聖書 エレミヤ書33章14~16節、ルカによる福音書21章29~33節
今日からクリスマスを待ち望むアドベントが始まりました。アドベントは「到来」という意味を持つ言葉です。そしてキリスト教会の暦では今日から新しい年が始まります。これからの新しい一年間も神さまに従って歩んでまいりたいと思います。
さて、そもそも、なぜクリスマスを待ち望むのかについて振り返ってみたいと思います。小さい子どもにとって、クリスマスはプレゼントをもらえる日であったり、普段はガミガミ言う親が優しくなる日です。1年にこの日だけは特別な日です。キリスト者ではない家庭でも、クリスマスにプレゼントを贈り、家族が仲良くするのは興味深いことです。これはクリスマスの起こりに関係しています。クリスマスは神さまからの特別なプレゼントが私たちに届けられた日だからです。神さまが私たちのために救い主をこの世界に贈ってくださいました。それがイエス様でした。私たちはイエス様がお生まれになった日としてクリスマスをお祝いします。
救い主到来の約束
イエス様は神さまの言葉、ロゴスとして永遠の昔から神さまと共におられたのに、神の身分に固執せずに人間と同じ者になられました。マリアを母として、この世に人間の姿で現れました。イエス様は神を父と呼び、父なる神にへりくだって、十字架の死に至るまで従順でした(フィリ2:6-8)。
旧約聖書には救い主がこの世に現れることを預言する言葉がいくつも書かれています。先ほど読まれたエレミヤ書33章14節から16節も、救い主が現れるという預言の箇所です。
14節に「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束(良い事)を果たす(起こす)日が来る、と主は言われる」と書かれています。「恵みの約束を果たす日」と訳されている言葉は直訳では「良い事を起こす日」です。その良い事というのが人類の父祖アブラハムを神が祝福した約束であるということで「恵みの約束」と訳されているわけです。神はすでに人間に「良い事を起こす」ことを預言しています。その日に神は「正義の若枝」を生え出でさせ、その若枝は公平と正義とをもってこの世を治めると言われました。16節には正義の若枝が治めるこの世界は平安になることが示されています。この16節は後で振り返りますけれども、14,15節の預言はイエス様の誕生によって現実のものとなりました。
イエス様の言葉と行い
イエス様は体や心が不自由な人々や病に罹った人々を慰めて癒してあげました。そして神の国が近づいたことを人々に宣教しました。イエス様は人間の罪をその身に負って十字架で死なれ、三日後によみがえって天に上られました。このイエス様を救い主と信じる人々が福音(良い知らせ)を人々に伝えてました。それを聞いてイエス様を救い主と信じた人々は罪から自由にされました。だからイエス様は神さまからの最高のプレゼントなのです。
イエス様を救い主と信じたキリスト者には聖霊が宿り、イエス様のことをいつも忘れないようにしてくださいます。キリスト者は罪を犯す存在ですけれども、そのことを悔いて、再び罪を犯さないように生きるよう神さまに祈るならば、天におられるイエス様が父なる神さまに執り成してくださり罪が赦されます。
イエス様はどのようなお方なのか
イエス様が復活されて天に上られてから数世紀の間はイエス様がどのようなお方なのかを模索する時代が続きました。すでに福音書やパウロの手紙などがまとめられて聖書が確定していましたので、それを元にイエス様を知ろうとする努力が続けられました。人間を罪や死の束縛から解放してくださったお方は神であるという理解はイエス様復活後の早い段階から共通の理解となっていましたが、イエス様は本当の人間なのかどうかについては多くの論争がありました。例えばイエス様は人間の姿をしていたけれど本質は神だったという理解がありました。しかし人間でなければ人間の苦しみを知り、そこから救うことはできません。一方でイエス様は人間であって神ではない、せいぜい預言者だという理解もありました。しかし人間であれば同じ人間を罪から救うことはできません。4世紀の偉大なキリスト者「ナジアンゾスのグレゴリオス」は啓示を受け次のように人々に伝えました。
教会に流布しており、聖書が述べていますように『通りかかる』[1]人が皆、盗人のような策を弄して[2]、良く導かれていた羊の群れを(詩78:52、エレ31:10)追い散らしたり(ヨハ10:12)、掠奪したりするのを許すといった最近の事態はいったいどういうことか、ぜひとも知りたいと思っております。
(略)
実に私どもは、人間を神性から引き離さず、独りの同じ方であると信じている。この方は、かつては人間ではなく、神であり子、代々に先だって存在された方(詩55:20、74:12、ヘブ1:2)であり、肉体ならびに肉体的なものと混在することはなかったが、終わりの時に、人間ともなられ、私どもの救いのために肉体によって苦しむ者、神性によっては苦しみ得ない者、肉体によって限定された者、霊によって限定されざる者、同時に地上の者かつまた天上の者、見える者であり知性(ヌース)によってのみ捉えうる者、把握しうる者であり把握しえぬ者となられた。それは同時に完全な人間であり神であるこの方によって、罪のために堕落した人間が再創造されるためである。
(略)
実に本性は、神と人間との二つである――なぜなら、魂も肉体もあるので――が、二人の子が存在するのでも、二人の神が存在するのでもない。パウロが人間の内なるものと外なるものとを定義[3]していようとも二人の人間が存在するのではないのと同じである。
(略)
知性を欠いた人間に希望を置く者は、まさしく知性を放棄した者であり、全体的に救われるに値しない者である。実にキリストに受け取られなかったものは癒されない。しかし、神と一つに結びついたものは救われる。アダムの半分だけが罪を犯したのであれば、その半分がキリストに受け取られ、救われたであろう。しかし、全体として罪を犯したのであれば、全体が生まれた方の全体と一つに結ばれ、全体的に救われることになる。(書簡101より)
つまり、イエス様が人間でなければ人間の苦しみを理解することはできないことになり、イエス様が神でなければ人間を罪から救い出すことはできないのだから、イエス様は本当の人間であり、本当の神であるということが明らかだというのです。このような神の御子が私たちに与えられたのがクリスマスです。
クリスマスは一番大切な人が来られた日
つい先日、G20(ジー・トゥエンティー)がインドネシアのバリ島で行われました。主要国の首脳が来ると言うのでその準備に余念がなかったことだと思います。受け入れるインドネシアは最大限のもてなしをしたことでしょう。
クリスマスは私たちにとって一番大切なお方が来られた記念の日です。教会に集う人が最大限の準備をするのは当然のことだと思います。この会堂もクリスマスのいろいろな飾りで飾られ、庭の木にはイルミネーションがつけられました。最近では一般のお宅の方が華やかなイルミネーションが点灯し、家の中もクリスマス用品で一杯かもしれませんが、教会は派手に飾り祭りとしてクリスマスを楽しむのではありませんから、シンプルにしてイエス様をお迎えするのにふさわしい飾り付けであることの方が良いのです。そしてこの奉仕をすることで私たちはクリスマスが来る期待に胸を膨らませています。神さまからの特別なプレゼントが届いたことを記念し、イエス様に罪の束縛から解放していただき救っていただいたことを感謝する喜びにあふれています。
しかし、もし私たちがどこにもまけないように飾ることに執念を燃やし無理して奉仕するならば、私たちの心から喜びが消え失せ、疲れが増し加わることでしょう。イエス様をお迎えすることは最大の喜びです。このことを忘れないようにしてクリスマスを迎えたいと思います。
イエス様の再臨
さて、ここまでエレミヤ書を中心にして証しをいたしましたが、ここでもう一つの御言葉についてお証ししたいと思います。ルカによる福音書21章29節から33節にはイエス様の再臨と神の国の完成の時のしるしについてのイエス様の言葉が書かれています。イエス様を信じ、イエス様の御後に続く人生を歩むキリスト者は罪赦されて生きることができるようになりましたが、この世界はいまだに罪の束縛のうちにあります。その結果、戦争や紛争が起こり、人々が虐げられています。しかし神はこの状態を良しとはされていません。神がお決めになった時に神は再びイエス様をこの世に遣わし、神の国を完成させてくださいます。その時が来る前に私たちにしるしが与えられます。そのしるしは大変恐ろしい様子で語られていますが、そのことの後に罪が滅ぼされて神の国が完成します。
キリスト・イエス様を信じるならば、その福音を信じるならば、私たちは現実の世界がどのように醜く荒らされていようとも希望を失うことはありません。私たちはキリストがすでに来てくださったように再び来てくださる終末の希望に生きることができます。聖餐式の時に歌う讃美歌『主の食卓を囲み』には「マラナタ」という言葉があります。これは「主よ、来てください」という意味です。
クリスマスは私たちを救ってくださる主が来られたことを記念し、再び来られることを待ち望む時です。このクリスマスを喜びをもって迎えたいと思います。
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[1] 詩編80:13 なぜ、あなたはその石垣を破られたのですか。通りかかる人は皆、摘み取って行きます。
[2] ヨハ 10:1 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。
[3] Ⅰコリ15:45-47 「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。