2月5日礼拝説教「光を輝かせよ」

聖書 イザヤ書58章1~2節、マタイによる福音書5章13~16節

同じ信仰を持つ人々と共に

先週は西千葉教会との交換講壇をおこない、土気あすみが丘教会には真壁先生が来てくださいました。私は後で礼拝ビデオを見ましたがユーモアにあふれる元気な声で説教してくださっていて皆さん喜ばれたのではないかと思います。交換講壇で感じるのは、私たちは一つの教会の枠の中で生きているのではなく、日本中、世界中の教会とそこに集う人々と一緒に同じ信仰を持って生きているということです。それこそ神の民という言葉がぴったりだと思います。

私は西千葉教会でマタイによる福音書5章1節から12節の「山上の説教」を取り上げて証しをさせていただきました。ちょうど土気あすみが丘教会で先々週の説教で示された御言葉と今日の説教の御言葉との間にある箇所です。山上の説教は、イエス様が心の貧しい人や悲しむ人などを「幸いである」と言われたことが書かれています。この人々は神に寄り頼んでいる人々、神を待ち望んでいる人々で、神はそのような人々を心にとめ、受け入れてくださっています。

地の塩・世の光

生きていく上での価値観は大切だと思います。一般にこの世の価値観は財産や地位や名誉に重きを置き、余計なことはしないで自分のやりたいことをするというものではないかと思います。それに対してイエス様が教えてくださった価値観は無償の愛であり、友情であり、豊かな交わりに重きを置き、他者と共に生きるために苦労を共にするというものだと思います。

先ほど読まれたイザヤ書58章2節では、「彼らが日々わたしを尋ね求め、わたしの道を知ろうと望むように。恵みの業を行い、神の裁きを捨てない民として彼らがわたしの正しい裁きを尋ね、神に近くあることを望むように。」とイザヤの口を通して神が私たちに語られた言葉を耳にしました。

「恵みの業を行い、神の裁きを捨てない」ということの具体的な行いは、少し先の6節と7節に書かれています。6節の途中からお読みします。

「悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。」

こういうことです。この行いはイエス様が教えてくださった価値観を土台にしています。山上の説教で「幸いだ」とイエス様が言われた人々は、いわば弱い人々、この世の中で小さくされた人々です。そのような人々がつながりを持つ。悪の誘惑からお互いを守り、束縛から逃れ、僅かなものでも分け合う。そういった生き方が「恵みの業を行い、神の裁きを捨てない」という生き方であります。しかもこのことを私たちの力や思いでするのではなく、「主の正しい裁きを尋ね、神に近くあることを望みつつ」行うことであります。

イザヤ書のこの言葉はマタイによる福音書5章13節から16節に書かれているイエス様の言葉にある「地の塩」や「世の光」として生きることではないかと思うのです。

イエス様は私たちに「あなたがたは地の塩である。」と言われます。この「地の塩」は隠れた働きを表しています。塩は多くの食材の中に僅かに入るだけで食材を何倍にも美味しくします。しかし塩味が強すぎて塩が自己主張すると食べられなくなります。私たちが日ごろ行う小さな奉仕は地の塩としてこの社会を豊かにするのです。その小さな奉仕は誰にも知られないかもしれない。もし誰かが見たとしてもそんなことはこの社会を良くすることに何の役にも立たない、とか助けることで自立しようとする気持ちを無くさせるなどの批判に遭うかもしれません。それでもイエス様が教えてくださった無償の愛、友情、交わりに価値を置き、神さまが私たちを導いてくださっていることを信じるからこそ小さな奉仕を続けるのではないでしょうか。私はそのような多くの人の隠れた奉仕が豊かな社会を作り、維持しているのだと確信します。

イエス様は塩について「だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」と言われました。塩がその塩気を失うなどということはあり得ません。すなわち私たちがこの世の役に立たなくなることはあり得ないということです。それでもなお、もしそんなことが起きるなら、それは私たちが私たちでなくなることを意味します。私たちが私たちであることをやめてしまう、つまり滅びるのです。

次に、イエス様は私たちに「あなたがたは世の光である。」と言われます。これは私たちの働きが世の人々の目に入るようにすることを意味します。これは「見える働き」ということができるでしょう。教会はこの世に神の国を示すように建っています。

その存在は屋根の上の十字架に象徴されています。昔聞いたことなのですが、ある捕らわれていた人が逃げて助けを求めた時に十字架を目印にして教会に助けを求めたというのです。これは教会が光を輝かせていることを表しています。教会があるということはすでに見える働きがそこで行われているということです。

西千葉教会は開拓伝道の幻を抱いて土気の人々と協力して伝道所を作りました。土気の地に十字架が立ったのです。教会が福音を伝え続けるのは、いわば悪魔の誘惑に惑わされている人々に、神が示してくださった人生の道を示すためです。悪魔の誘惑を簡単に説明しますと、神を忘れて自分の力で何とかしようとすること、神を試すこと、そして神を忘れて自分の欲望を満たそうとすることです。そのことが現実的な価値と思える財産、地位、名誉といったものを追い求め、勝ち組と負け組に分けようとする無益な競争を生みます。そして人を疑心暗鬼にさせるのです。

それに対して無償の愛や友情や交わりといった価値観が大切だということを行動によって示すことは「光を山の上に掲げ遠くからでも分かるように」したり、あるいは「家の高いところにある燭台に置いて周りを照らす」ことだと思います。この働きは福音という私たちにとって一番大切なもの、一番良いものを伝えるという働きであり、小さくされた人々と一緒にこの世の旅を歩んで行くことであります。

光は輝かなければなりません。16節でイエス様は「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」と私たちに告げています。私たちが良い行いをするのです。この世の価値よりもずっと素晴らしい福音を語り福音に生きるのです。しかしそれを見たり聞いたりした人たちが私たちを賛美するのではありません。その光を輝かせてくださる神に気づかざるを得なくなるのです。私たちがそのように神の光を反射して輝くことができるように、神は私たちを用いてくださいます。

弱い私たちにもできること

私たち自身が弱い存在であり、自分のことも満足にできていないのに他者を助けることができるのかという問いが私たちの頭をよぎります。これについて私たちが知らなければならないことがあります。現代日本では忘れ去られていることかもしれませんし、あるいはボランティア活動を通して新たにされているかもしれませんが、「貧しい人たちの方が分け合うことを知っている」ということです。ここで言う「貧しい人」は全く財産も食べ物もなく今日生きられるかどうか分からないという人ではなく、分けるものを持っているけれども多くを持っているのではない人々です。決して裕福ではないけれども分けることができるという人々は多いのではないかと思うのです。そのような人々もイエス様が「幸い」と言われる「貧しい人」に属しています。この認識があれば私たちは裕福だから何かをすることができるのではないことを理解できるのではないかと思います。

分けるものはお金でも物でも時間でも労力でもなんでもありです。実は私たちはすでに分けています。私たちは時間を使って教会に来て、献金をささげて、奉仕をして、それで喜んでいます。決して無駄なことをしたとは思っていません。教会がここに建っていること、そして私たちがここで礼拝していることは光を輝かせていることです。

人々は不信に思うだけではありありません。興味をもって見ている人々がいます。いったい中でどのようなことがおこなわれているのだろうか、とか中はどうなっているのだろうと言った具合です。もちろんすべての人がそうではありませんが、関心を持っている人はいるのです。

光を輝かせる

光を輝かせるということについて私は国境なき医師団の活動にこのことの典型を見る想いが致します。国境なき医師団は紛争地に医師や看護師を送り医療を提供する活動をしています。彼らは一つだけ譲れないルールを決めています。紛争地の様子を告発しなければ状況は改善されないということを痛いほど知った人々が決めたルールです。それは医療を行うだけでなく「声をあげる」ということでした。これを実現しようとすると各国の政府に援助を頼めないので、一般から寄付金を集めて活動することにしたそうです。最初の頃に言われた言葉は「素人のロマンチスト」と言う言葉でした。そんな理想を語ってもうまくいかないという意味でしょう。

それでも彼らはカンボジアでの虐殺を告発し国際社会にカンボジアで行われている人権侵害を知らしめました。日本では阪神・淡路大震災の時にいち早く支援物資を届け医師を派遣しました。この活動が評価され1999年にノーベル平和賞を受賞しています。授賞理由は「大惨事に際して声をあげて関心を集め、更にその原因を指摘することによって、人権侵害や暴力に反対する世論を喚起している」というものでした。

「声をあげる」ということについて、イザヤ書58章1節の「喉をからして叫べ、黙すな。声をあげよ、角笛のように。」という御言葉が思い浮かびます。何を叫ぶのかと言えば「背きと罪」を告発することです。

この世の価値観に重きを置かず、目に見えない無償の愛や友情や交わりといったイエス様が教えてくださった価値観に重きを置いて生活すること自体が、私は「声を上げる」ことになるのではないかと思います。

私たちにとっての「声をあげる」、あるいは「黙さずに、叫ぶ」ということは過激な発言を行うことではなく、「地の塩」としての小さな奉仕をおこないつつ、「世の光」として主を証しして人々を主なる神のもとにつれていくということなのだろうと思います。

私たちは奉仕者であり証し人

私たちはすでに「地の塩」であり「世の光」です。このことは、塩が塩でなくなったり、光が光でなくなることがないように、私たちが否定しても変わることはありません。そうであるならば私たちは自分たちの貧しさにもかかわらず、「地の塩」として小さな奉仕を喜び、「世の光」として主を証ししつつ、輝きたいと思います。