2月26日礼拝説教「誘惑の罠」

聖書 創世記3章1~7節、マタイによる福音書4章1~11節

現代の誘惑の罠

最近は強盗殺人事件などが起き、物騒な世の中になってきました。そして特殊詐欺事件は被害が後を絶ちません。最近では強盗団や詐欺グループの人集めにソーシャル・ネットワーク・サービスというインターネットの手段が使われていて、「闇サイト」や「闇バイト」といった怪しげな名前がニュースに出てきます。高齢女性を殺害し金品を奪った強盗殺人事件ではリーダーが外国の収容所にいて、その人物がそこから指示を出していたと疑われています。そして実行犯は事件ごとに「闇バイト」で募集した人間がその時だけ集まって、本名も住所も知らない者同士が強盗殺人をおこなったようです。まるでドラマの中で起きていたことが現実になりました。

「闇バイト」は短時間で高額の報酬が得られるという触れ込みで人を集めており、それに募集する人がいるというのですから驚きです。しかし一旦、闇バイトに手を出した人は本名や住所、そして親族の情報を提供していて、抜け出せなくなるそうです。「一度だけ、やってみよう」と思って登録すれば警察に捕まるまで組織を抜けることができません。まるで罠にかかったも同然の状態になってしまいます。

本日は受難節第1主日にあたり、創世記に出てくる蛇の誘惑と福音書に書かれている悪魔の誘惑から、誘惑の罠について考えてみたいと思います。

蛇の誘惑

創世記3章に蛇の誘惑の物語が書かれています。ご一緒に読んでまいりましょう。蛇は女性に「園のどの木からも食べてはいけない、って神さまが言ったっていうのは本当かい」と聞きました。1節です。果たして神の言葉はどうだったでしょうか。神は「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」と言われていました。2章16、17節に書かれています。蛇は狡猾にもこの言葉を完全否定の言葉にすり替えました。

女性は「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」と答えました。女性の言葉は微妙に神さまの言葉と違っています。いくつか違いがありますが、一番大きな違いは、神さまの言葉は「食べてはならない」という絶対の否定であるのに、女性の言葉は「死んではいけないから食べるな」という条件付きの否定になっていることです。

神がなぜ「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。」とただ一つの戒めを与えたのか。このことが大切です。これは神の愛です。人が自由でいることができるのは神と共にいる時ですから、神から離れないように一つの戒めを与えたのです。

しかし、蛇は「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」と言って神を貶(おとし)め、言葉巧みに「愛の戒め」を「律法の戒め」に変えてしまいました。人は神に愛されていることを自覚していれば神の愛によって示された戒めを守ろうとしますが、それが律法の戒めと変わると、人は神の愛や導きを忘れ禁止の戒めだけが頭に残るようになります。神さまがその人の中からいなくなってしまうのです。

それで女性の目には今まで何の魅力もなかった木がとても魅力的なものに変わってしまいました。彼女はどうしてもその実を手に入れたくなってしまい、遂にその実を取って食べ、一緒にいた男性にも渡して、彼も食べてしまいました。

この二人が捕らえられた罠は、神の言葉に聞き従わず蛇の言葉に聞き従ったことでした。そして人の心の中から神さまが消えてしまいました。

7節に「二人の目は開けた」と書かれています。実を食べるまでは、二人は神を見ていました。その目が人を見るようになり裸であることを恥と思いました。そして結局二人はエデンの園を追われてしまいました。

蛇の誘惑は神の言葉から人を遠ざけることでした。そしてそれに惑わされて人は神の言葉を自分たちを縛るものとして受け取るようになってしまいました。

悪魔の誘惑

次に新約聖書を読みたいと思います。マタイによる福音書4章にはイエス様が荒れ野で悪魔の誘惑を受けられたことが書かれています。悪魔はイエス様に3つの誘惑をおこないました。

第1の誘惑は40日間断食して飢えて死にそうな状態の時にイエス様に現れました。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。「神の子なら」とイエス様を挑発しています。飢えはまた、何かを手に入れたいという渇望を象徴しています。飢えという困難に出逢ったとき、神に頼らず自分で何とかしようと思う誘惑は私たち人間が経験する誘惑です。

一方でこの誘惑は私たちが石をパンに変えて欲しいという思いを神に願うということも表しています。「今、私はこれこれの困難に出逢っています。直ぐに助けてください」という祈りを私たちはしていないか、自分自身を省みなければなりません。

イエス様は悪魔の誘惑に対して「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という申命記8章3節の言葉を返しました。申命記には神は人を飢えたままにはなさらず、マナを与えられたことも書かれています。イエス様はこの神の言葉に信頼していました。神さまは飢えている者をそのままにはしておかれないお方である、このことに信頼しておられました。そしてもし神の御旨であるならば死さえも受け入れようという決意を持っておられました。

第2の誘惑はイエス様を神殿の屋根の端に立たせ「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」と言ったことです。ここで悪魔は聖書の言葉を用いて誘惑しています。詩編91編の言葉です。私たち自身が神を試そうとする誘惑に陥りそうになります。不幸の時にはすぐに助けて欲しいと願い、それを期待します。幸福の時にもそうです。「自分は金持ちになった。自分は家庭生活の幸せを味わっている。キリスト者で良かった」。このように考えることに慣れてしまうと、信仰を与えられてよかったということは、そういう幸せが与えられている時にだけ神さまを感じて満足することになってしまいます。それは謂わば「役に立つ神さまを信じて良かった」という信仰です。

「そのような思いで、本当に神さまを知ることができると思っているのか」。イエス様はそのように問われています。悪魔の誘惑は私たちを悪魔の考えにしてしまう力を持っています。自分にとって都合の良い神であることを望み、そうでなければ神を捨ててしまう、そんな信仰であれば、神を知ることはできないし、神と共に人生を歩むことなどできません。

イエス様の悪魔に対する答えは「あなたの神である主を試してはならない」というものでした。これは申命記6章16節の言葉です。イエス様はどうなさったか。イエス様は父なる神を試して生きる道ではなく、父なる神に信頼して死んで三日三晩陰府に横たわる道を選ばれました。神が私たちと共にいてくださることを人に知らせるために。私たちが病や困難や虐待の中で、決して孤独ではないことを知ることができるように、イエス様は自ら神の愛を示される道を選ばれました。

最後の誘惑は悪魔が「自分を拝めばこの世の栄華をすべて与える」というものでした。人はこの世の栄華の中で実にしばしば信仰を失います。試みに遭うのです。信仰を失わせるもののひとつは確かに苦しみです。しかし人がこの世の栄華を得た時にも信仰を失うことは多くあります。それは人に信頼されるようになる時であり、仕事が上手くいく時、それが地位や名誉といったもので評価された時、この世はきらめくような輝きを見せます。それは神がおられることを忘れさせるほどの魅力があります。

仕事が充実しているときに心が貧しくなるという経験を私はしたことがあります。私は長い期間、出張してお客様のところで礼拝に行く時間もないほどに働きました。仕事は困難ではありましたが順調で、充実していました。そしてようやく休みが取れて近くの教会に行って礼拝に出た時のことです。私は思いがけなくも神さまからの深い慰めを受けたのです。不思議な感覚でした。私は充実していたはずでした。私には不足はないと思っていました。しかし満たされてはいませんでした。実は自分の力を出し尽くして、疲弊してしまっていたのです。そのことにさえ気がつかないほどだったことに気づきました。礼拝に行く時間が取れないことを理由に礼拝に行かなかった、神さまの言葉を聞かなかったことが私を貧しい者にしていたことに気づきました。

私たちが悪魔の誘惑の罠にはまるのは、私たちがこの世の栄華に目が眩んでいる時です。悪魔の言葉は巧みです。「一度だけ私を拝むだけでいいのだ。そうすればあなたはこの世の栄華を自分のものにすることができる」。そう囁(つぶや)きかけるのです。そして「闇バイト」の誘惑に惑わされた者が犯罪者集団から抜け出せなくなるように、一度悪魔を拝んだ者は悪魔の支配から抜け出せなくなります。その人は自由ではなくなります。神のたった一つの「愛の戒め」を破ったアダムとイブがエデンの園から出されたように、神の愛の中から出されてしまいます。いや、私たちが自ら神の愛から出てしまうのです。

イエス様は悪魔に「退けサタン」、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と告げました。これこそ悪魔の誘惑を退ける最大の盾であり槍です。悪魔の誘惑を感知すること、それはイエス様が悪魔の誘惑に出会われた出来事を自分のこととして憶えておくことであり、心に何か悪い思いが芽生えた時に「退けサタン」と言うことであります。そしてまた「イエス様守ってください」と祈ることです。

神の言葉にとどまり続ける

イエス様はご自分でこの誘惑を経験されました。人間が誘惑に弱い存在であることを身を持って体験され、そしてその誘惑を退けられました。イエス様は私たちの弱さを知っておられます。そして私たちが償うことのできない数々の罪をご自分に引き受け命を献げることで父なる神に執り成し、私たちが滅びることのないようにしてくださいました。このイエス様が私たちを誘惑の罠から救ってくださいます。

悪魔を拝むのではなく、自分自身を神とするのでもなく、真実の神のみを拝み、神の御言葉に従って生きることにおいて、私たちはこの世において神の栄光のうちに生きることができるのです。