聖書 エレミヤ書31章1節~6節、マタイによる福音書28章1節~10節
ミュステリオン(謎)としての主イエスの復活
イエス様の死と復活によって神の愛が明らかになりました。
聖書に書かれているイエス様の復活の証言は謎に包まれています。この「謎」という言葉は英語でミステリーです。イエス様の時代のギリシア語ではミュステリオンと言っていました。このギリシア語の言葉は日本語では「秘儀」あるいは「奥義」と訳されます。つまりイエス様の復活そのものが「秘儀」であるということです。
大きな謎の一つはイエス様の復活が女性たちによって証言されたということです。当時は成人男性の証言しか信用されませんでした。それなのに本日読まれたマタイによる福音書ではイースターの明け方に墓に行った女性たちにイエス様の復活が示されました。当時の聖書記者たちはイエス様の復活を証言させるためであれば男性を登場させるべきでした。それなのに女性が復活の最初の出来事の証言者になっています。わざわざ証言能力がないとされていた女性たちが証言したことは、かえって復活の真実味を高めています。
女性たちが墓に行くと墓をふさいでいた石がわきに転がされ、そこには天使がいました。そして墓の中にはイエス様の遺体はないと告げました。天使を見ることができたという描写も謎です。それは天的なことが起こったことを表しています。私たちはこの謎をミュステリオンとして理解するより他はありません。理性で理解しようとしても無理なのです。私たち人間は科学の進歩によって何でも知っている気になっていますが、実際は知らないことの方が多いのです。一つのことがわかると更に疑問が見つかると言った具合に決してすべてを知ることはできません。
このことを偉大な神学者は「復活は人間の理解力ではどうにもならない出来事である。この証言については信じるか信じないかという選択しかありえない」と言うことを書いています。謎あるいは秘儀はいつまでも解明されることなく存在するのです。もしその謎が解明されれば、それはもはや謎ではなくなります。
復活がもたらしたもの
そうすると私たちにとって意味を持つのはイエス様の復活がもたらしたものは何かということです。ひと言で言うならば、これは「地上で与えられている唯一の究極の希望」だということです。この希望はこの世からは出てきません。人間が作り出せる希望ではありません。この世に属するものではないからです。
第一に、イエス様が復活するということは、イエス様は人となられた神の御言葉であるということにほかなりません。この神の御言葉は死の呪いに囚われた肉から死の呪いを打ち破られました。イエス様の復活とは歴史の中に置かれた大いなる疑問符であり、感嘆符です。それは歴史の中心点そのものであり、その中心点から不思議な光がさしています。私たちがこの光を見るか見ないかにおいて信仰か不信仰かの決断がなされる、その様な中心点なのです。私たちが「滅び去る儚い命」に留まるか「永遠の命」を見つけるかの決断に立たされる事柄です。
第二に、イエス様の復活はイエス様によって信仰へと呼び覚まされた人間の霊的な復活だということです。捕らえられ十字架で死なれたイエス様を見て、うなだれていた女性たちや弟子たちがイエス様の復活を知って信仰へと呼び覚まされました。20世紀の偉大な神学者カール・バルトはゲーテの言葉を引用してこのことを説明しています。「キリスト者は主の復活を祝う、というのもその人たち自身が復活だからである。」という言葉です。私たちが困難に出逢ってどのような努力も無駄であり絶望しているから、だから信じるしかないという場合においてのみ、神の言葉であるイエス様の復活が希望を与えるのです。それを私は絶望の先の希望と言いたいのです。人間的にはまったく改善の見込みがなく悪くなるばかりの状況で、苦しみの中にいても、イエス様の復活を信じることによって神がお見捨てにはなっておられないことに希望を持つことができる、その様な希望が見えてきます。
第三に、イエス様の復活は約束であり、それは私たちの復活もまた約束であるということです。神は決して私たちを見離さないということ、愛し続けるということをイエス様の復活を通してお示しになられました。この約束は絶望の先の希望においてのみ知ることができるようなものです。「囚われた人にのみ解放があり、死んだ人にのみ復活がある」。この当たり前に思えることに秘密が明かされています。地上を歩かれたイエス様が言われた「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マル 2:17)を思い出します。神は弱い者、虐げられている者を、そして死の恐怖に打ち震えている者をお見捨てにはなりません。そのことがイエス様の復活によって示されています。
私たちの復活―新しい生
この後、お二人の方が信仰を告白して洗礼をお受けになります。洗礼は新しい生に生まれることですから、復活であります。古い自分が死に、神さまに従う新しい自分が生まれる。絶望の先の希望を見る者として、忍耐強く生きていくことを良しとする生き方を神が支えて導いてくださる。洗礼によってこのことが確信となるのです。ここにお集まりの皆さんは洗礼を受けている人もそうではない人も、この誕生の証人です。これからのお二人の歩みが父なる神さまとイエス様と聖霊さまによって導かれることを祈ります。
復活した者としてこの世に生きる
イエス様は復活を知った女性たちに「ガリラヤへ行くように」弟子たちに伝えなさいと言われました。ガリラヤは楽園ではありません。その地は異教の土地であり、辺境の土地です。このことは私たちが洗礼を受けて新しく生まれても、この世の現実のただ中に立たされることを意味します。しかしもはや私たちは古い私たちではありません。神さまの愛を知り、イエス様の恵みを受けることを知った新しい私たちです。困難に立ち向かうことのできる勇気と主のもとに休ませていただく慰めとをもって、神さまが与えてくださった希望に生きる者となったのです。