聖書 イザヤ書5章1節~7節、使徒言行録13章44節~52節
礼拝に集う人々の喜び
「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。」(使徒言行録13章48節)
この言葉は主日の礼拝に集う私たちのことです。私たちはパウロが証しする主を信じて、御言葉を聞き、主を賛美しています。まずパウロの説教を振り返りたいと思います。本日の聖書個所の少し前、13章16節から41節に記録されています。多分、パウロはもっと長い説教をしたでしょう。それを聖書記者がこのように要点を短くまとめたと思われます。
パウロはかく語れり
私なりにパウロの説教を要約してお話いたします。
神は約束に従ってダビデの子孫からイスラエルに救い主イエス様を送ってくださいました。救いの言葉は私たちに送られたのです。しかしエルサレムに住む人々と指導者たちはイエス様を認めず、預言者の言葉を理解せず、イエス様を罪に定め十字架につけました。
その後、神は死者の中からイエス様を復活させてくださいました。その証人たちは、今、イエス様の証人となっています。
イエス様による罪の赦しが告げ知らされています。信じる者は皆、イエス様によって義、すなわち神に従う正しい者とされるのです。
預言者の書に書かれていることが起こらないように警戒してください。その言葉はこのようなものです。
「見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。
わたしは、お前たちの時代にひとつの事を行う。
人が詳しく説明しても、
お前たちには到底信じられないことを。」(ハバクク書1章5節)
預言者ハバククの言葉は裁きの言葉です。神を侮る者とはパウロの時代であればキリストの福音を侮るユダヤ人たちであり、今日では神を知らず勝手な行いをしている人々であるといえます。
一方で、パウロの言葉を聞いて信仰に入った人々は喜び、主を賛美しました。ちょど私たちが先ほど司式者によって読まれた御言葉を喜び、賛美したのと同じです。
パウロを迫害するユダヤ人たちへの裁きの言葉
ここからが本日の聖書個所です。パウロが説教した次の安息日に、その町のほとんどの人が主の言葉を聞きたいと望んで会堂に集まって来ました。この時ひとつの事件が起こりました。ユダヤ人たちがパウロたちを口汚く罵り、パウロの話に反対しました。
彼らが信じているのは文字に書かれた律法の書、すなわち旧約聖書であってそれを文字通りに実行することが神の御心をおこなうことでした。律法をすべて守ることが神に従う正しい人だと信じていました。少なくともこのことは問題ではありません。
しかし彼らは寡婦と呼ばれるひとり親や孤児や寄留者に代表される貧しい人に対する配慮を怠っていました。配慮しなかっただけでなく、貧しさのために律法に記されていることを守れない人々を汚れている人として排除していました。律法を守ろうと望んでいても守ることができない人々のことが見えなかったのです。そして自分たちだけの偽りの平和のうちに日々を過ごしていました。
聖書はその全体がそのような人たちに対する配慮を求めていますが、ここでは直接そのことが書かれている聖句をご紹介します。
出エジプト記22章21節「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。」
申命記24章19節から21節 「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。」
イザヤ書11章4節「(主は)弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。」
エレミヤ書22章3節「主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。」
福音書にはイエス様の言葉として次の言葉が記されています。
ルカによる福音書4章18節「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。」
このように主なる神はユダヤ人に貧しい人々への配慮とその人たちと共に生きることを命じています。
パウロはきっと、イエス様が「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」(ルカ6:20)と言われた言葉や、それを心の領域にまで広げて「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:3)と言われた言葉も告げたに違いありません。そしてイエス様が十字架にお架かりになるまでの苦しみを伝えたに違いありません。
それでもユダヤ人たちはイエス様を救い主キリストと認めようとはしませんでした。預言者イザヤが告げた「神の僕」の預言はユダヤ人であれば良く知っていたはずです。それなのに彼らの耳は塞がれ、目は見えないようにされていました。
ユダヤ人たちが自分たちの殻から出ることができなかったのは、パウロの言葉に耳を傾けなかったからです。多くの人が感動してパウロの言葉を熱心に聞いているその場にいながら、彼らは自分たちが変わろうとはしませんでした。パウロは旧約聖書の律法の書や預言者の書から説き明かしているのですから、彼らこそ一番よく理解できたはずでした。
パウロはそのようなユダヤ人たちに審きの言葉を発しました。46節です。
「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。」
それを聞くとユダヤ人たちはパウロたちを迫害してその地方からに追い出しました。それでパウロたちは足の塵を払い落として、次の宣教地に向かいました。一方、キリストを信じ弟子となった人々は喜びと聖霊に満たされたと記録されています。
先ほど司式者によって読まれたイザヤ書5章1節から7節の預言者イザヤの言葉にも主なる神の審きが書かれています。ぶどう畑を手入れし良いぶどうを植えて世話をしたのに、実ったのは酸っぱいぶどうでした。ぶどう畑はイスラエルとユダであり、世話した人は主なる神です。主の裁きを聞かなければ滅びに向かいます。悔い改めて主に立ち帰る機会はいつでも備えられています。
神の審きは厳しい。私たちはキリスト者といえどもこの裁きから逃れられません。私たちは神の審きを軽んじてはなりません。神は正義を曲げることはなされないからです。
しかし神の正義は計り知れないことを私たちはイエス様の十字架に見るのです。神は私たちを滅ぼす代わりに御子をこの世にお遣わしになりました。御子イエス様は罪人として十字架にかけられることによって私たちを滅びから救い出してくださいました。そして今も私たちを父なる神に執り成してくださっています。私たちに聖霊を降し私たちがイエス様の恵みと神の愛を忘れないようにしてくださいます。
滅びの道ではなく主の道を歩もう
滅びの道を進む者がなんと多い事かと悲しくなります。自分を省みて主の道から外れているならば主の道に立ち帰りたいと思います。私たちの周りには神を侮り、軽んじる人々がいます。その人々は自分が信じているものが真実だと思い込み、神の言葉を聞こうとはしません。そして神を信じる人々をなんとか自分たちの側につけようとします。その力に負けてはなりません。
聖書の言葉に養われ、祈るならば、神は私たちを守ってくださいます。それが神の正義です。主を信頼し、主に従って日々を歩んでまいりたいと願います。