったように。
「争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ」これらは、どこにあっても、たとえ主の名のもとにある教会にあっても、人間の居るところでは大いに起こり得るものです。
 エフェソ4:26に「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔に隙を与えてはなりません」とあります。怒りは悪魔に隙を与える感情です。「そねみ、ねたみ」は同類の嫉妬心。聖書は人の嫉妬心の恐ろしさを随所で語っています。それらは争いを起こし、不和を起こし、仲間争いを起こします。それらの感情は、感情に任せて、罪の姿のままに、人を無闇に罵ることすらしてしまいます。
「泥酔、酒宴」、病気のために、少量のぶどう酒を飲むことを、パウロは若い伝道者のテモテに勧めています(一テモテ5:23)が、飲み過ぎは理性のコントロールが利かなくなりますし、泥酔、酒宴はどうしても、先に挙げられている人間の欲望の赴くままの方向にすべからく向いてしまうものです。
 ここに語られている「肉の業」は、いずれも、神に背き、サタンの言葉に聞き従ってしまった人間の、流され易い、持って生まれた罪に属する性質であり、それらは「放縦」に属する事柄で、人間はそれらの放縦を「これが自由だ」と言いのけてしまう傲慢さも持ち合わせています。自由と放縦を履き違えてしまう人は多くおられることを覚えます。

 しかし、神は人間に自由「意志」を与えておられ、その自由を神に対して用いることを望んでおられます。キリストにある者たちは、「自由を得るために召しだされた」(5:13)のです。与えられた自由を「肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(13)、パウロは語ります。これらの「肉の業」を「互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」(5:15)とも。わいせつ、そねみ、争い、酒宴、その他この類のことは、互いに滅ぼし合う「肉の業」であり、それらのままでは「神の国を受け継ぐことはできません」(5:21)とまでパウロは語るのです。

 人は誰しも罪人です。罪の無い人はおりません。神は罪ある人間を憐れまれ、神御自身であり、御子であられるイエス・キリストを、人間の「肉」を持って生きるお方として、世に遣わされました。
ローマの信徒への手紙8:3で、パウロは次のように語っています。「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」と。
イエス様は罪の無いお方でしたので、肉と同じ姿で世を生きられましたが、ご自身の肉の欲を満足させることはなさいませんでした。与えられた罪深い肉の姿を、罪のある者のような姿で、すべての人の罪をその身に負われて、十字架に架けられ、その肉を、肉として処断された=滅ぼされたのです。
 そして、人が自らの罪を知り、悔い改め、キリストの十字架のもとに身を寄せたならば、私たちの罪はキリストの十字架と共に葬り去られ、新しく主にある命を受け継ぐ者とされる、神の霊、イエス様の霊、聖霊なる神をこの肉、土の器にいただいて、神共にある命に生きる、その道を拓かれたのです。

 教会に来るようになり、イエス・キリストの十字架の救いに与り洗礼を受けた頃、その時はまだ、信仰に於ける「幼子」でありましょう。こんな私のままで洗礼を受けてよいのだろうか?そのように思いつつ、新しい歩みを始められる方もおられたかもしれません。
 しかし、新しい命の種は、罪の悔い改めと信仰によってその時既に与えられています。
 初めは小さな信仰の種でしかないのかもしれない。世の誘惑や、持って生まれたままの良からぬ感情は、肉のうちにまだまだ残っていることでしょう。パウロですらロマ書7章で語っています。「善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。・・・わたしは何と惨めな人間なのでしょう」と。
 しかし、信仰によって蒔かれた種、イエス・キリストの霊、聖霊は私たちの内側を住まいとされ(一コリント3:16)、私たちを神の支配の中に、神のご性質を象るものにするために、私たちのうちに働いてくださいます。私たちを霊の導きに従って、成長させようと働き続けていてくださいます。
 霊=聖霊の結ぶ実とは、神の、イエス様のご性質です。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制。この9つの実は、イエス・キリストの十字架によって罪贖われ、赦された者たちが、体を畑として(一コリント3:9)成長させていただき、やがて結ぶことが約束されている実りです。
 私たちが、自分に絡み付く罪と戦いながら―戦うためには、自分の罪を認めなければなりません―与えられている自由な意志を、霊の導きに向け続けるならば、御言葉に聴き、祈りつつ、神に縋り付き続けるならば、私たちはいつの日か、霊の結ぶ実、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制を実らせていただく者とさせていただくことでしょう。

 信仰生活は迷い、悩みながらも、祈りつつ、御言葉に聞き続けつつ、自らの自由な意志によって主に近づいて行く。罪ある自分とどこまでも戦いながらも、主と共に、また主にある「互いに愛し合う」交わりの中に自由な意志に於いて留まり続けること―これはヨハネによる福音書13章で、イエス様が「新しい掟」として弟子たちに与えられた掟でもあります―なのではないでしょうか。
神が人間に与えられた自由な意志を、私たちはどこに向けるのでしょうか。放縦に身を任せ、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものが、心の中に起こるがままに、いつまでも振る舞い続けるのでしょうか。
そうであってはならないと思います。
 キリスト教信仰は、「正しくあらねばならない」「清く正しくなければならない」そのような規定はありませんが、与えられた信仰の種をどのように用いて行くのか、絶えずどこを向いて生きているのかが問われましょう。肉の業に留まり続けることは、生まれたままの悪の支配に身を委ね続けることであり、神の働きを無にすることであり、せっかく蒔かれた種を踏みつけ、やがて枯れて行くものとさせてしまいましょう。
そうあってはなりません。私たちは、絶えず、主なる神、イエス・キリストとしっかりと向かい合い、どのような問題も主に打ち明け、祈り、御言葉を読み、聴きつつ、自分を省みつつ、聖霊の蒔かれた畑である私たち自身の新しい命が実を結ぶものとならせていただくことを、真剣に求め続け、それを得るべきです。

 罪ある人間関係には時に問題があり、また世の教会も罪ある人間の集まりで、完全なものではありません。それぞれが成長の過程にある神の畑です。神の作物です。
問題を感じるならば、まず自らを省みることからはじめなければなりません。そして、言うべきことがあれば直接語り、互いに欠けのある者同士であることを認めつつ、互いに相手を優れたものと思い(ロマ12:10)、互いに愛し合い重んじ合い、互いに仕え合う「隣人を自分のように愛する」ことの出来る群れとして、私たち個人と共に、この教会が成長し、聖霊の実を結ぶことを求め続けたいと願っています。
主の愛に、この週も私たちが満たされて、愛を受けた者として、その愛を隣人に分け与えることが出来ますよう、祈ります。