「わたしはそこにいた」 (2016年10月23日礼拝説教)

「わたしはそこにいた」
箴言8:1、22~31
ヨハネの黙示録 21:1~4、22~27

 2016年もあと2ヶ月と少しを残すこととなり、この1年を振り返りますと、これでもか、という程、多くの災害が起こったこと、また起こり続けていることに暗澹とした気持ちにさせられます。人の心が壊れているのではないかと思えるようなさまざまな事件も、枚挙に暇がないほどに日本そして海外でも起こり続け、貧富の差が広がり、悲しい事件のあまりにも多いことに、この私たちの生きている世というものは、どういう世界なのだろうと、改めて問うことが多くありました。
 先の敗戦の後、日本は奇跡的な復興を遂げ、私などの世代は、社会不安をさして感じることなく、世が平和であることを享受して、今まで生きてきました。世というものは基本的に善いものだと思っていました。世界を見渡すと多くの戦争が起こっており、言い知れない苦しみの中におられた方々があまりにも多かったことを知ってはおりましたが、自分の生きているところとは別世界の出来事のように思える無責任な傍観者でした。
 でもこの数年、世界で起こっている悲しみが、私たちが生きる国でも同様のことが起こりえるのだという切迫したことを感じるようになりました。自然が猛威を振るい、また政治権力が強行な姿勢で振る舞い、人の心も荒廃し続けている。そのようなことを肌で感じながら、鈍感なままに過ごせてきた若い時代には、なかなか実感として感じられなかった聖書の世界が、急速に我がこととして感じられるようになりました。
 聖書は人間の罪の問題を語りますが、それと同時に絶えず、世を支配する権力と世にあって虐げられ、苦悩の中にある人々のことを語っています。
 旧約聖書の出エジプトの出来事は、エジプトの国で奴隷となっていたイスラエルの民の嘆きが神に届き、主なる神が奴隷であったイスラエルの民を、エジプトの地から不思議な御業を通して救い出され、御自身の民とされた物語でした。
 それ以来、イスラエルは主なる神の民ですので、あくまで神中心であり、人間の王を持つことは長い年月ありませんでしたが、周辺諸国からの攻撃にさらされる中、人々は人間の王が必要だと訴えるようになり、イスラエルは王を持つようになります。その時、王を求める人々に、土師サムエルは、主の言葉を伝えました。サムエルが伝えた、王を持ったイスラエルに待ち受けていることは、民の息子や娘、ロバなどもすべて徴用されること。息子たちを軍人とさせ、また王のための耕作や刈り入れに従事させ、あるいは武器や戦車を作らされることになること。また娘たちは、料理女、パン焼き女として徴用されること。人々の最上の畑は王に没収され、王の家臣に分け与えられること。穀物も徴用し、重臣や家臣に分け与えられること。人々は王の奴隷となること。人々は自分が選んだ王のゆえに、泣き叫ぶようになること。このような預言でしたが、人々はその言葉を聞いても「我々にはどうしても王が必要だ」と訴え、イスラエルは王制を敷いたのです。神の民ではなく、「他のすべての国々と同じ」く、人間の王を持ち軍隊を持つ、謂わば「普通の国」になりたいと民が訴えたのです。
 その後は、預言のとおり、王という権力による人々の生活からの搾取があり、イスラエルの国がその罪によって滅びた後には、国を失ったユダヤ人は他国の支配の中に絶えず置かれて、世の権力に脅かされ、迫害を受け、苦しめられつつ生きることとなりました。自分たちが望み、選んだこととはいえ、人々の苦しみは甚大なものとなりました。王を求めたイスラエル、そこには人間の、神に希望を置くのではなく、人を見、人に望みを掛ける、人間中心の、人間の罪の性質がありました。世の権力に蹂躙される人々の生活の苦しみは、人間の罪の問題と密接に絡み合いつつ、神がそのひとり子を世に送られるほどの神の憐れみ、イエス・キリストの誕生と密接に結びついているのです。

 今日から教会の暦では降誕前。イエス・キリストのご降誕を見据え、私たちに顕された神の救いの恵みを、特に旧約聖書から聞く時となりました。降誕前第9主日、つまりクリスマス、主のご降誕まであと9週間となったことを表しています。また、日本基督教団が取り入れ、私たちの教会も取り入れているこの暦によりますと、教会の新しい一年を数え始める時が始まったことも表しています。
 そして今日与えられました御言葉は箴言8章です。
 旧約聖書の中には、「知恵文学」と分類されている文書があります。ヨブ記、箴言、コヘレトの言葉がそれに当たります。箴言には、短い格言のような戒めが多く、私たちの生活に分かりやすく関わる言葉が多いのが特徴です。

 知恵と言いますと、私たちは「生活の知恵」というような言葉遣いを日常的にしていますが、聖書に於いても、知恵文学のはじめの頃は、私たちが使う意味と同様の意味でした。
 箴言という書物は、古い文書から順番に並べられているのではなく、一番古い部分は、10章1節から22章16節と言われており、この部分には紀元前9~10世紀のソロモンの時代の格言が多く含まれています。例えば「口数が多ければ罪は避け得ない。唇を制すれば成功する」(10:19)「富を得ようと労するな。分別をもって、やめておくがよい」(23:4)など、人を幸いに導く生活原則や、行動規範についての教訓がちりばめられています。そこに表されている知恵というのは、物事に対処する能力であり、人間を鍛錬する方法であり、子どもたちのしつけ、自己をどう理解するか、またこの世の支配とは何か、などの探求が含まれています。

 しかし、バビロン捕囚という、イスラエル民族の最大の苦難を通して、人間の経験値、体験に基づく知恵でははかりきれない人生の領域があることを人々は知るようになります。人生に於けるすべての事柄に、納得のいく解決がいつも与えられるわけではないことを、イスラエルの人々は、民族の苦難を通して深く知ることになりました。罪の無い人々がどうして苦しみを受けるのかという問いは、人の心を悩ませる問題でした。なぜ、自分たちの民族は、これほどまで苦しみを受けねばならないのか、合理的な説明で片付けることが出来ない疑問だらけとなっていきました。人間は、人間存在を理性によって確かにしようとする欲求がありますが、理性によっては超えられない問題は余りにも多い。人生は神秘に満ちており、神の御前に人間の理性や知識は小さなものに思えます。聖書には、人生の不条理に対する人間の格闘も描かれています。

 それにしても、8章1節の言葉、不思議に思えませんでしょうか。「知恵が呼びかけ 英知が声をあげているではないか」と。今日お読みした8章を含みます1~9章というのは、箴言の中でも、一番新しい文章と言われており、紀元前587年のバビロン捕囚で、王国が失われて以降の文書であると言われているのですが、「知恵」が呼びかけ、声を上げている。「知恵」というものが、人格のある存在のように語られています。人生の体験、経験値を超えて、人間の理性では到達出来ない人生の問題に突き当たった時、聖書に於ける知恵は、神の神秘を告げるかの如く、知恵そのものが人格のある者として語られるようになるのです。

 今日は8章全体をお読みいたしませんでしたが、8章で語られている「わたし」というのは、「知恵」そのものが「わたし」と一人称で語っています。知恵が人間のように、知恵自体が語っているのです。
 7節8節をお読みいたします。「わたしの口はまことを唱える。わたしの唇は背信を忌むべきこととし、わたしの口の言葉はすべて正しく、よこしまなことも曲がったことも含んでいない」と。言い換えますと、「知恵の口はまことを唱える。知恵の唇は背信を忌むべきこととし、知恵の口はすべて正しく」と、知恵そのものが、人格のある主体として語られています。
 そして22節「主は、その道の初めにわたしを造られた」と。ここで語られる「主」というのは、父なる神を指します。主と言いますと、私たちはイエス様のことかと思ってしまいますが、旧約聖書に於いて「主」と記されているところは、原語のヘブライ語では、ヤーウェという父なる神の名前が記されているのです。
 22節は「ヤーウェは、その道の初めにわたしを造られた」、すなわち「ヤーウェは、その道のはじめに知恵を造られた」と語られているのです。神が創造に於いて最初に造られたのが知恵であり、知恵がひとつの「人格」として語られているのです。

 30節をお読みいたします。「御もとにあって、わたしは巧みな者となり 日々、主を楽しませる者となって 絶えず主の御前で楽を奏し」。創造のはじめに既に造られた知恵は、絶えず、主なるヤーウェと共にあり、御許にあって、日々主を楽しませる者として音楽を奏していたと申します。
 この「巧みな者」という言葉は、旧約聖書ヘブライ語の独特な理解の仕方に於いて、「棟梁」=集団の指導者とも、また「乳児」という意味にも捉えることが出来る言葉なのだそうです。神の創造のはじめから、「知恵」は神の相談相手のような役割をしていたのか、あるいは神が創造した世界を遊びまわる小さな子のような存在なのか、どちらにも取れるのだそうです。
「乳児」と意味することも可能と見るとき、どうでしょうか?「知恵」とは「神の御子」であると考えることが可能なのではないでしょうか。実際、キリスト教の理解に於いて、「人格化された知恵」とは、神の御子、イエス・キリストを表していると言われているのです。
 人格化された「知恵」とは、聖書に於いて、創造のはじめに既におられた神の御子イエス・キリストを表していると同時に、私たちもよく親しんでいるヨハネによる福音書1章では、「言葉」がイエス・キリストを指し示していることを語っております。お読みいたします。
「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。この言葉は、初めに神と共にあった。万物は神によって成った。成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった」と。
主なる神は万物の創造について、創世記第一章に記されています。混沌と闇の中、神の霊が水の面を動いており、神は言葉を発することによって、すべてのものを創造されたという記述です。ここには、はじめに「光あれ」と言われ、まず光が造られたことが語られています。神が言葉を発せられた、神の言葉とはイエス・キリストであった、これがヨハネ福音書の著者ヨハネの、そして、キリスト教会の理解です。イエス・キリストは神の言葉であられ、また神の知恵であるお方。このお方は、神の創造のはじめ、万物が創造される前に生み出されたお方です。
箴言8:23~25をお読みいたします。「永遠の昔、わたしは祝別されていた。大初、大地に先立って。わたしは生み出されていた 深遠の水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが、わたしは生み出されていた」。
 イエス・キリストは、神が万物を創造されるとき、神と共におられました。大初から、神と共にあられた永遠の神の御子であられるのです。さらに創世記1章2節には、「闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と、神の霊=聖霊が大初よりおられたことが語られています。
 キリスト教会は、神とは、父・子・聖霊なる三位一体の神であることを語り伝えております。神は万物をお造りになられるその永遠のはじめから、父として子として聖霊として三つにいましておひとりのお方であられました。イエス・キリストは、御許にあって「巧みな者」=指導者であり、また神の愛しく主を楽しませ、楽を奏でる可愛い神の乳児であられました。その故に、キリストは「神の御子」と語られているのでありましょう。
 このように箴言に於いて、また聖書に於いて語られている「知恵」とは、箴言8章で語られている、「わたし」とは、イエス・キリストであり、「知恵」とは創造のはじめから神と共におられた御子イエス・キリストを示す言葉なのです。

 この神の知恵であられるひとり子なる神を、父なる神は地上に遣わされました。はじめの人、アダムの罪によって神に背く罪という性質を持つようになり、神から離された人間、また罪ある人間が作る社会の不法な苦しみの中に、苦しみや悲しみを負って生きる人間を、神は限りなく憐れまれ、神は愛するひとり子を世に遣わし、神がどのようなお方であるか、神の愛は、どれほど、世の暗闇に生きる人々、悲しみの中にある人々、病気の人、虐げられ苦しめられる人々の上に向けられているか、神は如何に人間を救いたいと熱望しておられるかを、イエス・キリストを通して顕されました。
 神は義しい方であられ、罪を嫌われ、罪ある人間が神と共にあることは出来ませんけれども、御子を通して、御子がその命をかけて、神と人との間の和解の道を拓かれたのです。それは、神のひとり子が世に遣わされ、ひとり子を信じて、自分の罪を十字架の御前で悔い改めたすべての人の罪を、神の御子がすべて十字架に於いて負われ、御子が私たちが受けるはずの苦しみを、私たちに代わって受けられ、罪を罪として十字架の上で滅ぼされるという道でした。

 人間は、人間存在を理性によって確かにしたいと願う欲求があります。与えられた人生の中で、体験によって知る知恵、人間を幸いに導く生活原則や、行動原理などは確かにありましょう。しかし、人間には、生まれたままに与えられている能力や知恵に於いては、はかり知れないことがあまりにも多い。そして自分自身では乗り越えられない苦悩があります。
 しかし、人生の不条理、理不尽な悲しみや屈辱、人間の知恵では乗り越えられない苦悩を、死をも乗り越える道を、主なる神は、御子イエス・キリストを通して、神の知恵なるお方を通してあらわされました。それはイエス・キリストを救い主と信じ、主の十字架の御前に、自らを明け渡し、罪を悔い改め、罪赦された者として、新しく生きる道です。神の造られたこの世界は、罪の苦悩と共に、人間の思いを超えた神秘に満ちています。御子イエス・キリストの十字架こそが、神の究極の神秘であり、神の知恵であるのです。そして神の知恵とは、神の人間に対する憐れみそのものであるのです。

「わたしはそこにいた」と、その創造のはじめのことを語られる神の知恵、イエス・キリストは、御自身を信じ、従う私たちを限りなく憐れまれ、救ってくださいます。そして、私たちの人生のすべての時に、苦悩や悲しみが襲う時にも、「わたしはそこにいた」と言ってくださるお方です。
 イザヤ書48章にも、神の知恵なるキリストを思わせる御言葉があります。16節をお読みいたします。「わたしのもとに近づいて、聞くがよい。わたしは初めから、ひそかに語ったことはない。事の起こるとき、わたしは常にそこにいる。今、主である神はわたしを遣わし、その霊を与えてくださった」と。
 私たちが、私たちの理性や思いではどうにもならない問題が起こった時も、神の知恵なるイエス・キリストは「共にいてくださる」お方なのです。このことに、私たちは信頼し、たとえ、「分からない」と思える出来事に遭遇した時にも、共にいてくださるお方があることをしっかりと心に覚え、神の御心が明らかにされる時を待ち望みたいと思います。その中で、必ず私たちに問題を乗り越える「知恵」を与えてくださいます。そして新しい命、完全な救いへと導いて下さいます。

 イエス・キリストはどのような時にも、かならず「そこにいた」と言って下さるお方です。私たちが思いがけない苦難に出会うことがあっても、主は「そこにいてくださる」お方です。私たちは世にあって孤独ではありません。神の憐れみが、主イエス・キリストがどのような時にも、私たちと共にいてくださいます。