9月11日礼拝説教「無償の愛がある」

聖書 ホセア書11章8節~9節、コリントの信徒への手紙一・12章31節b~13章13節

老人とは

本日は敬老感謝礼拝をおこなっています。敬老感謝とは老人に敬意を表し感謝するという意味ですが、感謝をささげる相手は主なる神であることは間違いありません。私たちは、これまで生かされてきたことを主に感謝したいと思います。高齢者はいろいろな経験をし、いろいろな困難を乗り越えて今日があります。ですから、あるカトリックの神父は高齢者を老人ではなく「超人」と呼ぶことをある本の中に書いています。この言葉は奇抜ですが、老人は経験や知恵を持っていることや、欲望に身を任せることが少なくなってきたことなどを考えると「超人」というのもあながちおかしくはないと思えます。何しろ「老人」よりも「超人」の方が肯定的なイメージがあります。

敬老の日祝日の起こり

日本では9月第3月曜日は敬老の日の祝日です。敬老の日の起こりを調べてみますと、戦後2年目の1947年に兵庫県のある村で農閑期の9月15日におこなわれた「敬老会」が始まりとされています。その趣旨は「老人を大切にし、お年寄りの知恵を借りて村づくりをしよう」というものでした。高齢者の経験と知恵を村おこしに役立てたいということです。ここには高齢者を大切にするという思いが込められているように思います。当時の高齢の人たちは子どもを戦争で亡くして辛く悲しい時を過ごしていたそうです。

この村での催しが次第に広まり、1963年に老人福祉法が制定されました。その趣旨は「国民の間に広く老人の福祉についての関心と理解を深めるとともに、老人に対し自らの生活の向上に努める意欲を促すため、老人の日及び老人週間を設ける」というものでした。そして1966年に「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う日」として9月15日が祝日に制定されました。今日(こんにち)では9月第3月曜日が敬老の日の祝日になりました。

聖書が語る老人

さて、聖書は老人についてどのように語っているでしょうか。

箴言20章29節には「白髪は老人の尊厳」という言葉があります。白髪は老人の象徴ですが、それは尊厳のしるしだというのです。また箴言22章6節には「若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう。」という言葉があります。歩むべき道とはイエス様が言葉と行いで教えてくださった主の道です。詩編1篇には「いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人」という御言葉があります。これが主の道です。このことを知っている人は老人になってもその道から逸れることはないでしょう。

さらに、イザヤ書46章4節には「わたしはあなたたちの老いる日まで 白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」という御言葉があります。主は私たちをいつまでも支え、私たちが歩けなくなれば背負ってくださると言われます。聖書にはこの他にも老人に関して多くの御言葉が書かれています。

神の無償の愛

先ほど司式者によって読まれた聖書の御言葉から、老人に対する神の愛について考えたいと思います。コリントの信徒への手紙1の12章31節後半から13章13節に最高の道が明かされています。それは無償の愛です。

無償の愛とはイエス様が十字架でお示しになった愛です。我がままで利己的な私たちを父なる神に執り成してくださったイエス様の愛です。この無償の愛(アガペー)を本田哲郎神父は「人を大切にすること」と訳しています。例えば13章7節を『「人を大切にする」とは、すべてを包み込み、なにごとも信頼してあゆみを起こし(信仰)、すべて確かなことに心を向け(希望)、どんなことにもめげずに立ち続けることです』と訳しています。本田哲郎神父については多くの方がご存じだと思いますが、この人はローマ教皇庁の聖書研究所に留学した後、フランシスコ会の日本管区長に選ばれた人でしたが、大阪の釜ヶ崎で路上生活者にイエス様を見て、そこに住み、その人たちの友となって働くことを選んだ人です。

本田神父はその経験や路上生活者の人たちと交わっていくうちに、「小さくされた者の側に立つ神」という視点を持つようになりました。「小さい者」ではなく「小さくされた者」です。本田神父は次のように語りました。

『社会そのものがその人を押し込めたり、選択肢を奪ったりして小さくしてしまっている。それは病気についても、体の障害についてもそうです。その人が小さいわけじゃなくて、社会がその人を自由に動けない状態にしてしまっているだけのことです』

老人になり体が動かなくなったり記憶力が衰えた人も「小さくされた者」に入るのではないかと私は思います。

本田神父は続けます。

『何にもないからこそ、何が本当は必要なんだ。何を先にやってほしいんだ、という小さくされた人たちに聞くことから行動を起こすべきです。「貧しいことが良いこと」なんじゃなくて、「社会的に小さき者でいることが神に近い存在だ」と言っているんじゃなくて、「小さくされているが故に、どうなればもう少しゆとりを持てるようになるか。もっと豊かさを共有できるか。それを小さくされている人は誰よりもわかっている。それを聖書は言っている。まさに一番小さくされた者を通して神様が働いているよ。だから小さくされている仲間は勇気を持って立ち上がろうね」と言っているということです。』

このような言葉です。本田神父は釜ヶ崎で働いていて路上生活の人たちから何度も気遣われた、そのことでとても気が楽になった、という経験を語っています。お世話する人がお世話された人から慰めを受けたのです。それはイエス様がそこに居られることを発見したことだったそうです。

老人は神の無償の愛を受けるに相応しい存在

コリントの信徒への手紙一の13章に書かれている「最高の道」は無償の愛です。そしてその愛を受けるに相応しい人は小さくされた人々であります。歳をとり体が不自由になったり、記憶力が衰え、小さくされた人々の側に神がいてくださいます。

敬老の日の制定の趣旨と主がパウロを通して教えてくださったことには違いがあることに気がつきます。「敬老の日」の趣旨は老人に経験や知識といった知恵があることが前提となっているのに対し、イエス様の教えは高齢となり小さくされた人の側に神がおられるという無条件の無償の愛であるということです。

歳を重ねていくと若い時にはできていたことが次第にできなくなっていきます。そういうときに自分を責めたり、落ち込むのではなく、神に祈り、近くにいる人に何をしてもらいたいかを伝えることが大切なのだそうです。「サービスする側にではなく、サービスを受けねばならない側に、主はおられます」。主の無償の愛は弱い者、小さくさせられたものに限りなく注がれるのです。

ホセア書11章に記されているように、預言者ホセアは神が決してイスラエル(神の民)を見捨てないことを告げました。小さくされた人々の側に神は立たれています。

私たちは老いることを悲しく思う必要がない事を知らされます。そのことを信じている人が「超人」なのかもしれません。神の無償の愛は老人に、体の不自由な人に、精神に障害がある人に豊かに注がれるのです。