マルコによる福音書5章1〜20節
今村栄児牧師
(挨拶や自己紹介などは除く)
悪霊。不吉な雰囲気が漂う。物語全体に所々歪み・何かまともじゃない雰囲気・を感じる。レギオンと名乗る悪霊をはじめとして、ゲラサの町の住人とのやりとりや豚の狂騒と湖での溺死の出来事も恐ろしいと同時に、妖しさを感じさせる。何かが、どこかが歪んでいるような、そんな物語である。
…妖しさはどんな時、どんな状況で感じるものだろうか?別に霊感があるか否かは問わない。私たちが生活している中で妖しさを感じる時がないだろうか。
私はある。たとえばある教室に、いじめがあるとする。より陰湿に、表沙汰にならない、匿名性の高い方法で、SNS等で時を選ばず且つ執拗に…このようになればなるほど、妖しさを帯びてくる。誰かを孤立させ苦しめようとする営みは、その集団内を・その社会を歪ませる。その歪みから妖しさが漏れ漂う。そのように思う。
もう1例。ある生徒の家庭訪問をしたとき。その生徒は病気・入院を余儀無くされ、学習が遅れ、生活も乱れ不登校になり、自暴自棄になり、時に家庭内でバットを振り回し両親に暴力を振るうような、そんな生徒。ガラスが割れ、めちゃくちゃなリビングから生徒の自室に入り、力なく座っているその子の淀んだ目を見た時。それは悲しみの眼差しではなく、妖しげな眼差しだった。当時の自分…担任であったが…取り尽くしまもない。解決の糸口もない。何もできないまま彼は自主退学していった。あの佇まいには妖しさが感じられた。
人の苦しみ・やるせなさ、絶望や憎しみが絡み合いもつれた有様 それは「罪」の有り様と言ってよいだろう。聖書が指し示す「罪」は、法的である以上に、この「ゲラサの悪霊」に漂っている「妖しげな、人間では抗い難い力」のたぐいであろう。「罪」は私たちを、抗いえない力で捉え、私たちを罪から逃れられないような状態にしてしまう。するとそこには不吉で妖しい世界が広がり始めるのである。
ゲラサ…人によっては地理と物語上の状況が合わないのでデカポリス地方内のガダラ(マタイでの物語の舞台)であり、ゲラサではないとの意見もあるが、ここではゲラサのままで考えたい。どんな町なのか。アレキサンドロス大王以来のヘレニズム時代にギリシャ人都市として栄え、イエスの時代・ローマ帝国の支配下で再びギリシャ文化が栄える町として賑わっていた。ダマスカスへ通じる商業都市だったようだ。考古学的にも、ギリシャの劇場や神殿跡、ローマの闘技場跡などが発掘され、当時を忍ばせる。物語の妖しさと正反対の、荒れ野の通商路に現れるオアシス都市の繁栄とギリシャ文化の明るさ。そうゲラサは明るいのである。それがむしろ物語が持つ陰の暗さ・黒さを際立たせるのかもしれない。
この物語は首尾一貫、主イエスが全ての主体である。彼が湖を船で渡ることを企図し、弟子たちを連れて異教徒の町へ赴き、彼だけが「ゲラサの悪霊・レギオン」と出会い、悪霊を追放し、取り憑かれていた人を元の人=本来の姿に戻し、彼に指示を与えてユダヤへ戻る。まるで主イエスは、ガリラヤ湖の向こうで、この悪霊に取り憑かれた人を見つけて、彼を救うためだけにこの一連の行動を起こしたかのようである。
不吉な雰囲気・妖しい雰囲気の物語、と指摘したが皆さんはこの物語のどの辺にその不吉さ・妖しさを感じられただろうか?1~5節の悪霊の様子だろうか?13節の豚に霊が乗り移ったことで起こる暴走に、だろうか?もちろん全体的に妖しく歪んだ物語なので、全体に感じられるのだが、まずは3,4節の「鎖・足枷や鎖を度々打ち壊し、引きちぎってしまう」に注目したい。自傷行為(あるいは誰かに傷害を与える)を繰り返す狂人に対して拘束具を用いたのは、古代から現代まで同じである。それよりも、この悪霊に取り憑かれた人は、その拘束具を度々破壊してしまったとある。鎖を引きちぎってしまうと2度繰り返す言葉に、その悪霊としての怪力さ・取り憑かれた人が一種の超人となって怪力を発揮することを強調する意図が見える。彼は忌み嫌われ避けられていただろう。しかし同時に人間の力を超えた超人として畏怖されていたのではないか。少なくともこのゲラサの町に人間の力を超えた悪霊の支配力が及んでいることをこれらの言葉は指し示している。この地方は悪霊の・人間の力を超えた・力に支配されていたのである。それゆえ不吉で妖しいのだと言えるだろう。
ゲラサの町やそこを支配する悪霊を見ると不吉で妖しいのだが、一方主イエスを見ると何が「正気」なことなのかもわかる。主イエスは悪霊と同じリングで戦っていない。主イエスの行為は「この人から出ていけ」と命じ、「名は何というのか」と尋ねただけである。加えて、悪霊の願い「この地方から追い出さないように」「豚の中に乗り移らせてくれ」に許可を与えた、これだけである。むしろここで主イエスは悪霊の願いも叶える(許す)のか!と驚いていいのかもしれない。それに対して悪霊は、彼を見るや「いと高き神の子イエス!」と彼を真のキリストと告白し、且つ彼を畏れ、名を問われて「レギオン、我々は大勢だ」と名乗り、豚への乗り移りを彼に願い、許されるや暴走して湖に飛び込み、湖で溺れ死ぬ……つまり悪霊は主イエスと対面するや、彼が栄えの主であるに対して、自らが滅ぶべきものであることを告白し、自滅して行ったのである。悪霊は追放されたというより、自ら出て行き〜自滅したと言えるだろう。
物語後半14〜20節、ともすると私たちはここを読み飛ばしているのではないか。しかし物語として後半は、悪霊が暴れ回った前半同様に妖しげで不可解である。後半もまた「悪霊物語」なのである。悪霊を追い出してもらい「正気」になって服を着て主イエスの元に座る=イエスの教えを聞き・学び、弟子となるという姿…に対して、豚飼い、町の人々、ことの成り行きを見てそれらを語り聞かせた人々 がもう一方の人々として描かれている。そして彼らが「ここから出て行ってほしい」と主イエスに願うのである。明らかに「出ていけ」との言葉は、前半で主イエスが悪霊に「この人から出ていけ」と命じた言葉と並行する。とすると、町の人々は主イエスをキリストではなく「レギオン以上の力を持つ悪霊」と理解し、恐怖したのかもしれない。
私はこの箇所を中学2年の授業「イエス・キリストの生涯」では必ず取り上げる。悪霊追放の物語を一緒に読んでいき、前半と後半がパラレル=平行して物語が展開している様子を指摘するのだが、そうしたらある生徒が「先生、それじゃあ、町の人もまた、悪霊に取り憑かれているってことじゃないか!」と指摘してくれたので、「してやったり!」と心ひそかに思った。そうだ。主イエスを前にして、そのキリストとしての御業を見たのに彼をキリストと告白しない。ここに悪霊の残滓:悪霊の力がまだこの町に残っていることを見るのである。
しかし主イエスはまだ悪霊の香り漂う町の人の言葉に、すごすご逃げ帰ったのではない。「正気」になり、イエスの弟子になった人に「あなたの家族に、主があなたにしてくださったこと=主があなたを憐んでくださったことを告げよ」と主の憐みの宣教を命じる。これは派遣の言葉である。憐みの言葉は家族から町中へ〜地方全体へ広がっていく。これは地方に取り憑いている悪霊が追放されてゆく姿だろう。主イエスは悪霊追放を、その地方の弟子に任せたのである。主の憐みと恵みを語るなら、悪霊は自ら立ち去り、自滅してゆく。私たちの教会が、「この町の教会」として存在している意義がここに示されている。大きなことを託されているのではない。まずは家族に「主があなたを憐んでくださった」と語ることから始まるのである。
編集者注:今村先生が何もなすことができなかったと語った不登校の中学生は自主退学ののち3年後に今村先生と再会し、自主退学ののち他校に進学し、教会で洗礼を受けたと笑顔で語ったとのことです。