聖書 エレミヤ書23章30~32節 、ガラテヤの信徒への手紙5章7~15節
録音は「十字架のつまずき」の途中からとなります。
教会の始まりに働かれた神の御手
先週、私は西千葉教会との交換講壇で西千葉教会の礼拝に参加しました。西千葉教会の礼拝に参加するのは初めてでしたが、真壁先生がほとんどつきっきりでお世話してくださり、司式も真壁先生がおこなってくださったので、あまり緊張することなく説教を語ることができました。本日の週報の「牧師室より」に説教の概要を記載していますのでご覧ください。聖書日課により与えられた聖書個所を黙想して、西千葉教会と土気あすみが丘教会の歴史を振り返り、そこに「神の見えざる御手」が働いていたことを証させていただきました。私の招聘に関しても振り返れば神の御手に導かれていたことを感じましたのでそのことを証し致しました。
十字架のつまずき
本日与えられたガラテヤの信徒への手紙5章7~15節はパウロがガラテヤ地方の教会に書き送った手紙の一部です。彼が手紙を書き送った理由は、ガラテヤの信徒たちがパウロの伝えた福音から外れそうになっていることを知ったからでした。7節から11節で、パウロはキリストの福音を信じる信仰の他に救われる道はない事を譬えを用いて説き明かしています。
11節の「十字架のつまずき」が示している事柄というのは、つまりキリストの十字架はユダヤ人と異邦人とに永遠の契約の成就をもたらす決定的な出来事であり、そのことを信じる信仰以外には神に正しいとされる道はないということです。パウロに反対するユダヤ人キリスト者たちはキリスト者になるには割礼が必要だと説いていましたが、パウロはそれがキリストの福音を曲げると反論したのです。なぜならパウロはイエス様との出会いによる回心体験でその真理を啓示として受けたからでした。彼はその啓示の真理をモーセ五書から説き起こしましたから、パウロと違う教えの人々をも説得する力がありました。
キリスト者の自由
13節から15節は、パウロがキリスト者になったガラテヤの信徒たちにキリスト者としての新しい生き方を勧めている箇所です。本日の説教題の「互いに仕える」は13節の御言葉からつけました。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」とパウロは勧めます。
キリスト者は自由を得ました。これはとても喜ばしいことです。しかし一体この自由とはどういうものなのでしょうか。
パウロがここで書いている「自由」は何ものにも束縛されない自由ではありません。この自由とは、他人や組織や国家によって個人の考えや行動が縛られる束縛状態から、自分自身によって考えや行動を決めることをいいます。これをルターは「キリスト者の自由」と表明しました。聖書のこの部分にも「キリスト者の自由」という小見出しが書かれています。
私たちはこのキリスト者の自由をどのように使うかを問わなければなりません。パウロは13節後半で「この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」と勧めています。<肉>とは「生き物」ということだけでなく、人の内側で「罪が働く場」や「神への反抗の場」などを含む広い概念でして、これらをまとめて表現するならば「今の邪悪な時代の一員としてこの時代に属する私たちの部分のすべて」という風に言うことができます。この中には欲望を満たそうとする邪悪な心といったものが含まれます。その具体的な内容の一つが15節に書かれているキリスト者同士の争いです。
パウロは、そういう<肉に罪を犯させる機会>とするために自由を使うのではなく、<愛によって互いに仕える>ために自由を使いなさいと勧めます。わざわざ<愛によって>と付け足しています。この愛はアガペーの愛、つまり見返りを求めない無償の愛のことです。この無償の愛は神が与えてくださる愛です。イエス様とつながっていれば無償の愛は溢れるほどに私たちを満たします。無償の愛に満たされた者たちは<互いに仕える>ように促されるのです。
自由は、好き勝手をすることではなく、むしろ私たちが身にまとっている肉の弱さを通して罪の力が働くことからの解放です。具体的には自尊心や、高慢や、争いの心、妬みの心などからの解放です。そしてそれは私たちを自由な選択において他者への奉仕へと向けように導きます。
エレミヤ書23章30節から32節に書かれているのは、偽預言者が勘違いしている自由に対する神の審きの言葉です。偽預言者が自分たちの好みの言葉や民衆が期待する言葉を神の言葉と偽って告げているのは、彼らが自由をはき違えているからであり、そのことを神は厳しい言葉で断罪しています。ユダ王国の王や高官は神が命じる貧しい人々や弱い人々への救いをおこなわずに、神殿を頼りにしており、偽預言者たちは人々の耳に心地よい言葉を語り続けました。そしてそのことが原因で国が滅びることになりました。
キリスト者の自由によって為された働き
西千葉教会が私たちの教会を生み出したのは、「キリスト者の自由」を「他者に仕える教会」という宣教方針に結び付け、「教会のないところに教会を」という祈りが起こされたからです。土気あすみが丘教会が創立した後も西千葉教会から献金がささげられ続けたそうです。また多くの西千葉教会員が時間と労力を惜しみなく用いてくださいました。もちろん当時の土気あすみが丘教会の会員はそれこそ時間と労力を惜しみなく用いて宣教に励んだことでしょう。
これらは個人の楽しみという観点から見ればなんと無益なことをしているのかと思われるでしょうが、「キリスト者の自由」を一番良い方法で用い、大きな実りが得られた例だと思います。
土気あすみが丘教会は千葉北総教会を生み出した母教会群のひとつだそうです。私はまだ十分にそのことを理解していませんが、千葉北総教会から定期的に週報が送られてきます。千葉北総教会が建てられたことで、千葉県印西市に神の御言葉が宣べ伝えられるようになり、その地域で救いが起こされていることでしょう。私たちの教会も「他者のための教会」としての働きを「キリスト者の自由」としておこなったということであり、私たちにはこれからもそのような働きをしていく自由が与えられています。
キリスト者の自由において選び取る行動
私たちは「キリスト者の自由」において他者に仕える教会でありたいと願います。この地にあって迷い煩いや不安の中にいる人々にキリストの福音を宣べ伝えることができますようにと祈りつつ、礼拝や諸活動を行ってまいりたいと思います。千葉北総教会のために、また近隣教会のために祈りたいと思います。
私たちには判断をしなければならない時があります。その判断とはあることを「する」か「しない」かの二者択一の判断であることが多いと思います。困っている人を助けるかどうかといった日常の小さな判断もあります。その時に私たちはキリスト者の自由において『隣人を自分のように愛しなさい。』というイエス様の最も大切な戒めに従う方を選びたいと思います。