7月31日礼拝説教「今や、恵みの時」

聖書 サムエル記上17章41~50節、コリントの信徒への手紙Ⅱ 6章1~10節

今は「恵みの時」だろうか

今日の説教題を見た通りがかりの人は「世界では戦争や弾圧が起きており、日本でも銃撃事件があって、世の中不安だらけ、恵みなんてどこにもありゃしない」と思われたかもしれません。確かに今の世界はいろいろな国が自国第一主義を唱え、武力で国境線を変更しようとする国が現れました。国際社会の声や国内の反戦の声はその国の大統領には届かないように見えます。このような状況だからこそ、私たちはパウロの言葉に耳を傾けなければなりません。

救いの宣言「今は、恵みの時」

パウロはコリントの信徒への手紙Ⅱの6章1節で「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」と勧告しています。ですからパウロがこの手紙を書いたとき、コリント教会はいろいろな考えの人がいて混乱していた、ということが分ります。

パウロは他の箇所で、コリント教会の中に争いがあること、道徳的に堕落している人がいたこと、礼拝で共に食べるための食事を先に来た人たちが食べてしまうことなどの不品行があることを指摘しています。このような状況だからこそパウロは「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけない」と勧告しているのです。

パウロはここで聖書を引用します。それが第2節です。単に自分の発言を強化するために引用しているのではありません。なぜパウロが、今この時、こういう発言をするのかといえば、聖書に神の御言葉を聴き取ったからです。そこで聞こえた神の声は、イザヤ書49章8節でした。つまり第2イザヤの、主の僕の使命を語るとされるところに記された、捕囚の民に語られた、民の解放を決意された神の言葉です。

なぜなら「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。
救いの日に、わたしはあなたを助けた」
と神は言っておられるからです。
今や、恵みの時、今こそ、救いの日。

預言者第2イザヤが、捕囚の民の解放の決定的な時、神の時(カイロス)の到来を、「今だ」、と告げられた神の行動宣言を、パウロは、「今がその時、あなたの解放の時だ」と再宣言したのです。パウロと共に働いていてくださる神が、イザヤを通して語られた言葉を、主イエス・キリストの降誕から受難にいたる出来事において、神は今また、新しく発言されるのです。単にパウロの言葉ではありません。また過去の出来事ではありません。主なる神は、今、ここにおいて、この礼拝において、全く新しく聴くみ言葉として語ってくださいます。なぜなら、今や、この礼拝において聖書朗読者は神の言葉を語り、説教者はそれを証ししているからであります。

神は恵みを願い求める声を聞き届けてくださったこと、そして救いを実現してくださったことに基づいて、救いのわざが出来事となったことを告げ、今まさにそのことが起きることを宣言されるのであります。私は不完全なものでありますが、神に遣わされ神と協力して共に働く者として、「イエス様の十字架の贖いによって現実化した神の恵みをしっかりと受け止めてください」と皆さんに勧告したいのであります。これは私自身への神の言葉でもあります。

「恵み」について

恵みが何であるかについて少しパウロの手紙に聞いてまいりたいと思います。5章11節から5章の終わりまでにそのことが書かれています。イエス様はすべての人のために呪いとなり私たちの罪をすべて負って死なれました。それによりすべての人も死んだのです。そしてイエス様が復活してイエス様を信じる人たちは新しく創造されました、すなわち新しい命に生きるものとされたのです。新しく創造された者は神と和解させていただき、神との関係を正しくさせていただきました。

私たちは神がおられて、私たちを無償の愛で愛してくださっていることをイエス様の死によって知ることができました。そのことによって私たちは新しくされました。古い私たちは死に、新しい私たちが生まれたのです。このことは洗礼を通して私たちに与えられた恵みであります。

この恵みを忘れないというのは、主なる神を忘れず、イエス様がなさったように主なる神を愛し、隣人を愛することです。隣人を愛するならば、殺すことも、盗むことも、姦淫することも、偽証することも、他人のものを欲しがることもしなくなります。それは神と正しい関係にある者が自らの自由で選び取るものです。

パウロは使命に生き、それを喜んだ

パウロはこの恵み、福音を伝えるためにあらゆる苦難に出会いましたが心が折れることはありませんでした。まずパウロは3節、4節で「わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。」と書いています。<その実を示す>というのは<自分自身を言葉や行いで証明する>という意味ですので、いつでも神に仕える者として語り、行動していることを示しています。私たちは4節後半から10節のパウロの告白をもってパウロの誠実さを知ることができます。彼は、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓を経験しながらも、大いなる忍耐をもって、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によって福音を伝え続けたのです。

「左右の手に義の武器を持ち」という表現で、パウロはパウロが置かれた戦いの場で罪の不義と戦う義の戦いをおこなったことを示しています。この世の罪とは強者が弱者の権利を踏みにじり富や権力を独り占めすることであり、人々がその状態を改善するよりも強者になろうとすることを指しています。強者は強者でいようと汲々とし、弱者は強者の側になろうと果てしない努力を続けるという悲しい世界です。中にはこの競争に疲れて絶望し、一切を清算しようとして事件を起こしてしまう人が現れます。

8節後半の「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり」という言葉ですが、パウロは欺きの言葉を語ったわけではありません。しかし世の人には欺きの言葉を語っているとみられたのです。それはイエス様も同じでありました。この世の競争に生きている人々には霊の言葉は通じません。まるで欺こうとしているように思われてしまいます。イエス様もパウロも誠実でありました。ここで私のことを言うのは付け足しでしかありませんが、私も誠実でありたい、聖書の御言葉を多くの人に伝えて元気になってもらいたいと思っています。皆さんも同じ思いではないかと思います。どのようにすればそれが叶うかは分かりませんが、少なくとも今行っていることを続けることだけに一所懸命になるのではなく、御言葉を必要としている人のところにどうしたら御言葉を届けられるかを祈り求めたいと思います。「今や、恵みの時」と主が語ってくださり励ましておられます。

10節の言葉もパウロの生き方を象徴しています。パウロは「悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」と告白しています。この、悲しんでいるようでや、物乞いのようでや、無一物のようで、はそのように見えるということではなくて、パウロは本当に悲しんでおり、物乞いに近い状態で、無一物だったのですが、この世的な不幸な状態をものともせず、聖霊に満たされて豊かだったのです。

富や所有は、人間の最も心にかけることであり、そこでこそ、信仰のありようが問われます。ここでパウロが語るのは、まさにそこにおける自由であり、豊かさです。富や所有が罪だというのではありません。それを求め独り占めにするのではなく、稼ぐことができる人は沢山稼いでいろいろな事情で稼ぐことができない人に富や所有物をシェア(分かち合い)すればよいのです。

「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」とはこのことを確認し、新しく創造された者としての生き方を喜びをもって選び取っていくことを再確認することであります。

世にあって神の恵みに生きる

今の世の中は決して恵みにあふれているわけではありませんが、イエス様は信じる人に、今を恵みの時、救いの日としてくださいます。私たちが受けた恵みを無駄にすることなく、主の御後についていきたいと思います。

私たちの周りには誘惑が待ち構えています。私たちの欲望を呼び覚まし罪の奴隷にしようとしています。私たちは安易な方向に流れてしまわないように、イエス様が教えてくださった神の愛にしっかりとつながり、困難でも幸せな人生を進んでいきたいと思います。