真壁巌牧師
この「やもめと裁判官」の譬えには、「神を畏れず人を人とも思わない裁判官」が登場します。こんな悪役を登場させて「神の御心」を譬えるのは、大変なユーモアだと思います。言うまでもなく法律は、人々を不正義から守るためにあります。そして裁判官とは、社会生活における法の番人です。この「裁判官」は、社会において責任ある立場にある人々のシンボルでもあります。国家や自治体、企業その他で、弱い立場におかれた人々の権利を守り、世の中で不正がまかり通ることを防ぐ責任を負う立場にある人です。そのような立場の人が「神を畏れず人を人とも思わない」時、どうなるでしょう?
「その町に一人のやもめがいて、裁判官のところに来ては、『相手を裁いて、わたしを守ってください』と言っていたのです。裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった」(3-4節)のです。やもめとは、旧約聖書で「孤児」と並び、助けを必要とする人々を代表する存在です。「善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」(イザヤ1:17)のはずが、ここに登場する裁判官はこの教えの逆を、むしろ知っていながら開き直って行っているかのようにも見えます。
しかし、そんな私たちの心配をよそに、この譬えの中で正義は思いがけない仕方で実現します。裁判官の独白をお聞きください。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにちがいない」(4-5節)。この「さんざんな目に遭わすにちがいない」と訳されたギリシア語は、もとは格闘技(ボクシングなど)の用語法で、「目もとを殴ってあざを残す」という意味だそうです。実に滑稽ですね。この神をも畏れぬ大悪人は、孤立無援の女性から顔面に一撃をくらうのが怖くて、正当な裁判をしてやることにしたというのです。自らをあらゆる尺度の規準と見なし、善悪の基準さえ思い通りとしていた許しがたい裁判官が、「痛いのは嫌だから」というだけの理由から、ささやかな正義を生み出したのです。
ところで、ここまで主イエスの話を聞いた聴衆は、豪胆な男の臆病な決断を聞いた時、実際にもいたにちがいない不正な裁判官たちのことを思い浮かべながら、笑い転げたかもしれません。しかし、問題はその後です。 主イエスは、「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい」(6節)と、聴衆に語りかけました。主イエスはいったい何を示そうとされたのでしょうか。
考えてみれば、「自分は神など畏れない」と豪語する裁判官も、また「相手を裁いて、わたしを守ってください」と訴え続けるやもめも、それぞれの仕方で神に絶望している私たちの世界の代表者であるように見えます。私たちの多くは、裁判官のような権力者でもなく、やもめのような破産者でもなく、いわばその中間です。それでも強者も弱者もそれぞれの仕方で、同じように神に絶望している面があります。この弱さのゆえに、私たちもまともに神に語りかけることができません。義にして聖なる神と、俗にまみれた私たちの間には、深い裂け目があるのです。
しかしつい先ほど、私たちも裁判官の言いぐさを聞いて笑いました。この笑いは、根負けした裁判官の弱音とも言える判断の滑稽さに向けられたものでしたが、もう一つは、思いがけない仕方で、やもめに対して正義が行われたことに対する喜びの笑いでもありました。この笑いには、神と人間の間の断絶を橋渡しする力、人を再び神に近づける力があるように感じます。否、正確に言えば、神が人間の側に歩み寄られる事実があるからです。「愛する者も友も、あなたは私から遠ざけてしまわれた。今、私に親しいのは暗闇だけです」(詩88:9)という嘆きの訴えに、神は無関心ではありえない。それは、神の内面に何かを引き起こすからです。主イエスが私たちに差し向ける笑いは、思いがけない仕方で正義を作り出す神を、私たちが受け入れ易いようにしてくださっているのです。そして神が完全に人となられたことは、最終的に主イエス・キリストを通して明らかにされました。主は、「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」とある通りです(ヘブライ書4:15)。私たちの弱さを知っておられるからこそ、私たちを義とする部分をくまなく探してくださるまことの神でもあるのです。
体験談:電車内でのある出来事から
ある日、どうみても人を受け入れるタイプではない人間(逆に言えば、自らの弱さが露呈しないよう強気で片意地貼って生きる典型的な人間)と電車内で遭遇。疲れているのはみんな同じ、それなのに座席を陣取り、まるで自分の部屋のように振る舞う若者。誰もが不快な気分。しかし、
隣の高齢の女性が電車を降りるため席を立ち上がった瞬間、その若者は自分の組んでいた足をとっさに下げた。ほんの一瞬で再び元に戻ったが、その光景は私の目に焼き付いた。そしてふと思った。いったい自分は何様だろうか。この若者のことをロクに知りもせず、印象だけで見下し、裁いてしまっている。もし、この若者の一瞬の仕草を、たとえそれが無意識であったとしても、その配慮に優しさを感じ、高齢者への正義をみることができたならば・・・
私たちの神は、そんな私たちの一瞬を見逃さず、御心に留めてくださるお方でもあることを、主イエスは愛とユーモアをもって語られたのではないでしょうか。