5月21日礼拝説教「イエスは祈られた」

聖書 使徒言行録1章6~11節、ヨハネによる福音書17章1~11節

共同の祈りと個人の祈り

毎週水曜日の朝10時30分から聖書を読む会をおこなっていて、その日の箇所を読み終えると、祈りの課題を元に祈りを合わせています。課題は教会のいろいろな働きについて、高齢者・病気の人のため、この近隣の人々の救いのため、コロナ終息のため、困難な状況にある人のため、世界の平和のためなど様々です。これらは執り成しの祈りです。

そしてまた、私たちは一人で祈ります。その時の祈りは個人的な願いや、家族のための願いなどが含まれています。何かの試験が控えているときには合格しますようにと祈り、病気になれば早く回復するように祈ります。祈っている時、個人的な祈りを献げるだけでなく、神を想い、人々のことを想って祈るのですから、このような祈りも神さまは聞いてくださいます。祈りの場には聖霊がお働きになっておられます。

イエス様の祈りはどうだったでしょうか。イエス様は色々な時と場所で祈られました。先ほど読まれた箇所では、イエス様は私たちのために祈っておられました。イエス様の執り成しの祈りはすべての人のための祈りでした。

永遠の命を与えるイエス様の祈り

ヨハネによる福音書17章1節から読んでまいりましょう。ここに至るまでに、イエス様は弟子たちに向かって話をしていましたが、ここで目を天に向け、天を仰いで言われました。これはイエス様の祈りです。

私たちは今、ちょうどエマオに向かう二人の弟子のようにイエス様が地上で人として歩まれた歩みの一こまを思い出しています。イエス様はこれから捕らえられて十字架の道を歩まれます。イエス様は神の定められた「その時」が来たと言われるのです。イエス様はイエス様を信じる人々のために祈りました。ここでイエス様はすべての人にご自分を信じてもらいたい、そして充実した人生を歩んでもらいたいと願っているのですから、この祈りはすべての人々のための祈りです。

まず祈られたのは「栄光を与えてください」ということでした。これは神さまがイエス様に光を輝かせるようにという意味で、その栄光を見た人々、すなわち私たちが神の栄光を見るためです。その栄光とは「捕らえられ辱められ、無残にも十字架で殺されること」ですから、この栄光は当時の人々が理解できなかったし、私たちも理解できなかったことです。そのことが理解できるようになったのはイエス様の復活によってであります。私たちの身代わりになって死なれたことによって私たちに命を与えてくださったのです。この「命」が何であるかは、死とは何かを考えることによって知ることができるでしょう。聖書の中には3種類の死が書いてあります。

第1の死は、生きながらの死です。肉体的には生きているのですが、しかし死んでいる。エフェソの信徒への手紙2章1,2節にあるように、神に不従順な霊に従い、憎しみやねたみや肉欲や貪欲や、悲しい思いが支配しているときに、その人は生きているけれども死んだようになる。パウロはローマの信徒への手紙7章24節に「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」とこの死のことを書いています。このことが第1の死です。

第2の死は肉体の死です。この死には3つの特徴があります。一つはどんな人でも死ななければならないということ。二つ目は死ぬとすべての所有物が意味を持たなくなり赤裸の魂にされるということ。そして三つめ、死はやり直しをするチャンスを奪います。

そして第3の死は、たましいの死です。これは「永遠の死」と言っても良いでしょう。ヨハネの黙示録9章6節には「死にたいと思っても死ぬことができず、切に死を望んでも、死の方が逃げて行く。」という言葉が書かれています。私たちが肉体の死を通っていくと、私たちは罪の呵責を感じるようになります。忘れていたことまで思い出し、私は何という汚い、何という不義な、なんという惨めな人間だろうかと、罪の呵責を感じるのです。そんな恐ろしい死と出会わなければならなくなります。

生きている時にも死が訪れることがあり、だれでも肉体の死を一人で迎えなければならないし、、罪の呵責を抱いたまま死ぬことになれば永遠の死が待ち受けています。

この死のことが分かったならば「命」が何であるかが分かってきます。「命」とは神を知り、神によって私たちの罪が贖われて罪を赦されて生きることです。もはや生きながら死を迎えることは無くなります。肉体の死の時に一人ではないことを知っている者は安心して死を迎えることができるでしょう。また悔い改めて罪赦され、永遠の命に生きることができるようにしていただけます。

神の御子であるイエス様はこの「永遠の命」を与えることがお出来になります。イエス様以外の何ものによってもこの永遠の命を得ることはできません。なぜならイエス様が私たちの罪を贖ってくださったからです。イエス様を信じること、そのイエス様の罪の贖いを信じること、これによって永遠の命が私たちに与えられます。

私たちを一つにするイエス様の祈り

さて、イエス様はよみがえった後、天に上げられ、私たちの目に見えなくなることを弟子たちに暗示しつつ、神に「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」と祈られました。これは6節から11節の祈りの中心にある祈りです。

イエス様を信じる人々、すなわちすべての人々を守ってくださいと、イエス様は祈ってくださいました。神さまが私たちを守るとは、私たちが神を信じ、神とイエス・キリストが一つであるように、私たちも一つになることです。神とキリストは聖霊の愛の交わりの内にあります。この愛は無償の愛、見返りを求めない愛、与える愛です。神とキリストの間にある愛の交わりの内に私たちは招かれ、そこに居続けさせていただけるのです。

神が与えてくださる無償の愛を私たちが受け止め、一つとなるために、私たちの心の中にこの愛を受け止める余裕がなければなりません。そのためには心を空っぽにして、神の無償の愛を受けられる状態しておかなければなりません。心がいろいろな思いや煩いで一杯ならば、神の言葉は心の中に留まることはないでしょう。神は私たちに自由を与えてくださって、自由のうちにご自分を信じるようになさっていますから、私たちが心を空にして神の言葉を聞くならば、神の言葉が私たちの内に留まり、私たちに永遠の命が与えられ、私たちは神の無償の愛のうちにひとつとなります。

13世紀から14世紀に活躍した中世ドイツの司祭で神学者のエックハルトは「神は義なる人を自分自身と等しいものとして愛するのである」と言いました。義なる人というのはキリストを救い主として受け入れ、自分を空にする人と言って良いと思います。そのような人は神がご自身と等しいものとして愛してくださると言うのです。この言葉を「神は人をとても優れた者として愛してくださる」と言うふうに受け止めてはなりません。「ご自身と等しい者」という言葉にある「等しい」ということが大切です。無償の愛が求めているのは優れているという状態ではなく、等しいということなのです。

この世は優れたものを評価し重んじます。そして人が支配する時に使うのは権力です。しかし神は人をその根柢において等しいものとしてお造りになられ、そのように私たちと接してくださいます。そして神が私たちを支配する時に使うのは「無償の愛」の力です。

この世の価値観に従う信仰とは交換条件の信仰と言えます。すなわち善い業なら何でもするのと引き換えに、神は気に入るものを与えてくださるだろうという信仰です。神はこのような信仰を厭われます。ホセア書6章6節には「わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。」と記されています。

神とキリストの無償の愛の交わりの内に私たちが招かれ、そこに留まるならば私たちは争いや不仲を乗り越え、無償の愛の内に一つとなります。これは現実だけを見ている人には理解することはできません。必要なことは、神を愛し、自分を愛するように他者を愛する信仰です。この信仰は私たちが目を天に上げ、神に向かって心を空っぽにすることで与えられます。イエス様が祈ってくださったのです。この祈りほど確実なものはありません。

イエス様は天に上げられ、私たちの目には見えなくなりました。しかし私たちに聖霊を降してくださいました。このお方が私たちを神の無償の愛の内に招き、そこに留まらせてくださいます。

永遠の命と無償の愛

イエス様は私たちを守ってくださいと祈り、永遠の命を与えてくださいました。「命」とは神を知り、神によって私たちの罪が贖われて罪を赦されて生きることです。そして永遠の命とは神の言葉であるイエス・キリストを知ることです。聖書の御言葉の中にイエス・キリストが証しされています。

私たちに聖霊が降ると私たちは力を受けます。この力とは権力ではなく無償の愛の力です。そして神は私たちを守ってくださいます。私たちが神とキリストが一つであるように、一つとなり、これを保ち続けることが出来るようにイエス様が祈ってくださいました。