礼拝説教「良い土地はどこに」( 2021年7月18日)

空閑厚憲牧師

今朝与えられましたマルコによる福音書が書かれた70年代には、既にローマを初めとする、地中海沿岸の各地に今日の教会の原型ともいえる初代教会が誕生していました。
そしてそれぞれの初代教会にはイエス様の話を直接聞いた人が少なからずいました。
彼らが語り継いでくれたそれらは、初代教会の宝物であるのは勿論、2000年後の私共の宝物でもあります。
歴代のキリスト者はそこから「イエス様の肉声」に耳を傾ける様にして互いに何度も聞き、語り合って来たのです。その後それらの伝承はそれぞれの教会によって記録されました。
ローマの政治犯として、ユダヤ人の一人の男性が十字架刑に処せられた出来事は、軍事大国ローマ帝国の歴史から見るならば、それ程の大事件ではなかったようです。ローマ帝国の公の歴史記録に少し触れられているだけです。武力による休む事のない戦乱のさなか、常に命の危機に晒されている暮らしの中で、ナザレ人、イエスの十字架刑死事件等忘れられて当然でした。
ある資料によると、ローマ帝国は一日に30人の十字架刑を執行した日も度々あったそうです。
しかし驚くべき事にイエス様の出来事は迫害にも拘わらず、1世紀半ばの大伝道者パウロが訪ねたローマ、そして伝道しようとしていたイスパニアにまで、既に伝えられようとしていたのです。
さて、マルコによる福音書4章3節から8節をもう一度お読み致します 
「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。
また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」

この時多くの人々がイエス様に触れようとして集まっていました。
マルコ3章10節に「イエスが多くの病人を癒されたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして側に押し寄せたからであった。」
とあります。
この時イエス様とついて来た群衆との間は、湖の水で隔てられています。群衆による不測の事故を予防する為もあったでしょうが、彼らは、イエス様に触れる事は出来ません。という事は病を癒して頂くという奇跡の可能性は低いと思ったかも知れません。
しかし群衆は湖畔から離れず、湖上の小船から語られるイエス様の話しに耳を傾けているのです。
湖の上を渡る風に乗ったイエス様の声は、時には大きく、時には小さく届いていたでしょう。この時イエス様は、彼らに何を伝えようとされたのでしょうか。
それは、マルコ1章15節にあります「時は満ち、神の国は近付いた。悔改めて福音を信じなさい。」です。
これは希望の言葉です。
病や苦しみ 悩みにある人々が、イエス様の下に集まって来たのは、病を癒して頂き、悩み苦しみを解決して頂きたく、すがるような気持ちからです。
彼らは1世紀の地中海社会で宗教的にも社会的にも最悪の状況に転び落ちていた人々でした。
その中には生れた自分の国から追われる様にしてたどり着いたこのパレスチナの地で、イエス様に一縷の望みを託してついて来ている人もいたでしょう。
それはあたかも世間の人々から、特にユダヤ人にとっては、「律法を守る事が出来ない者は罰せられて当たり前で、生きて行く価値もない」とばかりに決め付けられ、差別されている人々でした。
イエス様について来るほか、何の希望もない人々でした。私共人間の自分中心の欲望がその様な社会を作り出していたのです。いえ、今もその様な社会に直ぐ後戻りしそうになる愚かな私共を認めざるを得ません。
しかしイエス様は、その古代パレスティナの最底辺を生きていた人々に、湖に浮かぶ小船から、
「あなた達は、神様から愛されているのです。あなた達が生かされているこの世界に、もう直ぐ神の国が始まります。そして、あなた達は悔い改めの力を恵まれます。それはあなた達が自分自身の弱さや誤ちを正直に直視する力です。何とそこに新しい望みが与えられるのです。神の国の始まりです。」と、色々な譬を用いて、心を込めて語られたのです。
その様な中で、この種まきの譬は語られました。
そして人々の心に深く残り、多くの人々に語り継がれる事となったのです。
この譬話は、 農業にとって土作りは大切という分かり切った事に譬えて人の道を諭しているのではありません。しかし初代教会が書き残して後代に伝えたいと願う程のものでしょうか?

マルコ4章13節以降に、この「種を蒔く人」の譬えの説明」が記されていますが、これは後代の付け加え、と言うのが定説であります。
農業では土が大切だという事であれば、余りにも当たり前すぎて、かえって混乱する人もいたかも知れません。その為 後代の教会の人々が色々考え、説明を加えたものが、そのままイエス様が話された譬話の中に入れられて、言い伝えられた様であります。
しかしイエス様が話されたこの譬話は、平凡な話ではないのです。聞いた人に、絶望的苦しみの中にも拘わらず生きる希望と喜びを与える話だったのです。

さて、道端に落ちた種と、石だらけの地に落ちた種と、そして茨に落ちた種は、原語のギリシア語では単数形で過去形の動詞で語られ、実を結んだ方の種は複数形で未完了形の動詞で語られています。
この事は種まきの時、道端や石地や茨に落ちてしまう種はほんの少しで、大部分の種は良い土地に落ち、これから先豊かに実り続けていく事を意味しています。
最初の聞き手であったガリラヤ湖畔に集まっていた貧しい人々は、直ぐ思ったでしょう。
イエス様は自分達の事を道端に落ちた種や、石だらけの地に落ちた種や茨に落ちた種に譬えて話している、と。何故なら、彼らの人生は文字通り実り少ないものだと自他共に認めざるを得ない人々だったからです。

ところで共観福音書すべてと、外典のトマス福音書(正典に入れられなかった福音書、紀元50年頃成立)にも記されているイエス様の譬話は3つしかありません。
種まきの譬え話はその中の1つです。
即ちこのイエス様の譬話は、1世紀の地中海地域の広い範囲で伝承されていた事が分かります。
つまり多くの初代キリスト者にとって、忘れる事の出来ない譬話だったのです。そして2000年後の私共にとっても印象深いはずです。
ユダヤ教は勿論古代社会では、神の存在は超人間的で、宇宙的なものとイメージされていました。当時の民衆が、小さな種とか種まきの譬話をイエス様から聞いた時、どの様に感じ、何を受取ったでしょうか?
壮大な神の働きが、何とちっぽけな種と日常的作業の種まきに譬えられるとは、と受け入れ難かったでしょうか? ガッカリしたでしょうか?
いいえ、彼らはどんなに嬉しかった事でしょう!
この譬話から、正に畝から転げ落ちた様な自分達の日常生活の只中で、自分達の手慣れた農作業の中で神様が働いておられることを実感したのです。
この話を聞いたその時、彼らはそこから深い愛と希望と喜びを与えられました。そして悔い改めに導かれ新しい力を恵まれたのです。それは逆境を生き抜く新しい力です。正に忘れる事の出来ない譬話だったのです。
そしてイエス様は、譬話の始めと終わりに「よく聞きなさい」「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われました。
イエス様は、いずれユダヤとローマの権力者から迫害を受ける予感の中で,これだけはこの人達に伝えておきたいと強く思われたのです
「聞く耳のある者は聞きなさい。この話はあなた達の人生のポイント、急所です!」と力強く語って下さった譬話です。貧困や差別の中でやっと生きている人に、イエス様は 神の国が近付いている、と語って下さるのです。
そこには多くの実りが期待できる良い大地が備えられているとズバリ言われるのです。この言葉はガリラヤ湖畔に集まっていた多くの人々にスーッと受け入れられました。
そしてこの後、彼らがイエス様の十字架の死を体験し、ある者は出来たばかりの初代教会に加わりました。
そして名もない信徒の一人として、自分達がガリラヤ湖畔でイエス様に遇して頂いた様に、教会を訪ねて来た人々を遇したのです。彼らの中には、イエス様を「十字架にかけろ」と叫んだ人もいたかも知れません。
愚かで扇動されやすい自分たちに、命をかけてまことの神信仰の種を蒔いて下さっていたイエス様に気付かされ、深い悔い改めをもってイエス様との出来事を語ったのです。
イエス様は言われました。
「あなた達には多くの実りを結ぶ良い土地と、そこに蒔かれる良い種が備えられている。その地で働きなさい。そして驚く様な収穫を喜ぶ事になる。その様な神の御業がなされる神の国が始まろうとしている。私はその事をあなた達に知らせるのです。大事な事だから、よく聞きなさい」と。

しかし冷静に考えれば、イエス様のこの様な神の国到来のニュースが、どうしてガリラヤ湖畔の人々に希望と喜びの言葉として受け入れられたのでしょうか?
それは、謎としか言えません。
あるいは、「聖霊の働き」と言っても許されましょう。
一つだけ言える事は、イエス様がどんなに深く彼らを愛されているかが、彼らに通じた事です。
彼らは確信したのです。
これ迄一体誰が自分達にこんな事を語ってくれたか!
「どんな苦しい事があっても生き抜きなさい。それは神様の御旨です。私がいつも一緒にいますよ。」と。
「イエスというこの人は、私達をとても大切に思ってくれている」と。
そしてイエス様の十字架の死を直視した後、彼らは弱く愚かな自分達にも拘わらず、豊かな実りを約束する良い土地での農作業をイエス様が備えて下さることを実感しました。そして今の苦しみを、希望によって耐える力と一歩前に進む勇気を与えられたのです。この時イエス様がガリラヤ湖畔で、山上で、町の広場で、自分達に蒔かれていた信仰の種に初めて気付き、それらが発芽している事に気付かされました。
そして多くの迫害の中で生まれたばかりの初代教会形成に、喜んで加わり大きな働きをしました。
そしてそれは今日の私共の教会の働きに繋がっています。
それは畑の畝に小さな種を蒔く様にして、身近な毎日の暮らしの現場から始められ、深められるのです。
有難いことです。

祈祷
私共の救い主イエス・キリストの父なる神様、聖名を賛美いたします。
今、コロナ感染下のオリンピック・パラリンピック開催、異常気象による自然災害の続発に不安の拭えない私共であります。しかしこの不安を超えてイエス様によって多くの実を結ぶ働きが備えられている事を、喜んでお受けします。
この週、主イエス様によってあなたの恵みと慈しみが私共を見放さず何処までも追って来て下さっている事を覚える者として下さい。本日の御言葉の糧を深く感謝致します。今病床にある者、その治療、看護・介護にあたる人々の上に特段の顧みを切にお願い致します。
主の聖名によってお祈り致します。アーメン