礼拝説教「キリスト者の喜び」(2021年9月26日)

ルカによる福音書15章11~32

小原 正(こはら・ただし)牧師

  • はじめに

ルカ福音書は15章に主イエスの3つの譬えを記しています。「見失った羊のたとえ」「無くした銀貨のたとえ」「放蕩息子のたとえ」であります。今日は多くの人に最も親しまれている「放蕩息子のたとえ」から神の御心を学びとりたいと思います。

これらの譬えが語られたきっかけが1~3節に記されています。律法学者やファリサイ派の人たちは「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄ってきた」のを見て主イエスに不平を言いだしたのであります。「この人は罪人を迎えて食事まで一緒にしている」と。ユダヤ人たちは、徴税人や罪人を受け入れませんでした。彼らは律法を守らない人たちであり、神に忌み嫌われている人たちであると決め付けていたからであります。そのような人たちとは交わらない、それが神の御心に適うと思っていたのであります。

それに対して、主イエスは福音を聞きに来る者を誰も拒みませんでした。むしろ主イエスは彼らを探され招かれたのであります。主イエスは彼らが御言葉を聞いて悔い改め神に立ち返ることを望んでおられたのです。弟子のマタイは徴税人でありました。主イエスは収税所に座っていた取税人マタイを「私に従いなさい」と招かれたのであります。

主イエスは、これらの譬えによって、何が神の御心であるかを明示しておられます。3つの譬えは一つの共通点によって結ばれています。それは、主(あるじ)が見失ったものを見出した時の大きな喜びであります、

その意味するところは、7節にありますように主イエスの福音によって一人の罪人が悔い改めると「大きな喜びが天にある」ということであります。天にある大きな喜びは神の喜びであります。つまり、神は、罪人たちがキリストの福音を聞いて、悔い改め、神の御前に立ち返るのを、かくも、お喜びになっておられるということであります。

  • 父親は終始寛大

譬えの中の父親は終始息子たちを愛し寛大であります。主イエスはこの譬えの父親によって父なる神を証ししておられるのだということであります。

12節「弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人にわけてやった。」弟は父と一緒の生活に満足していませんでした。いずれは父の家を出て自由な生活をしたいと思っていたのであります。

一般的に遺産は父親の死後に分与されます。しかし、父は弟の要求に対して何も言わずに財産を分与しました。兄は要求しませんでしたが、兄の取り分も分与しました。

その後、弟は親子兄弟の絆を断ち切るように父の家を離れ去りました。そして父と兄の言葉が届かない遠い所で気儘な生活を始めたのであります。ところが13節の後半と14節にこう記されています。「そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。」 彼は無一文になり極貧生活におちいりました。「放蕩の限りを尽くした」結果であります。

「放蕩」という言葉は、今日ではあまり馴染みのない言葉のように思われます。辞書を引くと「自分の思いのままにふるまうこと、欲望のままにふるまうこと、酒食にふけって品行がさだまらない生活等々」と記されています。

私たちは放蕩の生活と無関係であると思っているかも知れません。しかし、思いのままに振る舞うこと、欲望のままに振る舞うことであるとなると、誰も無関係であると言えなくなるのではなでしょうか。

弟は財産を使い果たしただけでなく、「財産を無駄使いしてしまった」のであります。たとえ残財産を使い果たしたとして、自分のため、他人のため等になっていれば、無駄遣いをしたと言われなかったと思います。しかし、主イエスは、はっきりと「財産を無駄遣いしてしまった」のだと言われました。

弟は、毎日のように宴会を催したのでしょう。主イエスは宴会を催すときのことをルカ14章13節で教えておられました。「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しをできないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」

 これならば無駄遣いにならなったのであります。しかし、弟の宴会は主イエスの教えとは真逆であったと思われます。つまり、弟は近隣の金持ちや地主を招いての宴会を繰り返していたと思われるのであります。金持ちや地主らは、困ったときの助けになると思っていたのかもしれません。

弟が無一文になった時「その地方にひどい飢饉が起こって彼は食べるにも困り始めた」のであります。そこでその地方のある住民のところに行って身を寄せたのであります。そこで弟は「豚の世話」をさせられるのであります。

ユダヤ人は豚肉を食べません。飼育もしません。ですから、彼が身を寄せたのは異邦人の家でありました。16節「彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。」 飢餓状態であります。

「その地方に住むある人」は弟の催した宴会に参加して贅沢なご馳走を食べ遊びに興じていたのかもしれません。そうであれば、無一文になった弟の扱いは余りにも情けなく哀れに思います。

私たちは、立ち止まって、神に背を向けて生きている人達のことを考えたいと思います。人は、それぞれ、神さまからの賜物を与えられています。それは生命であり、命を保つために必要な一切の恵みであります。それらは、神と共に生きることにより健全に保たれ用いられるのであります。

つまり、神からの賜物は。神と共に生きることにより、自分のためにも人のためにもなるのであります。私たちが神と共に生きることを放棄して、自分の気ままな生活をすれば、神さまからの賜物を無駄遣いしてしまうことになるのだと思います。

  • 放蕩息子我にかえる

放蕩息子は、我に返りました。17節「そこで、彼は我に返っていった。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ』。

 「かれは我に返って」は口語訳では「彼は本心に立ち返って」と訳されています。「我に返る」とか「本心に立ち返る」は、分かり難い言葉であるかも知れません。弟は我を見失っていたのであります、それは、父に背を向けたことから始まりました。いま、弟は父のもとに戻って父と共に生きようと考えるようになりました。それが本来の我に返ることであります。勝手気ままな生活は、どんなに楽しくても、我を忘れた生活なのであります。

一体、放蕩息子は、何によって、我に返ることになったのでしょうか。極貧の生活でしょうか。人は頼りにならないと悟ったからでしょうか。もちろん、放蕩息子は放蕩生活を反省したと思います。しかし、苦難や貧困生活が、我に返るきっかけ、本心に立ち返る弾みとなるかと考えると、必ずしもそうではありません。悲惨や貧困は人間を素直にするどころか、人間の心を益々頑なにし、反抗的にし、妬みや恨みの虜にし、悔い改め等出来ない状態にすることもあります。

実は、放蕩息子が「我に返った」理由は、17節にある「父のところでは」という言葉にあります。彼は父の愛を思い出したのであります。兄をはじめ大勢の雇い人たちは今も父の愛の中で有り余るパンで養われているのであります。弟は父の愛を思い起こしたのであります。

弟は父の愛を思い出して我に返ったのであります。悲惨や貧困が弟を我に返したのではありません。父の愛がありましたから我に返れたのであります。かくして、弟は順序だてれば、父の愛を思い出し、父の愛の力に導かれ、我に返り、家に帰る決心に至りました。

18,19節は、弟の悔い改めの言葉であります。「ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と。」

 「わたしは天に対しても」罪を犯しました。これは、弟の神に対する罪の告白であります。弟は、放蕩生活、欲望に支配された生活、分与財産を無駄遣いした生活等々を、先ず神に詫びて赦しを乞わなければならないと思いました。そして、父親には罪を詫び「もう息子と呼ばれる資格はありません」と言おうと考えたのであります。

息子は前のような権利、待遇を求めません。雇い人の一人にしてくださいと願おうとしたのであります。それが、今の私にふさわしいと思ったのでしょう。それは、私たちが心を動かされるところであります。しかし、最も、注目すべきことがあります。

それは弟がまことの喜びを知ったことであります。それは、父の家に帰り父と一緒に生活することであります。弟は父と一緒に生活できるならば、他に何も望まない、父と共に生活することが真の喜びであると悟ったのであります。

  • 父の愛は不変

父は、帰ってきた弟を、大きな喜びと愛で迎えました。それは兄が妬みを持つほどでありました。20節「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」父は、成功して帰ってきた息子を迎えるために走り寄ったのではありません。父は放蕩の限りを尽くし、憐れな姿で帰ってきた弟のもとに走り寄ったのであります。

父が走り寄るのであります。そこに父の愛が現れています。そして、その父の愛は、主イエスキリストにより私たち罪人に現わされた神の愛なのであります。

父は愛溢れる腕の中に弟の首をしっかりと抱いて喜びました。そして弟は父の腕の中で罪を告白しました。帰ったら、このように罪を告白して赦して貰おうと考えていたのであります。帰る途中、告白の言葉を繰り返し練習したと思われます。

しかし、21節には「どうぞ、雇人のひとり同様にしてください。」との言葉はありません。ある人の解説によれば、父は弟にその言葉を言わせなかったのだと解説します。そこまで、あなたは言わなくて良いのだ、あなたは私の息子なのだから。父は弟息子に最上の愛と赦しと喜びを現したのであります。

24節「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」これは放蕩息子が「我に返り」父のもとに帰ってきたことの解説であります。私たち信仰者にあてはめれば、私たちは主キリストの十字架の贖いにより、悔い改めて父なる神のもとに立ち返りました。それは死んでいたのに生き返ったのと同じだと言われているのであります。

父の喜びは、わたしたちが悔い改めて洗礼を受けた時に天に於いて現わされた神の大きな喜びを現しているのであります。神は、私たちの悔い改めを、かくもお喜びになられたのだということを改めて覚えたいのであります。

  • 兄の妬み不満

25節以下は兄の話であります。父親に従順にまじめに働いてきた息子であります。しかし、彼の言葉は弟に勝る罪人の姿を描き出します。兄の言葉には赦しも憐れみも喜びもありません。兄は、嫉妬深く、弟の幸いを喜ばず、自分の義を主張し、不満をあらわにします。私はひたすら、真面目に働いてきたのに、いまだに、なにも報われていませんと不満を訴えたのであります。

兄は欲深い本心を隠して真面目を装っていたのであります。しかし、この場面で本心が現れたのであります。兄は父の喜びを理解できません。父親は放蕩のあげくに無一文で帰ってきた弟を懲らしめるどころか最上のもてなしで迎えたのであります。兄の怒りは至極もっともであると思えるのではないでしょうか。

父は、兄に対しても、父の方から歩みよります。29節、30節は兄の訴えであります。私は真面目に働き続けてきたのに何一つ報いてくださらない「子山羊一匹すらくれなかったくれなかったではありませんか」。兄は出ていった弟の仕事までこなしていたのかも知れません。今の苦労はいつか報われるであろうと期待し、辛いのを我慢の労働でありました。それなのに放蕩の限りを尽くして帰ってきた弟のために「肥えた子牛」を屠り祝う父を見て我慢出来なかったのであります。

兄の言い分をて聞いていた父は歩みより31節のように諭しました。「すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ』。父は兄息子が見失っていたものを差し示されたのであります。それは「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる」という言葉であります。兄は父と一緒にいることの幸いと喜びに気づいていないのであります。

兄は父と一緒にいて、真面目に働いていれば、いつか報われると思っていたのであります。それは、自然な思いであると思います。しかし、それでは、報われるまでは喜びのない我慢の日々となるのであります。兄息子はそうでありました。

この、報いを求めて生きている兄の姿は私たちの信仰生活と重ならないでしょうか。私たちは報いを求める信仰生活になっていないでしょうか。それは、間違いではないとしても、それでは、日々、喜びのある信仰生活にはなりません。

私はキリスト信者になったけれども、何も良い報いを得ていない、苦難にも遭遇するし、病にも罹ります。そういう思いが心の中に出てくることもあるかもしれません。

しかし、主イエスは、この弟息子によって、父と一緒にいること、父なる神と共にいること、つまり、主イエスキリストによるインマヌエルが、キリスト者の最上の喜びのよろこびなのだと教えているのであります。

私たちは主イエスキリストに贖われて神と共なる生活に招きいれられています。これはどんな状態においても変わりません。それを知って喜ぶものでありたいとおもいます。