12月11日礼拝説教「苦しむ人をいやす神」

聖書 ゼファニヤ書3章16節~18節、ルカによる福音書1章24節~25節

クリスマスを待つ

今年もイエス様のご降誕をお祝いするクリスマスが近づいてきました。昨日は市民会館で『市民クリスマスin千葉2022』がおこなわれました。1990年代に一世を風靡したシンガーソングライターで牧師の陣内大蔵先生の歌とおしゃべりで大いに盛り上がりました。

しかしながら、イエス様がお生まれになる前の人々は救い主がこの世に現れるという神の約束を信じつつ待つという人生を歩んでいました。今でこそ私たちは「あといくつ寝ると」という思いでクリスマスを待つのですが、神の介入は人間の予定通りに来ることはありません。私たちはクリスマスを年中行事として過ごすのではなく、驚くべき神の御業に不意打ちを受け、あわてるという新鮮さを保ちつつ、その日を待ちたいと思うのであります。

神の約束は必ず果たされることを信じて待つ

本日与えられた旧約聖書は預言者ゼファニヤの預言を記録したゼファニヤ書です。ゼファニヤが活動した時代にユダヤは神以外のものを神として礼拝する風習が各地に残っており、シオンという別名で呼ばれる神の都エルサレムは人々から大切にされていませんでした。神ならぬものは今日では財産や名誉や地位などですから、今日の人々にもゼファニヤの預言の言葉は意味を持っています。

このような状況の中で、神は少数の神に従う人々を残しておられました。16節に「その日」という言葉があります。これは神が来られる日を表しています。その日に残りの者はシオンに「恐れるな、力なく手を垂れるな」と回復を呼びかけます。17節は人々が「主なる神はエルサレムのただ中におられて、勇士として勝利を与えられる。主はエルサレムを喜び、愛によって新たにし、喜びの歌をもって楽しまれる」と神から預かった言葉をエルサレムに告げています。特に18節に注目したいと思います。ここに書かれている「私」とは主なる神のことですが、「私はエルサレムで行われる祭儀を祝うことができずに苦しめられていた者を集める」と言われます。神ならぬものを拝んでエルサレムを軽んじている人々が多い中で、その日には神が残した人々を神は集めると約束されたのです。その人々はエルサレムから遠く離されていて、その他の人々からは辱められ重い恥とされていました。しかし神はその人々を用いて世界を罪から救い出すと約束されました。

エリサベトに起きた驚くべき出来事

次に新約聖書に聞きたいと思います。ルカによる福音書1章24節と25節には洗礼者ヨハネの母であるエリサベトが男の子を身ごもったことが書かれています。この子はエリサベトの夫であるザカリヤがエルサレム神殿で祭司の務めを果たしているときに天使から子どもを授けるという告知を受けてエリサベトが身ごもった子です。

ザカリヤは神さまから突然の不意打ちを受けました。それはエリサベトにとっても同じでした。実は、二人は苦しむ人でありました。当時は、祭司の夫婦に子どもが出来ないことは神の祝福から除かれている者というレッテルが張られていたからです。特にエリサベトはその事を重い恥だと受け止めていました。これは当時の社会に差別があったことを意味していますが、それでも社会の常識は彼女を苦しめていました。そしてエリサベトはその恥が取り去られることのない年齢に達していました。

彼女の苦しみは癒されることがないように思えました。しかし二人の日常の中に神が介入したのです。この神の介入はイエス様の母マリアが聖霊によって身ごもるという驚くべき神の介入に先駆けておこなわれました。

エリサベトは神を讃えつつ、そのことを周囲に証しすることもできたでしょう。しかし彼女は待つ者であり続けました。約束の時を待つために5カ月の間身を隠しました。エリサベトが妊娠してから6カ月目にマリアが聖霊によって身ごもり、その後に親戚のエリサベトの家を訪ねるという出来事が起こってエリサベトの妊娠が知られるようになりました。エリサベトは待ち続け、遂にその日を迎えたのです。マリアとエリサベトは神の業を讃えました。エリサベトはマリアに「あなたは女の中で祝福された方です」と証しし、マリアは神を讃える賛歌を歌いました。

特にエリサベトは苦しむ者であり恥を身に負っている者でしたけれども、神の思いがけない介入によって苦しむ者であったエリサベトは慰められました。

私たちにも驚くべき出来事が起きる

さて、エリサベトは男の子を授かって慰められましたが、私たちが経験する苦しみはその苦しみの原因が取り去られないこともあるわけです。その場合にも神は私たちに介入して慰めてくださるでしょうか。この問いに関して、私が見た映画のお話をさせていただきたいと思います。今日の週報の「牧師室から」に書いていることです。

映画の題名は『桜色の風が咲く』というものです。9才で失明し18歳で聴力を失った福島智さんとその家族の実話を元にした映画です。何不自由のない健康な子供が、3歳で右目、9歳で左目、18歳で両耳、と次々とその機能を奪われていきました。「奪われる」という表現がまさしく適当な、何の原因も因果もない理不尽な苦しみです。そして徐々に確実に視覚と聴覚を失っていく恐怖がありました。子どもの頃の智君が「神様はいるのかなあ。ぼくはナンニモ悪いことしてへんのに、だんだん目が悪くなるねん。」と言う言葉を聞く母親の辛い気持ちが伝わってきます。

聴力も失い絶望の底にいる彼をただ黙って抱擁する盲目の人がいました。その人は泣いていました。智青年にとって光と音が消え去り、世界が奪われた後に、お母さんが智青年と会話したいと切羽詰まって指6本を使って点字タイプライターを打つようにして会話する指点字というコミュニケーション方法を発見し、智青年は再び世界を取り戻しました。

これは絶望の底にいる智青年と母との間に神が介入された出来事ではなかったのだろうかと私には思えてなりません。

そして智青年は「本当の神があるのなら、苦しめてばかりもいない。僕をこのようにしたからには、何か大きな意味があって、僕に何かを託しておられるのではないかと思えてならない」という思いに達したのです。

智青年は視力も張力も回復しませんでしたが、神によって慰めを受けたと言ってよいのではないかと思います。

新しい心でクリスマスの不思議さを体験する

このことは当たり前の出来事ではありません。人間にとって不意打ちを受けたような驚愕の出来事なのです。これがクリスマスを待つということであり、まったく新しい心でクリスマスの不思議さを体験することです。私たちはクリスマスをこのような驚くべき神の御業に不意打ちを受け慌てるという新鮮さをもって迎えたいと思うのであります。