9月25日礼拝説教「与える喜び」

聖書 申命記15章7~11節、コリントの信徒への手紙二・9章6~15節

素敵な思い出と苦い思い出

私が会社員時代、徹夜明けの朝に自転車で家に帰る途中、雨に降られて小さな川のそばにあるあずま屋風の建物で雨宿りをしたことがありました。そこにはホームレスの方がいて、何とはなしに話を始めました。その人はその場所から見る朝焼けの美しさを話してくれました。私はその情景を思い描いて、きっと奇麗だろうなと思いました。そこは小さな崖のふちを流れる川で、崖から川にかけて木々が茂っている場所です。小鳥も沢山いますから、きっと朝の静寂な時間に鳥たちの声や川のせせらぎを聞いて、その時間を楽しんでいたのではないかと思いました。私は雨が小降りになったのでその人と別れました。そして二度と会うことはありませんでした。しかし、私はその人と心が通じ合ったと思いました。

もう一つの、こちらは少し苦い思い出があります。教会で奉仕をしていた時、ある若い女性が入ってきて子どものミルク代がないからお金を貸して欲しいと頼まれました。私はきっと寸借詐欺のたぐいだろう、返すと言っているがお金は返ってこないだろうと思って、わずかな金額を渡して帰ってもらいました。しかし今日の御言葉を読んで思い返してみると、私はその時なぜ持っていたお金をすべてその人に渡すことができなかったのだろうと思ってしまいました。電車賃も含めて全てを渡すことを話してお金を渡すことができたならば、その女性は「収穫があった」と思う以上に「これはどうしたことだろう」と驚きを覚えたのではないかと思うのです。女性が本当に大変な状態で私の目の前にいたことを思い出してそう感じました。私の財布に大金は入っていませんでしたので全額を渡しても何とかなりましたし、1時間くらいの道のりを歩いて帰るくらいの苦労ですむものでした。もし私が「すべてを渡す」という言葉をかけてお金を渡したならばその女性はこのことを印象深く覚えていたことだろうと思います。それは神さまの愛に触れるきっかけになったかもしれません。惜しんで渡したことで、神さまの愛を伝えることができなかったという悔いが残ります。もちろんそのようにしたからといってその女性が神さまの愛を知ることができたかどうかは分かりません。もしかしたら味をしめて何度も来るようになったかもしれません。しかし少なくともその女性との関係は続いたでしょう。それはその人が神さまの愛を知るきっかけになったかもしれません。

心のままに惜しまず蒔く

パウロは「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかです」(Ⅱコリ9:6)とコリントの信徒に書いています。私は先ほどの苦い経験を思い出して、惜しんで渡すのは渡さないのと同じだと思いました。刈入れが僅かであることは間違いありません。神は決して惜しまれません。すべてを与え尽くします。独り子である御子ですら私たちに与えてくださいました。

「惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」(Ⅱコリ9:6)という言葉をどのように聞くかは私たちの課題だと思います。というのは、「豊かなものを刈入れようと思うなら惜しまず豊かに蒔くがよい」と理解すると、これは収穫を当てにするという動機で行動することになります。しかしイエス様の言葉と行いを思い出してください。人々が「十字架につけろ」と叫んでいる中で、すべての人たちのためにご自分をすべてささげられたのです。このことを考えると「惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」という言葉はイエス様がお示しになったような、神に信頼することを表しているのだと思います。豊かに刈入れてくださるのは神さまであり、そのように私たちを用いてくださることを信じることなのです。

パウロは「こうしようと心に決めたとおりにしなさい」(Ⅱコリ9:7)と私たちに勧告しています。イエス様に倣うならば私たちは自分の意志で惜しまずに豊かに蒔くことを選ぶでしょう。それは私たちが貧しくなることではありません。私たちがすべてを与えて生きられなくなることではありません。

ハウを貯めると体が弱る

イエス様は「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。」(ルカ6:38)と言われました。惜しみなく与えることは惜しみなく与えられることです。これは皆さん、にわかには信じられないことかもしれません。与えれば減ると考えるのが普通の考え方でしょう。あるいは一方的に与えるのではなくそれに見合う対価を求めるというのがこの社会の仕組みだと思います。

しかし受け取るばかりだと体に悪いという考えが20世紀前半に活躍したフランス出身のマルセル・モースという社会学者、文化人類学者によって紹介されています。本の題名は『贈与論』というものです。この中にマオリ族の社会におけるハウという概念が解説されています。何かをもらうともらった人の中にハウが生まれます。そしてこれを持ち続けていると死ぬというのです。ハウを動かすことをしないと体に悪い。このような理解からマオリ族は漁や狩りをして贈り物をし続けるのだそうです。そして与えたら与えられるわけです。皆がハウを自分の中に貯めておかないようにするのですから、その社会の人々は贈り物によって必要なものが手に入ります。

大きな循環の中で、与えたら与えられることが起こります。「恩送り」という言葉があります。英語ではペイ・フォワード。ある人から受けたものを、また別の人につないでいくことです。恩送りは恩返しとは違います。恩返しは恩を受けた人にお返しをすることですから社会的な広がりはありません。恩送りは期待せずにおこないます。イエス様が「明日のことまで思い悩むな」(マタイ6:34)と言われたのはこのことかもしれません。

教会はイエス様の体です。教会が与えることをせずに所有していればこの体が悪くなります。私たちはこの地域を必要としています。だけどこの地域は私たちを必要としているでしょうか。もし明日、私たちの教会が無くなったとしたら、この地域の誰が本当に残念だと思ってくれるでしょうか。無くなっては困ると思ってくれるでしょうか。

申命記で「この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」と神が命じるように貧しい人々は神の愛をまっさきに受ける権利を持っています。富める者は惜しみなく与えることを心掛けなければなりません。この言葉を聞いた人々はエジプトを出て40年間荒野を旅した人たちでした。きっと持ち物は僅かだったでしょう。皆が貧しい中で一番貧しい人を助けるようにと命じるのは、そのことによって自分も生きられるようになるためです。

私たちはこの地域とつながりを持つために、与える教会を目指したいと思うのです。そして10月8日土曜日のチャペルコンサートはその具体的な一歩です。クリスマスのいろいろな活動もそうです。これを実現するためにお役を担う人は一所懸命に奉仕しておられます。みんなの目には見えないところで、それこそイエス様が「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイ6:3)とおっしゃったとおりに行っておられる方が何人もおられます。私が知り得ないところで奉仕してくださっている方がきっと何人もおられることでしょう。

教会はこの地域を必要としています。この地域にいる人々を必要としています。その方々と出会うために、教会は与え続けるのです。それは結局、教会が与えられるということです。私はこの教会に献金をしてくださる教会員以外の方がおられることをお伝えしたいと思います。私たちは与えていますが、受けてもいるのです。

私たちを放ってはおかれない神さま

私たちは信じます。すでに神さまは私たちに命を与えてくださっています。与えることは人間の根源的な喜びです。私たちが与えることは回りまわって与えられることなのです。与えずにいるとキリストの体である教会は弱ってきます。与え続けてどうなるのかと心配しなくても大丈夫です。与える者を放っておく神さまではありません。私たちはイエス様こそがすべてを与えたお方であることを知っています。そしてそのイエス様を父なる神はよみがえらせてくださいました。私たちの教会も私たち自身もこのようになるのであります。この事を信じて教会は日々歩んでいくのです。