10月23日礼拝説教「限界をわきまえる」

聖書 ヨブ記38章1~11節、ルカによる福音書12章22~34節

神の創造を想う

今日から降誕前節に入りました。降誕前節というのは今日からペンテコステまでの間を「主なる神の時」として過ごす、そのスタートになる主日です。ですから今日読まれた聖書の箇所には世界の創造のことが書かれていました。ヨブに示された言葉を通してこのことを少し考えてみたいと思います。

まずヨブ記についてお話ししたいと思うのですけれども、ヨブほど熱心に、敬虔に神を求めた人はいません。しかしその人から家族が奪われ、財産が奪われ、健康まで奪われてしまいました。私たちには理解できないほどの苦しみ、体中がかゆくて夜眠ることができない苦しみです。もちろん今、病気で苦しんでいる人たちの中には夜も寝れないような苦しみを抱きながら生きていらっしゃる方もおられるわけです。その方と同じ苦しみをヨブは受けていたのです。

ヨブ記に書かれているテーマは敬虔で神に従う人がなぜそのようなことになるのかということであります。ヨブ記の概要を簡単にお話しします。ヨブは辛い状態にありましたけれども、その時に3人の友達がヨブの所へ駆けつけてくれいました。この3人はとてもヨブのことを心配してヨブのためになるとおもうところを色々とアドバイスしました。しかしヨブはその言葉を聞くよりも神さまに求めました。友達の言葉を簡単に言うと、「あなたがそういう風になったのは何かあなたが神さまに対して罪を犯したからだ。だからあなたはそれを神さまにお詫びしなければいけない。そうすればあなたは病気を癒していただける」というお話をするのです。だけどヨブは神さまからそれを聞きたいと願うのです。「神さま答えてください」、「神さま私の叫びを聞いてください」と言い続けるのです。でも友との論争の間にだんだん神さまが、自分と神さまとの関係ではなくて知識としての神さまになっていってしまいました。

苦難の人ヨブに応答する神

ヨブ記38章に沈黙していた神さまが初めてヨブに応答しました。この時に「私があなたにしたことはこういうことなんだよ」と言って欲しいと思うんですけれどもそうは言われませんでした。何と、ヨブに対して「これは何者か」と言われるのです。「知識もないのに言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは」。神の経綸とは神さまのご計画のことです。それをあなたは暗くする、と言われるのです。何と厳しい言葉でしょうか。「よし、よし」と言ってもらいたいという私たちの心があります。にもかかわらず、神はそのようには言われない。なぜそういわれるのかということが書かれているのですけれども、まず「男らしく腰に帯をせよ」と書かれています。これは気をしっかり持てということです。男らしくは勇者よという意味でもありますから、女性に対しても「あなたたちは勇者ですよ。だからしっかり立ちなさい」というふうに呼びかけます。そしてヨブに言ったことは質問の形で書かれていますけれども、結局のところ、「ヨブよ、あなたは私のしたことをすべて知っているわけではないだろう。この世界がどのように造られたかをあなたは見たのか」と言うわけです。「私が大地を据えた時おまえはどこに居たのか」とは「あなたは居なかっただろ」ということです。「誰がその広がりを定めたのかを知っているのか」とは「あなたは知らない」ということです。「誰がその上に測り縄を張ったのか。基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。」、「ヨブよ、あなたは知らない」と言われているのです。にもかかわらず「神はこういうお方だとなぜ言うことができるのか」という神の問いかけがあります。またヨブに対する父親的な愛がここにあります。人が苦しみ悩んでいる時にやさしく包み込んであげる母親のような愛も必要です。だけど、そこから一歩踏み出すためには励ます父親的な愛も必要であります。神は母親的な愛も父親的な愛もお持ちであります。今ここでヨブに必要だったのは父親的な愛、ヨブを励まして今いるところから立ち上がらせるということが必要だったのであります。

そして、その創造の時に造られた星はこぞって喜び被造物は皆、喜びの声をあげたのです。これを神さまはヨブに示しました。ここから海のたとえ話が出るのですけれども、海が出来上がった。そして海に限界を定められた。それはちょうど陸地があって海岸があって、そこから上には水が行けないということです。そういった限界を定められました。「ここまでは来てもよいが越えてはならない。高ぶる波をここでとどめよ」というふうに言われました。それで創造の秩序が生まれたのです。

鳥を養い野の花を装わせる神

ルカによる福音書12章も謂わば同じようなことを言っているところがあります。私たちは食べるもの、着るものでいろいろと思い悩むわけですけれども、神さまは烏すなわち小鳥を見なさい、この小鳥にも限界を定めておられます。小鳥は自分がいま必要なものを探して食べる。しかもそれは小鳥が自ら蒔いたものでもなければ刈入れをしたものではない。今あるもの、今そこに備えられているものを食べて生きている。しかもそれで不満を持って生きているわけではないのです。一所懸命生きている。一所懸命生きるという鳥の務めを果たしているというふうに言ってもいいかと思います。その烏よりも私たちはとても価値があるというふうに言っています。「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」。寿命を延ばすことを「こんな小さなこと」というふうに言います。神にしてみれば私たちの寿命を延ばすことはたやすいことでありますけれども、それは私たちにしてみればどうしようもないことです。色々な健康食品を食べたり、体に良いものを食べたり、運動をしたり、いろいろなことをして一日でも健康でいようと私たちはするわけで、努力すること自体はいいことなんですけれどもそれによって寿命が延びているということではありません。私たちの寿命は私たち一人ひとりが思い悩んだからと言って延ばせるものではありません。だいたい、いつ死ぬか、どこで死ぬか、どのようにして死ぬかということは私たちには明らかにされていないわけです。それはなぜかと言えば、命は神さまのものであるから、神が私たちに命を与え、私たちから命を取り去る、そして神のもとに戻させるということだからであります。私たちのものではないのです。私たちのものではない命を私たちは思い悩んでいる。これが私たちの苦しみであります。だからと言って解脱と言うか理想郷のような所に私たちが行けるわけではありませんから、この現実の中で私たちはいろいろな悩みを持ちながら生きていくわけです。でも、その悩みは決して希望のない悩みではないのです。必ず神の希望があります。どんなに私たちにとって分からないことがある、未来が分らないから苦しい、ということがあっても神は必ず私たちを導いていてくださる。なぜなら命を与えたのは神であるからであります。そしてなぜ命を与えられたかといえば私たちを愛しておられるからであります。私たちを愛して導いておられるから、だから私たちは安心してついて行くことができるのであります。

ソロモン王と野の花を比較するというのは普通はあり得ないことです。普通はあり得ないものをここで比較することによって、私たちに見えてくることがあります。ソロモン王といえば旧約聖書に出てくるエルサレム神殿を建てた王であり、立派な宮殿に住んでいた王であり、後々まで人々が噂するほどの素晴らしい統治であった。人間的に言えば非常に成功した人といっていいかもしれません。その人が野の花と比べられた時に、神は野の花の方が素晴らしいんだと言われています。「明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる」、きれいな花を咲かせてくださる。誰も手入れしない野の花ですらきれいな花を咲かせるのであります。それは野の花が自分の限界の中で生きているからであります。渡辺和子さんというシスターは「置かれた場所で咲きなさい」と言われました。これこそ野の花が動けもしない、日照りにあっても隠れることもできない、という中にあってきれいな花を咲かせる、このけなげな命を見ているからです。ソロモン王の成功と野の花のこのけなげな生き方、この二つが対比された時に、野の花の方が素晴らしいと言われる。ここに私たちは発想の転換、生き方の転換を見るのです。私たちが目にするものは成功者の姿であり偉人の姿ですけれども、そうではなくて私たちの近くで一所懸命働いている人たちの方を見なさいというふうにイエス様は言っておられるのではないかと思うのです。ですから、ここにいる私たちもそういう風に神様は見てくださっているということなのです。私たち一人ひとりも謂わばスポットライトが当たった人生ではないかもしれませんが、一所懸命生きてきたことを神さまに感謝する人生を私たちは与えられています。

ただ神の国を求める、ということ

「ただ神の国を求めなさい」。ただ神の国を求めるということは私たちに必要なものがそこにあるということなのであります。「そうすれば、これらのものは加えて与えられる」と書いてあります。これは「増し加わる」ということです。私たちにどんどんプラスされていくのです。そのことに私たちが気づけばよいのです。そのことに気づくかどうか。私たちが歩む平凡な人生にいろいろなものが与えられている、恵みが増し加わっています。しかもそれは物質的なものだけではありません。特に大事なのは霊的なものであります。交わり(communion)ということ、暖かな交流ということです。一人ひとりがお互いのことを思いやって他者のために何かをする。回りまわって他者から何かをしてもらう。そのような暖かな交流の中に私たちがいるということです。これは「神の愛」ということができます。

洞爺丸での愛の出来事

私はこの個所を黙想していてなぜだか洞爺丸という船で宣教師が自分の救命胴衣を日本人の若者に渡して、そしてその人は結果として遭難してしまったことを思い出しました。これがどういう意味を持つのか、私は思い巡らせてみました。簡単に洞爺丸事故のことをお話いたしますと、1954年9月に台風によって青函連絡船洞爺丸が沈没した海難事故です。これはタイタニック号に次ぐ世界第二の海難事故です。カナダとアメリカから来た宣教師がその船に乗っていました。一人はアルフレッド・ラッセル・ストーンさん52歳、もう一人はディーン・リーパーさん33歳。この二人は船が座礁して沈没しそうな時に、自分たちは救命胴衣を着けていたのですが逃げ出すのではなくて、救命胴衣をつけられない日本人を見つけたらその人たちのために救命胴衣を次々に着けてあげたそうです。そして救命胴衣を着けていない青年がいた時に「あなたはまだ若い。これから日本のために働きなさい」というふうに言って、自分が身につけていた救命胴衣をその人に渡して、結果としては神の御旨に従って亡くなりました。このことは生き残った青年の親族が新聞社に伝えて明らかになりました。それで当時は大きな話題になりました。この子供たちが成長して父親のことをこのように言ったそうです。「生前、困っている人がいれば必ず助けた父だった。船内で父がしたことは 少しも驚かないし、誇りに思っている」。また伴侶の方は青函連絡船が沈んだ津軽海峡の所に行って「船が沈んだ海がこんなに静かとはうそみたいです。今日は平和のために祈ります。」と言ったそうです。この宣教師のしたことは神の愛の行為であります。

神の愛の内に居続ける

私はなぜこのことを頭に描いたのかと考えました。限界をわきまえるということとこの事はまったく関係ないように思えました。そして思い至ったのは、「私たちは神の愛の中にいるのだ。それが私たちのいる場所なのだ」ということに思い至ったのです。そこが限界なのです。この限界を超えない。私たちが神の愛の中にいる時に私たちは一番幸せなのです。命を惜しむことよりも神の愛に従うこと、これは私たちにできることではないけれども、本当に命を捨てるということでなくても神の愛の中に生きることは私たちにもできるのであります。豊かな交わりを作ろうとすることは私たちにもできることです。偉くなることでもなく、金持ちになることでもなく、有名になることでもなく、豊かな交わりの中にいること。これが私たちに与えられている限界であります。

私たちはこれを軽々と超えられる自由を神さまから与えられているからこそ、私たちは烏よりもある意味で不幸なのであります。私たちは海よりも大変なのであります。私たちがその中に居ようという意思を持ってそこに居続けるということの中に、神の愛が私たちにあふれてくるのであります。この私たちに与えられている神の愛、これは烏にも海にも全てのものに与えられているものでありますけれども、私たちがそれを踏み越える時に戦争が起き、環境が破壊され、地球温暖化という方向に向かい、私たち自身を滅亡へと向かわせてしまうのであります。

愛のうちにある豊かな交わり

今日、ヨブに言われた神の言葉「これは何者か」、「あなたは何者か」を思い出さなければなりません。私たちは覚醒していなければいけないのです。そのために私たちは礼拝に出ますし、神様に祈りますし、神様を讃えるために歌を歌うのであります。

私たちは神が定められた限界の中で生きていくことをもう一度心の中に思い起こしたいと思うのであります。そしてその愛によって豊かな交わりの中で祝福された日々を歩みたいと思うのであります。