聖書 列王記上21章1~3節、ガラテヤの信徒への手紙1章6~9節
真理は人を自由にする
ある人から「いろいろな教えがあるけれども、どうやってそれが真理だと分かるのですか」という質問を受けました。「聖書は神の言葉を語っているというけれどもそれは本当だろうか」と考えることは必要なことだと思います。まず確認したいことは、真理は知識ではないということです。あるテレビ番組でクリスマスの茶の湯という番組が放送されていて私はそれを見ました。その茶の湯では席亭が出エジプト記に鶉(うずら)の大群が来て民の飢えを凌いだということが書かれているという説明をして、鶉に関係する菓子が出されました。これは聖書に書かれていることを文字通りに理解しても真理には至らないことの一つの例です。
み言葉についてよく考え、黙想し、神さま居られるのであれば応えてくださいという願いをもって祈ることによって、私たちは真理を受けます。真理は神からの啓示であって、それは人を自由にします。イエス様は「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネによる福音書8章32節)と教えました。また、イエス様は「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(マタイによる福音書11章5節)と言われました。この言葉は真理に出会った人々がそれぞれの抱えていた束縛から自由になったことを示しています。真理を受けると、人は自由になります。社会や周りのしがらみにとらわれて自由に判断できなかった人が自由に判断できるようになります。欲望のとりこになっていた人が欲望から解き放たれるようになります。
自由は放縦とは違います。何をしても良い自由ではなく、自分で自分の人生を選択する自由です。ですから私たちは神さまの御旨に従うように自分の人生を選択する責任があります。
ガラテヤ地方の人たちに起きたこと
ガラテヤ地方の信徒たちにもパウロが伝えたキリストの福音によってこの事が起こりました。使徒言行録13章にパウロの説教が記録されています。この説教を聞いた多くの人々が信仰に入り、福音がガラテヤ地方一帯に広まりました。この人たちは福音を聞いてキリストを信じ、自由になったのです。このことは現代でも起きる出来事であり、ここにお集まりのキリスト者はお一人お一人がその証人であります。
福音の真理を妨げるもの
「真理はあなたたちを自由にします」。ところがそのことを体験し、喜んでいたガラテヤの人々が、パウロに反対する人々の教えを聞いて福音から離れようとし始めたのです。
俗に言う洗脳は、英語でmind control(心の支配)と言うように、人の心を支配し思考停止に追い込んで、ある事柄を真実であるかのように信じ込ませることですが、それによって人は束縛を受けるようになります。自分で考え、自分の人生を選ぶのではなく、言われたように行動するようになります。
ガラテヤの信徒たちは原始キリスト教の発祥地であるエルサレム教会から来たユダヤ人キリスト者が、エルサレム教会の権威を振りかざして、割礼を受けなければ神の祝福を受けられないと説く言葉によって、いわば洗脳されようとしていました。
それは啓示された福音ではなく、文字に書かれた律法の知識によるものでした。このことによって同じキリスト者でありながら割礼を受けた者と、割礼を受けなかった者の間で分断が起きてしまいます。そこに新たな束縛というか、個人の自由が制限される状況が発生しました。
ここから本日与えられた御言葉に入っていきます。まずはガラテヤの信徒への手紙をご覧ください。
パウロはガラテヤ地方の教会の状況をコリントという町に滞在している時に人づてに聞き、大いに怒(いか)りました。パウロは6節に「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています。」と書いています。これは怒りだけではなく、ガラテヤ信徒たちがせっかく得た自由を放棄しようとしていることに対する落胆も感じられます。
7節にあるように「他の福音」はありません。また「別の福音」もありません。あるのは「キリストの福音」のみです。真理はキリストの言葉と行い、すなわちキリストご自身によって明らかにされ、それを受けた人々が自由にされる、解放される福音のみです。人が自由にされることから、この福音が真理であることが分ります。
パウロは8節で「キリストの福音以外のものを告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」と最大の裁きの言葉を書いています。しかもこれを2度繰り返しています。2度目は「あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい。」と、ガラテヤの信徒たちを惑わす人々はエルサレム教会に属するキリスト者であっても神の裁きを免れないことを告げています。つまりパウロは割礼を受けなくても、福音の真理を受け自由にされることを、ガラテヤ信徒たちに伝えています。
ところで裁きの言葉は、それを聞いて悔い改めさせるためのものであり、滅ぼすことではありません。裁きの言葉に耳を傾けて、福音の真理がキリストにあることを信じるならば裁きから免れることを知っておきたいと思います。
旧約聖書の列王記上のナボトのぶどう畑の出来事に聞きたいと思います。これは神に与えられた土地という比喩で福音を表していると解釈することができます。王はナボトのぶどう畑を手に入れたくて、破格の好条件を提示しました。ナボトが希望すればどんな土地だって手に入れることができたでしょうし、大金を手に入れることもできたでしょう。しかしナボトは神から与えられた土地は売ることができないと王の申し出を断りました。
ナボトはただ一つのものを大切にしました。それは神から与えられたものでした。パウロの告げるキリストの福音の光に照らすならば、ナボトは神との正しい関係において自由であったといえます。ナボトは王の妻に策略で殺されてしまい土地は王のものになったのですが、王と妃はその罪の代償を支払い、とても惨めな死に方をしました。
自由な人
まばたきの詩人と呼ばれる水野源三さんという詩人がいました。彼は小さい頃に罹った病気のために全身が動かせなくなり、残されたのはまばたきだけでした。彼ほど不自由な人生を生きた人は少ないと思います。しかし彼はキリストの福音を得て、自由になった人でした。彼がまばたきで紡ぐ詩はキリストを讃えるもの、キリストを求めるもの、キリストとの対話です。それは体や心が不自由な人々を励まし、健常者に生きる力を与えました。そして今でも読み継がれています。
原崎百子さんという女性は幼い子どもを残して44歳で(1978年に)天に召されました。彼女は子どもたちに神さまの愛を伝える詩を残しました。
愛する子どもたちへ
あなたがたは信ずるだろうか。
この母があなたたちをこよなく愛していることを。一人ひとりを、どの一人をもかけがえのないものとして、こんなにも切ない思いで愛していることを。
あなたたちを、この体の中ではぐくみ、父と共に、感謝と喜びをもって、迎え、抱き、育て、力を合わせていつくしんできたことを。
あなたがたが、この母の愛をもし信ずるならば、どうか信じて欲しい、神様の愛を信じて欲しい。一人ひとりをかけがえのないものとして、いつくしんでいてくださっている神さまの愛を、信じて欲しい。
たとい、お母さんが天に召されても、それでも、あなたがたが信じ続けられるように。悲しみを乗り越えて生きていけるように。
覚えてほしい、私の愛は小さな支流、神さまの愛こそが本流であると。
去っていかなければならない母が伝えたのは神さまの愛、これこそキリストの福音の核心です。彼女は死の恐怖という束縛から自由になっていた思います。子どもや夫との別れからも自由にされていたのではないかと思います。これは地上の別れを何とも思わなくなった、ということではありません。別れの悲しみや残される子どもたちのことを案じない親はいません。それでも、彼女はすべてを神さまに託しています。彼女にはすべてを託すことのできる神さまがおられたのです。
福音に何も付け足さず、福音から離れない
キリストの福音を聞いた人は自由になります。これこそ救いです。それなのにもし他の福音や別の福音と見えるものを求めるならば、せっかくキリストの福音をいただいていても、再び自由ではなくなります。私たちに必要なものはただひとつ、キリストの福音なのです。それは真理であり私たちは自由にされるのです。