聖書 使徒言行録2章14a,22~32節、ヨハネによる福音書20章19~23節
復活は人には理解できないこと
先週はイエス様の復活を祝うイースター礼拝をおこない、二人の姉妹が受洗されるという恵みにあずかりました。私たちのうちに大きな喜びがあり、きっと天にも大きな喜びがあったことだと思います。
先週は子どもの教会もあり、久し振りに子どもたちとそのご両親が来てくれました。子どもたちへのお話で私が「イエス様が復活したって信じられる。信じられないよね」と言いましたら、みんな神妙な顔つきになりました。私は笑ってくれるかなと思っていたのですが、まさか牧師がこんなことを言うなんてという顔をされて、私がびっくりしました。きっと子どもたちは何年も教会に通って聞いていて、教会ではイエス様が復活しましたということを聞いていたからでしょう。
復活は信じられないことだという以外に、単純な言い方はほかにありません。当時の人々でさえ、説き明かすことも、書き記すことや説明することもできませんでした。聖書に記したことが精いっぱいだったでしょう。どれだけ言葉を費やしても、結局は聖書に書かれていることを繰り返すだけしかできなかったと思います。イエス様の復活はすべてが神さまのなされた業であって、そのようなものを人間が理解することはできないからです。
私が子どもとその親に「信じられる?信じられないよね」と聞いた理由は、復活は謎であり続けるからです。この謎とは英語でミステリー、その語源であるギリシア語ではミュステリオンで、その意味は「秘儀」とか「奥義」ということです。秘儀や奥義は人間には明らかにはされません。しかしそれは「しるし」であり続けます。
弟子たちに現れたイエス様
本日与えられたヨハネによる福音書20章19節から23節の出来事は最高に希望に満ちた出来事ですが、一方で非常に理解し難いものの一つでしょう。イエス様が十字架にかけられて死んで葬られてから、弟子たちは家の戸に鍵をかけてじっと潜んでいました。ユダヤ人たちが自分たちを捕まえるのではないかと恐れたからでした。生きた心地がしなかったことでしょう。
そこにイエス様が来たと書かれています。鍵がかかった家の中にどうやって来られたか、それは超能力で壁をすり抜けたとかいうことではありません。神の出来事として弟子たちの真ん中に立たれたということであって、どのようにしてかは謎のままです。
安息日が明けた日の夕方にこのことが起きたと書かれています。これはイエス様があらかじめ告げていた通りではありました。イエス様は死なれてから三日目によみがえると弟子たちに告げていました。しかし弟子たちはそのことを受け止め、理解することも、信じることもできてはいませんでした。
ここで思い出すのは、イエス様が天に昇られた後の弟子たちは熱心に祈ったということです。この時には弟子たちには確信が与えられていました。弟子たちはイエス様が天に上げられる時、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」と告げられました。弟子たちはこの言葉を信じて集まり祈っていたと書かれています。
しかしイエス様が十字架で死なれてから、弟子たちは期待をしていませんでした。期待をしていないというより絶望していたと言った方が良いかもしれません。彼らは恐れに取りつかれていました。ですから、イエス様が想定外の形で現れることは彼らにとっては驚きであったことでしょう。
その人がイエス様であることは復活のイエス様が傷つけられた両手とわき腹をお見せになったことで分かりました。これは夢に現れたとか、幻として現れたといった精神的なものではなく、見ることや聞くことができて触ることができる存在として弟子たちの真ん中に現れたのです。イエス様は弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と二度言われています。この言葉は当時の挨拶の言葉でした。つまりイエス様はあたかも今まで弟子たちと一緒にいて少しだけ離れていたかのように、いつもの日常を続けていたということです。
イエス様であることは顔や話しぶりなどで分かったと思いますが、その手とわき腹には十字架で死んだときの傷が残されていましたから、弟子たちは大いに驚きながらもイエス様が復活されたことを喜びました。
イエス様は彼らに派遣の言葉を告げました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 この言葉は、イエス様自身が父なる神から遣わされた者であることを示しているとともに、弟子たちも遣わされた者であることを示しています。私は礼拝の最後に派遣の言葉を告げますが、これはこのことから来ています。私を含めて私たちはこの世に遣わされた者として、この世界に居るのです。
弟子たちがイエス様を宣べ伝えるためにこの世へと出て行くことができたのは、このイエス様との出会いがあったからです。弟子たちはもはや恐れてはいません。死をも打ち破った復活のイエス様、キリストがいてくださるからです。
謎の言葉に込められた復活のしるし
イエス様は弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われました。そして「だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と弟子たちに言われました。この言葉もまた謎に満ちた言葉です。この言葉はギリシア語原典ではただ4つの単語で書かれています。それはἄν τινων κρατῆτε κεκράτηνται.(アン・ティノーン・クラテーテ・ケクラテーナイ)。直訳すれば、「あなた方が保持するものは何であれいつまでも保持され続ける」となります。新共同訳や他の訳や英語の訳でもこれは「だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と訳されていますから、この解釈は正しいわけです。ただし、私はイエス様がもっと広い意味でこの言葉を語ったのではないかと思えるのです。
直訳の言葉から考えられることは今日(こんにち)まで続いている礼拝のことです。今日(きょう)も私たちは礼拝堂やパソコンの前に集まり礼拝をしています。「礼拝とは何でしょうか」。こういう問いを発してみますと、当たり前に行っている礼拝について改めて考えさせられます。
使徒言行録から初期の礼拝のことを窺うことができます。本日与えられた使徒言行録2章にはペトロがおこなった説教が記録されています。この説教のポイントは次のようにまとめられます。
「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされたお方です。このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存じのうえで、あなたがたに引き渡されました。あなたがたはこのお方を十字架につけて殺してしまいました。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。わたしたちは皆、そのことの証人です。」
この説教から私たちはイエス様を宣べ伝えるということのエッセンスすなわち本質を知ることができます。それは一言で言えば「イエス様を想起する」ということです。「イエス様を思いだす」ことです。この復活のイエス様は今も生きてお働きになっておられるということです。
初代教会の人々はイエス様を想起するために、イエス様が定められたことを忠実に行いました。それはイエス様のことを言葉で伝えることと、洗礼、聖餐のふたつの聖礼典を執り行うことです。これが〈イエス様の記念のわざ〉です。
「わたしの記念としてこれを行いなさい」とイエス様に言われた聖餐を初代教会は忠実に守りました。このことは聖書の中に10か所以上書かれていますが、たとえばマルコによる福音書14章22節以下には次のように記されています。
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」
初代教会の人々はイエス様がこのように言われたことを守り続けました。「イエス様を記念する」とは、地上を歩まれたイエス様を記念することと、天に昇られて世を支配しておられる復活のイエス様、すなわちキリストを思うことのすべてが含まれています。
礼拝に参加することによって、私たちは神がおられることを実感させられます。その神の御前で私たちは罪の自覚とその告白に導かれます。そして聖霊の働きのうちに、イエス様の十字架と復活によって成し遂げられた罪の赦しを受け、救いの福音に生きるものに作り変えられ、宣教のために遣わされる者になります。
礼拝において復活の主に出会う
私たちは使徒たちのように直接には、よみがえりの主を見ることはできません。しかしながら、私たちなりに、間接的に、すなわち初代教会においておこなわれていた「聖書の説き証し」と「証言」と、「宣教の告白」を通して、私たちもまた、復活のイエス様を見ることができるのです。復活のイエス様を見ることなしには、誰も喜ぶことはできません。主を見る者は、喜ぶようになるのです。どうしてそのことが、ここにいる私たちにも起こらないことがあるでしょうか。私たちもまた、皆、聖書に証しされている復活のイエス様を見ることができます。そしてまた、私たちも皆、そのように喜ぶことを許されています。神は私たちに、そのことが起こるようにして下さいます。
礼拝は復活のしるしです。イエス様は教会にこのしるしを刻まれました。教会はこのことを保持し続けます。私たちは礼拝に刻まれたイエス様の復活のしるしを保持し、イエス様を思い起こし続け、このことを証言し続けるのです。