ヨハネによる福音書8章1~11節
岸憲秀牧師
キリスト教信仰は罪を曖昧にしない。ノーベル賞作家大江健三郎はその受賞記念講演を『曖昧な日本の私』と題したが、なるほど、日本人は曖昧であることを良しとする。「ま、いっか」(まあ、良いではないか)としばしば言う。曖昧さを失うと、「そんな堅いことは言わないで」と非難される。これが日本人の問題である。それに対して、キリスト教は罪を罪として告白することを求める。(だから日本の伝道は進まないのか?)。今から約35年前、ドイツは時の大統領ヴァイツセッカーが戦争責任を告白した。『荒れ野の40年』として知られる演説である。そのなかの一言はあまりにも刺激的である。「過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目(マ
マ)となる」。曖昧さは真実を覆うことである。キリスト者は罪を告白できる民である。「謝る」ことを恐れない民である。なぜ、恐れないのか。それは許されることを知っているからだ。キリストが命がけで「赦しと和解」を成し遂げてくださったことを知っているからだ。
ヨハネによる福音書8章の御言を聞いた。姦通の場でとらえられた女性の物語である。舞台は神殿、主イエスは早朝オリーブ山からここに来られた。オリーブ山は、後に主イエスが捕えられる場である。この山で主イエスは徹夜の祈りをされた(ゲッセマネの祈り)。神殿もまた祈りの場である。その場所が「裁き」の舞台となる。人は時として祈りの場をも裁きの場としてしまう愚かさと罪深さを持つ。2節では主イエスは御言を語っておられた。そのさなか、「裁き」が行われようとする。人は時として教会をも裁きの場へと変えてしまう。しかし、主イエスは、その罪を負われる方だ。しかし、この裁判は単純でない。律法学者たち(律法学者とファリサイ派の人々)はもっともらしく彼女の罪状を語る。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」(4~5節)。姦通の罪の具体的なことについては、申命記などで語られているが、ここでその詳細について語らない。しかし、律法学者であれば、我々以上に律法に精通しているはずであるので、おそらくは、少なくともその時代の律法解釈において、この女性が裁かれるに妥当なものであったに違いないだろう。しかし、彼らの関心は「律法」にあったのではない。6節にはこうある。「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである」。律法学者たちの罪はここにある。もともと律法学者たちは、国家がなくなり、神殿が崩された惨状において、律法を守り、正しく行うことにおいて神の国を待ち望もうとした敬虔な人々であった。しかし、ここにはそのような彼らの姿はない。彼らは律法に精通していたのであろう。しかし、それを守り、正しく行うよりも、それを裁きの道具にしていた。そればかりか、主イエスを試すために、律法とこの女性とを用いようとしていた。もはや彼らにとって、主の掟は道具であり、人もまた道具である。
戦争は、国の民を道具化する。前線に送られて戦いを強いられることにおいてのみならず、「お国のため」との美辞麗句によって民の心が国家によって私物化されていく。いや、戦争だけでない。経済優先の国家戦略は時として人々を国のための都合のいい道具とする。人のための法ではなく、法のための国民となる。では、私たちはどうであろう。御言を人を裁くために用いたことはないだろうか。もし、私たちが人を裁くために聖書の言葉を持ち出すならば、私たちは彼らのことを非難できないであろう。
主イエスはそのような私たちの罪深さを知っておられる。それゆえ、おっしゃる。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)。すると人々は年長者から立ち去った。
三浦綾子(文学者)は、この聖書箇所について、もしここにいたのが日本人であったら、きっと石を投げつけたのではないかと、自身の信仰において分析した。日本人はそれほど罪に無頓着であると。なるほどそうかもしれないと私は思う。言うなれば曖昧さは「無頓着の罪」を生み出すのかもしれない。しかし、罪が赦されることを知っているキリスト者は、断じて罪を認め、罪を恐れず告白できる。そのために主イエスはオリーブ山におられる。そしてここから、ゴルゴダへと旅立たれる。
しかし、この美しい物語はここで終わらない。主イエスのお言葉で自らの罪深さを知らされた人々は立ち去った。そこには、姦通を犯した女性と主イエスだけが残った。(ということは、2節で主イエスの教えを聞くために集まっていた人々も、裁きに加わっていたということか!。ああ、人の罪深さよ。主イエスの教えを聞いても、理解できず、信じられない罪人よ)。すべての人々が立ち去ったのち、主イエスは彼女におっしゃる。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(11節)。主イエスはただ罪を赦されたのではない。「これからは、もう罪を犯してはならない」とおっしゃる。罪の赦しは「無罪放免」ではない。むしろ、これからが約束される。罪を犯さないように、というのだ。罪を認めることのできる私は、罪を赦された私である。罪を赦された私は、罪を犯さなくなる私である。
オリーブ山で主イエスが捕えられた時、弟子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。主イエスを捨てて逃げ去った。そして主の復活を聞かされても、信じきれない弟子たちのところに、主イエスは来てくださった。信じないものではなく、信じる者ととなりなさいと、罪の支配を打ち消してくださった。私どもはそこに立たされている。だから、一心に主の御言を聞き続け、一心に十字架を見上げようではないか。そうした時、私どもに呼びかける主のみ声を聞こえ、十字架の主の眼差しに気づかされるに違いない。そしてその時、「もう罪を犯さない」私として聖霊の導きのなかに引き入れられた私に気づくことができるのだ。