10月16日礼拝説教「栄光と賛美」

聖書 イザヤ書25章6~10節、ヨハネの黙示録7章9~12節

苦しむ人々への福音

今日のイザヤ書の言葉と黙示録の言葉の背景は共通しているところがあります。それはどちらも神の民が迫害を受けている時に書かれた書物であるということです。神は迫害を受ける人々に勇気と生きる力とを与えてくださいます。イザヤもヨハネもそのことを告げました。
先日、私たちは大変恵まれたコンサートをすることができました。これは迫害を受けたということではありませんが、旧統一協会がらみの事件によって人々が宗教不信になっているという状況があります。人々は見えないものを信じて財産をすべて取られてしまい、家庭崩壊になるよりも、見えるものを信じて、それが空しかろうと生きていく方がいいじゃないかと思ってしまう人たちが大勢いるということです。しかし空しいものには結局頼ることができません。ある日突然私たちの人生は非常に深い底の所に落ちてしまうことがあるのです。ちょっと腰が痛いと思って病院に行ったら末期のがんであったというような時に健康を信じていた人はもうどうして生きていったらいいか分からなくなります。お金だって運用していて働かなくても収入があるような状況で「ああよかった」と言っている人が突然の暴落を受けて再建が紙くず同然になってしまう。「明日からどうして生きていったらいいんだ」というような状態になる。でも、そのことを考えられない、というか考えないようにするわけです。

それに対して私たちはいろいろな教えを比較検討してキリストの教えに従うことを決心したというよりも、キリストの教えに打たれて「人生、こういう風に生きていければいいな」というふうに思って、信じて洗礼を受けた方が多いんではないかと思います。私たちはこの世的なものではなくて永遠のものを求めて、その約束をいただいています。その約束を信じて私たちは生きています。主にある交わりを求めて生きています。私たちが完全ではないから交わりができないということはありません。傷のある私たちが主のもとで交わりの輪の中に入っています。神はその輪にすべての人を招いています。

イザヤが告げた福音

今日のイザヤ書の中でも25章6節には、「すべての民に」という言葉が書いてあります。また8節にも主は「すべての顔から涙をぬぐい・・・」と書いてあります。主はすべての人を招いておられる。この事を私たちは忘れがちです。一緒なんです。神さまが祝福されているのですから。その交わりは世間話をするということを一歩超える信仰による交わりです。これを私たちはすべての人と行うことができるし、それを求めることができるのです。神が言ってくださっているのですから。迫害を受けている民に対してだけ「あなたたちは救われますよ」とか「あなたたちの涙を拭ってあげますよ」と言っているんじゃない。すべての人の涙を拭ってあげますとおっしゃっています。

その言葉に民は応答しています(9節以降)。「人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。」と。旧約の民は「必ず救い主がやってこられる」と希望を持って待ち続けたのです。これこそが約束を信じる人たちの言葉です。まだ来ていないものをもう来ているかのように受け取って感謝する。これが私たちと神との関係にあるならば、それはもう神との交わりの中に私たちがいるということです。この交わりにすべての人が招かれています。

黙示録が告げた福音

ヨハネの黙示録も同じです。この頃はローマ皇帝とイエス・キリストのどちらが偉いんだ問題みたいなものがあったのです。ローマ皇帝にしてみると自分は神のような存在であり、当時の福音とは皇帝が生まれた日を告げることでした。それをイエス・キリストの救いだと言ったのが福音の新たな理解です。それは、イエス・キリストがこの世に来られた、イエス・キリストが父なる神を私たちに示してくださった、その神を信じる人たちを神の子にしてくださったことです。何の取柄もない私たちを神の子と言ってくださり、神の愛や恵みがすべて私たちに与えられるのです。

ヨハネの黙示録7章9節に「白い衣を身につけ」と書かれています。これは象徴的にイエス・キリストの十字架のあがない、それは血のあがないともいうのですが、イエス様の命によって真っ白に洗われた衣です。私たちが持っているすべての不完全なもの、罪と言い換えてもいいかもしれないものをすべて清めていただいてそれを身につけた者たちが神とキリストの前に集まるのです。そしてその人たちは賛美をします。10節に人々は叫んだと書いてあります。救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」。救いはどこから来るのか。それはこの世の空しいものではなく神から来ます。神から来る救いによって私たちは初めて心の奥底から平安を感じるわけです。私たちが人知れず見つめて不安に思っている心の奥の奥の深淵、自分でもどうしようもできないような所、そこにも神が来てくださり、その深淵を神の御力によって支えてくださいます。神は一番低い所で支えてくださいます。だからこそ私たちは平安でいられるわけです。

11、12節です。「また、天使たちは皆、玉座、長老たち、そして四つの生き物を囲んで立っていたが、玉座の前にひれ伏し、神を礼拝して、こう言った。アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、威力が、世々限りなくわたしたちの神にありますように、アーメン」。これはイザヤ書25章に書かれている、人々の賛美の言葉と同じであり、それをまた一つひとつ言っています。賛美は神を讃える、神の栄光をたたえる。その栄光は私たちを照らし私たちを輝かせます。知恵は知識とは違います。どのように生きていったら良いかについて、私たちが人生の道しるべとして知っているもの、また灯火として私たちがかかげているものが知恵です。全てのものに感謝できるようになります。迫害が起きている時にあっても主に感謝する、あるいは自分が生きていることを感謝するという心境になるのであります。それは神が共にいてくださるからであります。誉れは世の様々な誘惑に打ち克って、礼拝に出席し主を賛美することであります。1週間は168時間ありますけれど、そのうちの1時間、神さまの御言葉を聞き、私たちが神を賛美することによって、残りの167時間を活き活きと過ごせるのです。週に1回、ネジをキリキリと巻くような生活をしているわけです。

これを何とか伝えていきたいのであります。この喜びを伝えていきたいのであります。その時にただ私たちが努力するのではなくて「アーメン」、そしてここに書かれている言葉を神さまに向かってささげ、そして祈る。そして最後に「アーメン」(そのとおりです)と言って祈りを閉じる。そして行動するという生活を送っていくことが大切ではないかと思うのです。

日本の人々に告げられた福音

今や世界中でキリストの教えが広まっているところはヨーロッパやアメリカではありません。厳しい生活をしている人々のところ、アフリカや南米などで爆発的に増えています。それはその人たちが本当に救いを求めている状況があるからだと思うのです。弱い立場にある人たちを助けようとしている人たちを搾取している人たちが自分たちの利益のために暗殺するということが行われている場所で人々は救いを求めます。

日本にいる私たちはどうなのかというと、私たちの方がもしかしたら厳しいのではないかと思うのは、そういった差別や搾取が表面化しておらず、裏側で構造的に行われているのではないかということです。私たちが神に従っていくということは、ある意味で迫害を受けていると言ってもいいかもしれません。だから私たちが勇気を失わないように、私たちが信仰を失わないように神はイザヤとヨハネを用いて、今日、私たちのこの個所を明かしして、私たちが主を賛美し礼拝するように、主の栄光をたたえるようにと告げているのであります。私たちはこの言葉に従ってこれからの1週間を生き生きと過ごして生きたいと思います。