7月3日礼拝説教「遣わす聖霊」

聖書 アモス書7章12~17節、使徒言行録13章4~12節

遣わされるという出来事

アモスが聞いた言葉は『行って、わが民イスラエルに預言せよ』という神の命令でした。アモスは預言者として北イスラエル王国の首都サマリアや聖所ベテルに遣わされ、王や高官に神の審きの言葉を告げました。アモスには主の言葉がはっきりと聞こえました。
一方、パウロは聖霊によって異邦人への宣教の旅に遣わされました。彼は生涯に3度の宣教旅行を行い、多くの教会を建て、人々を福音に導きました。

預言者アモスの場合

まず、旧約聖書アモス書の言葉に聞いてまいりましょう。アモスが預言者として遣わされた時代は北のイスラエル王国がアッシリア王国に滅ぼされる約60年前から約40年前頃のことでした。その頃の北イスラエル王国は弱い人たちに課せられた過重な労働によって支配階級の人たちが豊かな生活を享受していて、国は安定しているように見えていました。

アモスは南のユダ王国にある小さな村テコアで家畜を飼う普通の牧童でした。アモスは自分が神から召命を受けたことを次のように語っています。「わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。」というのです。

その預言は神の審判の預言でした。アモスは支配階級がベテルの聖所で盛んに行っているイスラエルの祭りは形式的で、神の義がなされていないと神の審判を下しました。それでアモスの活動は王に対する反逆と捉えられ、彼は祭司アマツヤによって聖所ベテルから退去するよう命じられました。しかし、アモスは、アマツヤに向かって神の審判の言葉を語ります。

お前の妻は町の中で遊女となり、息子、娘らは剣に倒れ、土地は測り縄で分けられ、お前は汚れた土地で死ぬ。イスラエルは、必ず捕らえられて、その土地から連れ去られる。

まことに厳しい審判の言葉です。この預言のどこにも希望はありません。しかし支配階級の人々が審判の厳しさを自覚した時に初めて悔い改めることができるのですから、アモスがここで救いの言葉を語らないのは神の御旨にかなっています。

伝道者パウロの場合

次に、使徒言行録13章に聞いてまいりましょう。パウロとバルナバは聖霊によって選び出され、アンティオキア教会から最初の宣教旅行に遣わされました。お手持ちの聖書の巻末地図の7枚目に第1回宣教旅行の地図がありますので、開いていただければイメージが湧くと思います。彼らはアンティオキアから陸路でセレウキアまで行き、そこからキプロス島に船で行き、サラミスに着きました。そして島の方々の会堂で神の言葉を告げ知らせました。そのようにしながら島の反対側のパフォモスに着くと、その地の総督はパウロとバルナバを招いて神の言葉を聞こうとしました。しかし、そこにいた偽預言者で魔術師のバルイエスという男が総督を信仰から遠ざけようとしました。

そこでパウロが聖霊に満たされて「お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」と言うと、魔術師は目が見えなくなってしまいました。パウロと共に聖霊の神がおられて、パウロの言葉が神の言葉となり、その言葉が成就したのです。

私たちにとって遣わされるということ

少し私たちの教会を振り返ってみましょう。今年の年間聖句は「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」です。この聖句は私が選ばせて戴いたものですが、こちらに遣わされる前に役員の皆さんと話し合いをする機会があり、役員の皆さんの伝道への思いを感じて、この聖句を選びました。

この御言葉は教会員を増やすことを目的とはしていません。御言葉を聞いた人がまことの神を知り、神に従う本来の生き方に戻ることが目的です。結果として洗礼を受ける人が起こされるかもしれませんが、神の言葉を聞いた人が本来の生き方を発見して、それを自分の生き方とすることが私たちの喜びであり、そのためには折が良くても悪くても御言葉を宣べ伝えると言うものです。聖霊の神は私たちに父なる神の愛とキリストの恵みを想い起こさせ、そのような働きに遣わします。

もう一つの事柄として6月27日に西千葉教会でおこなわれた千葉支区伝道協議会のことをお話ししたいと思います。キリスト者となった私たちは今もなお神を知らず一人で悩み苦しんでいる人々がいることに心を痛めなければなりません。また主の食卓に共につくことができない人々のことを悲しみと共に覚えなければならないと思います。

現代に生きる人々は「人はそれぞれで、人生もそれぞれだから余計なおせっかいはかえって迷惑になる」と考えるようになりました。しかし私は思うのです。キリストを知って神の道を歩むことを知ったうえで、その人が自分の生き方を決めるのであれば、それは仕方がないことだけれども、キリストに倣って生きる生き方があることを知らずに、力に頼る生き方や欲望を優先する生き方しかしらないで一人で苦しみを抱えて生きているのを見るのは悲しいことではありませんか。また本当にキリストの恵みを知ればキリストに倣う生き方をしたいと思うようになるものです。

伝道協議会では3人のパネリストが発題しました。その中の一人、千葉教会の西岡昌一郎牧師の発題が心に残りました。先生は北海教区に26年間いて、北海教区の情況と宣教協力について話してくださいました。その中で心に残った言葉は次のようなものです。

「北海道で教会が1つなくなることはその地域一帯に御言葉が伝えられなくなる。そして救いが起こされなくなる」という意識でした。宣教協力の合言葉は「もし小さな教会が倒れるなら大きな教会も一緒に倒れよう」というものだそうです。大教会がこの思いを共にしているところに北海道伝道の特徴があると感じました。それは主にある連帯です。教会が群れで伝道している、一人でも多くの人に神の言葉を伝えるために支え合うという意識に私は心を動かされました。

このような合言葉が可能になる背景には、距離は離れていても、牧師はもちろん、信徒の人たちも含め、日頃から、お互いの顔と顔を合わせて、実際にその教会まで足を運び、互いの実状を知り、連携の必要性を感じてきたからだと西岡先生は語りました。そして「まず知ることから始めよう」と呼びかけました。

牧師は教会に遣わされます。それは聖霊の神のお働きであります。そしてまた信徒の皆さんもそれぞれの場所で神の御用のための働きに遣わされます。それは奉仕という言葉で表されるものです。そのような働きのために健康と気力と時間が与えられていることを思う時、働くことができることが喜びとなります。そして教会も神の御用のための働きに遣わされるということを知ったのが先ほど紹介した千葉支区伝道協議会での出来事でした。

神の言葉、福音を伝える働きは魂を救済する事業です。キリスト者はその働きのために聖霊によって遣わされます。聖霊の神が私たちに新しい生き方を思い起こさせ、私たちは日々新しくされて神の御用のために奉仕するのであります。

聖霊に導かれて主の業を担う

聖霊は私たちに神の愛とキリストの恵みを想い起こさせてくださり、福音をまだ知らない人に伝える働きへと私たちを遣わします。教会もまた他の教会と一緒に働いて福音を伝える働きを担い続けるのです。離れていても同じ信仰を持つ兄弟姉妹がいます。

神の言葉はどのようなものによっても制約を受けることはありません。神の言葉は人々に広がっていくのです。聖霊は私たちをその働きへと遣わします。

以上