10月2日礼拝説教「救ってくださるキリスト」

聖書 出エジプト記12章21~27節、ヘブライ人への手紙9章23~28節

生きること、死ぬこと

今週は三遊亭円楽さん、アントニオ猪木さんという私たちにとっては非常になじみ深い方の死の報道に接しました。三遊亭円楽さんと言えばお茶の間でおなじみの笑点で、とっても面白い受け答えをしていて私はよく見ていました。またアントニオ猪木さんといえば力道山の弟子としてプロレスという格闘技を日本人の間に広めた人だったと思います。「死」というと悲しいイメージしかありません。報道では「亡くなった」という表現でしか表されていないので悲しみしかないのですけれども、一方から見ますと、神様の所に行ったのであります。この地上から一人が取り去られますと天上に一人が増し加えられます。

パウロはフィリピの信徒への手紙で「私にとって生きるとはキリストであり、死ぬとは利益なのです」と言って、生きることは素晴らしくて死ぬことは終わりなんだという風には考えていませんでした。これはイエス様が教えてくださった神の国の信仰があるからだと思うのです。肉において生き続ければ、実り多い働きができるでしょう。しかし神のもとで安らぎたいという思いもある。それだけパウロは熱心に伝道していたと言えると思います。今年度の教会聖句の「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」(Ⅱテモ4:2)とは、折りが良くても悪くても御言葉のそばに立ち、隣人のそばに立ちなさいということだと悟らされました。私たちがもし他の人たちの目に輝いて見えるとすれば、それは神さまの栄光が私たちをそのようにしてくださっているのであります。私たちは体が不自由だろうが、記憶力が落ちようが、活き活きと生きていくことができるのです。そのような生き方をしていれば生と死というのは乗り越えられないというほどの大きな深い断絶ではないということが分るのではないかと思うのです。

救いの出来事を子孫まで伝える過越祭(すぎこしさい)

今日与えられました出エジプト記12章21~27節は皆さんよくご存じの、エジプトから奴隷になっていたヘブル人たちを神さまが解放してくださる、エジプトから出発するきっかけになった最後の10番目の禍が書かれています。これは生と死の境の出来事です。犠牲の羊の血が塗られた戸口の内側は「生」、外は「死」です。神はヘブル人たちを奴隷の状態にしておく頑ななエジプト人の長子を撃つと言われて、そのようにされましたが、ヘブル人たちはそれから逃れることができました。謂わば救われたのです。

エジプトにおける主の救いを記念し伝えるというのがこの過越の祭りであります。聖書に「あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。」と書いてあります。それは「過越しを記念しなさい」ということです。そしてやり方までちゃんと書いてあります。それは子どや孫たちが記憶にとどめるようにする方法です。子どもたちが聞きます。「この儀式にはどういう意味があるのですか」。すると大人たちが答えるのです。「これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである」。こういう風に子どもたちに伝えるのです。これを毎年繰り返します。

執り成しておられるキリスト

ヘブライ人への手紙9章23~28節には難解な表現でキリストの救いが語られています。その謂わばエッセンスを取り出しますと、キリストは天に上られ今や私たちのために神の御前で私たちのために執り成しをしてくださっている、ということです。

キリストは世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました(26節)。世の終わりとは、イエス様がこの世界に来られた時がすでに世の終わりです。イエス様の到来によって世の終わりが始まったのです。世の終わりの完成はイエス様がもう一度来てくださる時です。それで今は世の終わりの時を過ごしているのです。それは神が私たちと共にいることを知る神の民がこの世にいる時です。それは教会の時であります。

イエス様は神に背く私たちのために、死ぬべき私たちに代わって死んでくださいました。それは私たちの罪をすべて覆い尽くしてくださるためです。私たちが犯した過去の罪をなかったことにするのではなく、その罪を益に変えてくださるのです。過去の失敗や判断の誤りを悔やむ私たちが、それで良かったのだと悟るようにしてくださる。今までの人生は失敗の人生ではなく、今の自分を造っているのだということを知らしめてくださるのです。これから先もそうです。私たちの失敗を益に変えてくださるのは神さまなのです。それはイエス様が天において私たちを執り成してくださっているから。今もなおそうなのです。

今日私たちは聖餐にあずかりますけれども、この主の食卓の場にいるということは主が共にいてくださって私たちを祝福してくださるということなのであります。

28節には「キリストは二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださる」と書かれています。私たちはこの希望に生きています。それは私たちが生きていようとも、死んで眠りについていようとも変わらない希望です。キリストが再び来られた時に私たちはよみがえらせていただけるのです。これを私たちは信じるのです。なぜ信じることができるか、神の愛がキリストを通して私たちに迫っているからであります。主イエス・キリストが私たちのために死なれたからであります。そして三日後に主はよみがえり私たちの初穂となられました。

だから私たちは心配ありません。生きていくことも心配ないし、死ぬことも心配ありません。死ぬことは神さまのところに行くことなのです。

主の晩餐に集い救いを記憶する

キリスト者は聖餐という主の晩餐に招かれ、食卓を共にし、パンを食べ杯を飲み干すのです。これは救いの記憶であるとともに、再び来たりたもう主を待ち望む思いを新たにするものなのです。パウロは「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」と語って主の晩餐の言葉を告げました。それは次の言葉です。

すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

これは私たちの記憶を新たにする、私たちが救われたことを思い起こすということであります。私たちは自分が救われたことを感謝するとともに、この晩餐に招かれても集えない人々がこの周りにいるということを悲しみとして受け取らなければいけません。空しいものを信じて苦労している人や、信じるものが見つからなくて迷っている人のことを思わなければならないと思うのです。その方々が信じる信じないは私たちの力によるのではなく、神さまの御旨によるのですけれども、その方々に御言葉を与え共に食卓につくことを祈らなければならないと思うのであります。それは「主イエス・キリスト、再び来てください」という祈りになるのです。このことを思いつつ聖餐にあずかりたいと思うのです。

ある人の証から

私は高校生の時に、同じ高校の一つ年下の友人がいました。ある日、彼が学校に行くときに、車に自転車の前輪を巻き込まれてしまうという事故がありました。彼はアスファルトに頭を打ちつけて、約1か月間、体を動かすこともなく、意識もなく・・・・・、そしてついにそのまま召されました。

家族は懸命に祈り、看病をしていましたが、回復することはありませんでした。彼の家族の献身的な看病を見ていた彼のお姉さんに友達がこう言いました。

「なんで、神様がいるなら、こんなに一所懸命の家族に、こんな酷いことをするのか。」この友は噴き出る想いを抑えきれずにその言葉を発したのでしょう。あるいはお姉さんが押し殺しているかもしれない言葉を代弁する思いだったのかもしれません。

そうするとそのお姉さんはこう返事をしました。「ありがとう。あなたの言葉を受け止めたいと思う。でもね、私の思いは違うの。私の心は例えるなら、海のようなの。表面は、荒波にもまれ、すぐに涙があふれ出るけれども、心の奥には、海の底のような静かな平安があるの。神さまが私の心を守ってくださっているの。」 こんなにも悲しい、こんなにも痛ましいことがあった。しかし神さまがこのお姉さんやご家族の心の奥に、誰にも取り去ることのできない深い平安を与えてくださっているのです。

この言葉を聞いたその友達は家の近くの教会を訪ね、求道し、洗礼を受けたそうです。

「恵みと平安が、ここにある」。生けるキリストの執り成しの祈りによって心が守られているところに、その平安の証から、福音を受け入れる人が起こっていくのです。イエス様の救いを信じ受け入れる時に与えられる平安、イエス様と結びあわされて得られる平安、そこに、もう、どんな否定的なものが来てもそれに支配されることはないのです。

こういう証しです。これこそが主にある平安。主が私たちのために執り成してくださっている。その平安がここにあります。

救ってくださるキリスト

私たちは聖餐にあずかる時、主が共にいてくださり、私たちに平安を与えてくださっていることを思って聖餐にあずかりたいと思います。これは神の民が共に生きるということであります。そしてまた、主イエス・キリストが再び来てくださるという約束を思い起こし、主を待ち望むことであります。さらには、この食卓にもっと多くの人たちが招かれて集うことを思い、聖餐にあずかりたいと思います。主は復活され、天に上られて、今もなお天の聖所で私たちのために執り成してくださっておられます。